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【連載】長谷川 濬―彷徨える青鴉

第1回 長谷川濬略譜

(1)父と兄弟たち

 一九〇六(明39)年七月四日、長谷川濬は、長谷川淑夫(清から改名)と由紀の三男として、函館市で生まれている。函館で生を受け、少年時代をすごしたこと、そして長谷川家の血を受け継いだこと、それは濬にとって、宿命ともいえることであった。まずは教師からジャーリストと転身、北一輝にも大きな影響を与えたといわれる父淑夫の遍歴を見てみよう。

佐渡から函館へ−父長谷川淑夫(清)について

 父の故郷は、佐渡である。長谷川家は祖父の代まで幕府金座役人年寄役であったという。初等教育を終え自由民権思想へのあこがれを胸に上京、東京帝国大学で学んでいたが、父が亡くなったのにともない、学業半ばで佐渡に戻り、相川の高等小学校教師を経て、佐渡中学の英語教師になっている。ここで学んでいたのが、北輝次(一輝)、彼の思想形成に淑夫は大きな影響を与えたと言われている。一八九九(明32)年羽茂村の医師兼儒者葛西周禎の長女由起と結婚した淑夫は、一九〇一(明34)年に佐渡中学を辞任、上京。政治雑誌『王道』創刊に参加する。在京中に北輝次がわざわざ清を訪ね、上京している。ふたりの絆の強さを物語っている。
 一九〇二(明35)年佐渡出身で、函館の『北海新聞』主筆をつとめた大久保達のすすめに応じ、函館に移住、『北海新聞』主筆となる。
 翌年函館区会議員に当選、清から淑夫と改名したのは、濬が生まれた翌年のことである。
 一九一〇年連載記事「昔の女と今の女」が、内務省によって「皇室ノ尊厳ヲ冒漬スルモノト」として告発され、禁固刑を受けるほか、区会議員も解雇、『北海新聞』も廃刊に追い込まれる。
 一九一二(明45・大元)年六月、『函館日日新聞』を買収した平出喜三郎に主筆として迎えられ、『函館新聞』をおこす。一九一九年には社長兼主筆に就任している。
 ジャーナリストして、不敬罪や、トロツキーの思想を紹介し、官憲からにらまれながら、しかも北一輝などにも影響を与えた父淑夫の存在感は、五人の子供たちにさまざまな意味で大きくのしかかっていたのではないだろうか。ただ子供たち、特に四人の息子たちは、それぞれのやりかたで、反発していくのである。

長谷川四兄弟

 長男の長谷川海太郎は、まったく独自な道を歩み、濬にとっては、父淑夫以上に大きな存在となった。彼は大正の末ごろ、アメリカに渡って各地を放浪し、帰国後、谷譲次の筆名で「めりけんじゃっぷ」の連作を発表し、世間を驚かせる。いままでの日本文学にはみられなかったリズミカルな文体で、スケールの大きな無国籍文学をつくりあげた。それだけでなく牧逸馬の筆名でメロドラマ小説、林不忘の筆名で丹下左膳ものの時代小説と、三つの筆名を使い分けておびただしい数の作品を発表、昭和初年大衆作家の旗手となった。
 次男の長谷川りん(サンズイに「隣」の旁)二郎は、パリに遊学して絵画修業にはげみ、マイナーながら画家として一家をなした人だが、その一方、地味井平造の筆名で、昭和モダニズムを代表する雑誌「新青年」に実験的な話法による一群の探偵小説を発表する異彩でもあった。
 四男の長谷川四郎は、濬と同じく満州に渡り、満鉄調査部などに勤めたが、現地で召集され、敗戦後、シベリアに抑留された。帰国してのち、五年にわたった抑留体験を材とする短篇連作『シベリア物語』などで、戦後文学の一翼をになうことになる。
 それぞれ大衆文学・美術・純文学で、名をなした兄弟のなかのひとり、そこに濬がいたのだ。

