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日本人の足跡−沢田豊

第6回

以下は産経新聞のHP、産経Webからの転載です。


【日本人の足跡】
平成 13年 (2001) 4月25日[水] 大安


日本人の足跡(91) 沢田豊(1886−1957)6


サーカス芸人
【厳しい冬】
戦火に砕かれた常設劇場

 ようやく、平和が訪れた。一九一八年十一月、欧州大陸に混乱を招いた第一次世界大戦は終結した。

 沢田豊は、三十二歳になっていた。スイスにいても、なんとか生活はできた。だが、芸人・沢田はドイツに戻った。華やかなスポットライト、満場の拍手の虜(とりこ)になった体験は、そう簡単に沢田から消えるはずがなかった。サラザニ・サーカスに、再び籍を置いた。

 「あのころのブームは本当にすごかった。サーカス芸人以上のスターはいなかったのじゃないか」

 今なお現役芸人としてスポットライトを浴び続けるコナード・スラノ氏(九二)は、私が訪れた冬のベルリンで、言った。

 敗戦で打ちのめされたドイツは当時、物不足、インフレ、失業…と混乱の極にあった。そんな状況だったからこそ、大衆文化が目覚め、空前のサーカスブームが訪れていたのだという。

 スラノ氏との出会いは、偶然だった。沢田が出演したベルリンの名門劇場「ヴィンターガルテン」を訪ねたときに、九十二歳の現役エンターテイナーがいると教えられた。

 「ひょっとしたら、沢田のことを知っているかもしれない」

 私は、公演終了を待った。そして、少し期待を膨らませつつ、舞台から降りてきたエンターテイナーに話し掛けた。

92歳の現役エンターテイナースラノ氏(ベルリン) −−沢田豊という日本人芸人を知っているか

 スラノ氏 「サワダ? 日本人か。ああ、覚えているよ。ステージが終わって一緒にビールを飲んだこともあったな」

 −−どういう芸を披露していたか

 スラノ氏 「覚えていない。今、ヨーロッパにいる東洋人はほとんど中国人だが、あのころはサワダ以外にも日本人が何人かいた。サワダが大変な人気アーティストだったのは記憶にある」

 当時の沢田を知っている芸人の出現に興奮したが、スラノ氏はそれ以上に詳しいことは覚えていなかった。

 沢田は、時代が求めるままにステージに打ち込んだ。命懸けの芸も披露した。三十六メートルもある柱の上にのぼって、消防の出初め式のように「田のぞき」や「しゃちほこ」「大の字」を演じてみせた。

足技などを披露する沢田 そして、復活を遂げたサラザニ・サーカスは、南米、ブラジルへのツアーも決行した。今に伝わる沢田本人の言葉の多くは、このブラジル公演中に現地の邦字新聞『日本新聞』に連載した記事に見えるのである。

 平穏なサーカス三昧(ざんまい)の日が続いた。しかし、また、戦争が沢田を襲った。ナチスの台頭だった。

 第二次世界大戦が始まると、一九四五年二月十三日から二日間、サラザニ・サーカスの常設劇場「サラザニパレス」のあるドレスデンは、無差別爆撃を受けた。一般市民約十万人が死傷したといわれる大空襲だった。

 常設劇場も、一瞬のうちに砕かれた。団そのものも事実上、消滅した。沢田はこのころ、六十歳になろうとしており、体力的な限界も近づいていた。四五年四月、ドイツ東部のライプチヒで沢田のラストステージが行われたという。最後という認識もなく、セレモニー的なものがあったという記録もない。淡々とした静かな幕引きだったらしい。

 空爆は日増しに激しくなり、五月、ドイツは降伏文書に調印した。

 翌月の六月十三日だった。雲一つない晴天のこの日、沢田宅にソ連(当時)兵が訪れた。

 「外国人はすべて本国に送還されることになった。即刻ここから出なければならない。今から二十分の時間をやるから、すぐに荷物をまとめなさい。あなたたちを日本に返します」

 唐突な帰国命令である。だが、沢田には安堵感もあったという。

 「あの時から私たちの不幸な生活が始まったのですが、その時点では父は日本に帰れると思い、喜んでいました」

 二男のマンフレッドは、『海を渡ったサーカス芸人』の著者で、サーカスプロデューサーの大島幹雄氏に、こう語っている。

 何日過ぎただろうか。すし詰めの汽車に揺られて辿り着いた満州・新京(現、長春)。沢田は、帰国申請のため、すぐに日本大使館に出向いた。日本に戻ることしか頭になかった。ところが、館員からは意外なこたえが返ってきた。

 「あなた以外は、みんな日本人ではないじゃないですか。家族はみな日本人の顔をしていないし、日本語だってできないでしょ。帰っても苦労するばかりですよ。ドイツに戻ったほうがいいのではないですか」

 さすがの沢田も狼狽(ろうばい)した。大使館で執拗(しつよう)に食い下がったが対応は変わらず、中国大陸に取り残されることになった。

 しばらくたった八月八日、ソ連は日本に宣戦布告し、満州への爆撃を開始。新京を占領した。ロシア語が話せる沢田のところへは、連日のようにソ連兵が押しかけた。

 「女を紹介しろ…」

 八月十五日の日本の敗戦後、沢田は満州で文字どおり、「厳しい冬」を迎えたのだった。(奈良支局 田伏潤)

≪年表≫

 1914(大正3)第一次世界大戦勃発。スイスへ逃げる

 1915(大正4)スイスのビール工場で勤務

 1918(大正7)第一次世界大戦終結。サラザニ・サーカスと再び契約結び、ドイツへ戻る

 1926(大正15)国際芸人協会(36000人)理事に就任クローネ・サーカスと契約結ぶ

 1928(昭和3)サラザニ・サーカスへ

 1934(昭和9)南米公演へ

 1936(昭和11)ドイツに戻る

 1939(昭和14)第二次世界大戦勃発

 1945(昭和20)2月、大空襲でサラザニパレス崩壊

       6月、送還命令でドイツから満州へ

▽『日本新聞』と沢田 沢田豊は、ブラジルの邦字新聞『日本新聞』への執筆などを通して、多くの言葉を残している。

 同紙は、沖縄出身の翁長助成が一九三二年にサンパウロで創刊。当時ブラジルでは、『日伯新聞』と『伯剌西爾(ブラジル)時報』が二大邦字新聞だったが、『日本新聞』は日系二世問題で他紙にない持ち味の記事を掲載して人気を集めたといわれている。

 『日本新聞』が初めて沢田らサラザニ・サーカスを取り上げたのは、南米ツアー初日の一九三四年八月三日。サンパウロ公演だった。

 〈一万噸(トン)汽船二隻を持つ 世界一のシルコ(サーカス) サラザニ団来る〉との見出しで一面に報じ、〈サラザニが世界一と云(い)うのは、その規模の大なる点に依る。同団は約五百名の団員から成り、宛然小都市以上の組織と設備を有し、中には靴屋さんから鉄工場まである〉などとその規模に、記者が驚愕(きょうがく)した感想とともに記事は続いている。

 同紙は、一九三四年八月二十二日から五カ月にわたる十六回のサーカスについての連載を掲載。『SARRASANI E SAWADA 流轉(るてん)三十年のサーカス生活を語る』と題し、沢田本人が執筆した。記事は、日本出国の様子からロシア巡業、サラザニ・サーカスとの出合いなど詳細な記録となり、存命中に紛失した沢田本人の日記などをもとに執筆された。その後も『想い出の国々』や『異国ケンカ歩き』などのタイトルで、沢田について記事化されている。


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