函館からカムチャッカへ

 一九一三(大2)年濬は弥生尋常小学校に入学する。亀井勝一郎が同級生だった。少年時代の濬にとってなによりも大きな影響を与えたのは、長兄海太郎の存在だった。横浜から香取丸に乗船、アメリカに渡った兄海太郎は、さまざまな職業につきながら、手紙を送ってよこし、そのなかで、濬をスタンリー、四郎をアーサーと呼んでいた。兄は濬に、漁師になることをすすめていた。
 その誘いに惹かれた濬は、一九二五(大14)年濬は函館中学卒業後、両親の反対を押し切って、漁船に乗りこみ、カムチヤツカ半島ペトロバウロスクに行き、イクラづくりの季節労働に従事する。その後四年間、日魯漁業会社に雇われたり、伊豆の北川で働いたり、冬場は函館に帰省してロシア語を勉強したりの日々を過ごす。
 船を下りた濬は、大阪外国語学校露語科入学。ネフスキーにロシア語を学んでいる。ロシア文学との付き合いが本格的に始まる。

(2)人生最良の時―満州時代

満州へ

 一九三二(昭7)大阪外語学校卒業した濬は、大陸をめざして、門司から船に乗る。五・一五事件当日のことだった。父・淑夫はかねて大川周明の行地社の社友であつたが、濬もこの大川理論の信奉者だった。彼の満洲行きには大川が助力していたといわれる。
 そして満洲国の新政府資政局自治指導部訓練所(改組され大同学院となる)で建国運動を担う地方県参事官たるべく訓練をうける。
 講師の奉天図書館長衛藤利夫の〈満洲学〉(マンチチユデオロギー)と称する浪曼主義に心酔した濬は、じょじょに文学にのめり込み、満州文学をつくるという仮構の夢を育んでいく。
 大同学院第一期生として卒業後、満洲国外交部にはいったあと、チタの領事館に勤務、弁事処通訳官として綬紛河に赴任、ここで三年余をすごす。ここでの生活がもしかしたら、彼の人生で最良の時だったのかもしれない。
 一九三五(昭和10)年(外交部俄国科に転勤となり新京に転居した濬は、一九三七(昭和12)年黒竜江アルグン河を三ケ月にわたり調査している。同年弘報処勤務を径て満洲映画協会に入杜。この前後より別役憲夫(別役実の父)、仲賢礼(木崎龍)、岡田益吉らと文学雑誌「白想」の発行を企てたが失敗、各紙誌に文学作品の発表を始めた。一九三八(昭和13・康徳5)年北村謙次郎、仲賢礼らと「満州浪曼」を発刊する。一九四〇(昭和15・康徳7)年満映宣伝副課長、一九四二年調査役となっている。

バイコフとの出会い

 長谷川濬の名が一躍内地日本でも広く知られるようになるのは、ベストセラー小説となるバイコフの『偉大なる王』を翻訳してからである。
 満映の宣伝副課長になった年、濬は、ハルビン行きの夜行列車に乗り、馬家溝教堂街のバイコフ宅を訪れる。富沢有為男(昭和十一年『東陽』に発表した「地中海」により、翌年第四回芥川賞を石川淳とともに受賞)が、濬と同行していた。富沢の推薦もあって、『満洲日日新聞』が動き、濬の「偉大なる王」訳載はじまる(六月〜十月)。「偉大なる王」は、一九三六年に書かれ、ハルビン、ザイツエフ書店版の同書を濬に送ったのは、別役憲夫(当時恰爾浜高等検察庁思想科勤務)であった。折から渡満中の菊池寛はこれに感銘をうけ〈満洲のジャングルブック〉と賞賛、翌年三月文芸春秋社から『偉大なる王』を刊行、バイコフ夫妻と娘とを日本に招待している。

満州の没落

 一九四四(昭19・康徳11)年八月一日、次女茉莉が亡くなった。彼の黄金時代の終焉のはじまりであった。
 一九四五(昭20・康徳12)年八月九日、ソ連軍進攻。そして日本の敗戦。彼の満州に賭けた夢はすべて崩壊する。八月二十日満映理事長甘粕正彦が自殺しているが、その現場に立ち会っている。
 満州国への夢ばかりが崩壊しただけでない、濬は自分の大事にしているものすべてが目の前で崩れ去っていくことに立ち会うことになるのである。
 まずは最愛の友である詩人逸見猶吉が、結核に栄養失調を併発して死んでいく。死体は野原で焼き、濬は文字通りその骨をひろった。
 そして一九四六年七月二十三日、引揚げのため胡盧島に向かう列車のなかで、まだ幼子の三女道代を失う。
 夢も理想も、友人も恩師も、そして娘も失った、長谷川濬は、やっとの思いで大陸を脱出、帰国する。一家五人で、母と妹の家にたどり着いた濬は、このとき結核に罹患していた。彼にとって辛い辛い時代が始まるのである。

(3) 彷徨う戦後

息子の死とロシア航路

 満州崩壊から始まった濬の不運は、まだまだ続く。一家五人生活するために戦後のどさくさのなか、仕事を探さなくてはならなかったのだが、満州でしらぬ間にかかった気管支拡張症、喘息に苦しんでいた。それでも人の紹介を頼りに、サンカ小説で知られる三角寛が経営していた池袋の人生座の手伝いをしたり、紀州の潮岬でやり直そうとしたり、懸命に人生の再建をはかろうとしていた。しかしまた大きな不幸が襲いかかる。一九五一(昭26)年三月二十九日、長男満が急死したのだ。まだ15歳であった。
 一九五三(昭28)年ナホトカ行貨物船の通訳の仕事が舞い込んできた。海が好きで、ロシアを愛す濬にとっては願ってもない仕事だったといえるかもしれない。彼は六四年まで断続的に乗船、沿海洲、サハリン、アムール河等を往来することになる。

ドン・コサックと神彰

 あてもなく、定職もなく、彷徨っていた濬に、大きなチャンスが訪れる。画家志望で函館出身の神彰と知り合ったことで、思いもがけない大事業に参画することになったのだ。荻窪で燻っていた神のアパートで、一緒に飲んでいた濬がふと口ずさんだロシア民謡を聞いた神が、突然ドン・コサック合唱団を日本に呼ぼうといいだした。革命によりロシアを追われ、世界中を彷徨っていた合唱団を日本に呼ぶ、濬にとっては願ってもない仕事であった。濬は神と一緒にこの無謀といえる試みに、夢中になる。そしてこの夢は実現し、日本はドン・コサックブームに沸く。しかし長谷川濬は、公演中に病いに倒れ、松戸国立サナトリウムにおよそ一〇ヶ月入院することになる。しかも神は、長谷川濬を見捨ててしまったのだ。この公演が成功したら、一攫千金を得るはずだったのに、彼のもとにはほとんど何も残らなかった。神はこのあとソ連からボリショイバレエ、ボリショイサーカス、レニングラードフィルを呼ぶことに成功、一躍赤い呼び屋として、一世を風靡することになる。

書くことへの執念

 神と別れてから、そして死を意識せざるを得なかった療養生活を経験した長谷川濬は、退院してから、猛烈な勢いで書きはじめる。大事な人たちの死をいくつも見てきた彼が、自分の死を意識せざるを得なかったのかもしれない。満州にいたときに同人になっていた平岩米吉主宰の「動物文学」、昭和四〇年に復刊した「作文」を中心に、一九五七年から、彼は投稿を続ける。その他にも「文学四季」、「文学街」の同人となり、彼は書きつづける。何かに憑かれたように書きつづけていた。一九五七年から死ぬまで翻訳、詩、エッセイを含めて一〇〇篇ちかくの作品を発表していた。
 主に同人誌に発表していた作品の他に、彼は一九五二年から死ぬまで『青鴉』と自ら名付けた創作ノートを、一〇〇冊近く残している。この間相変わらず生活は楽ではなかった。そして病に苦しみながら書きつづけていたのだ。一九六三年から何度も入退院を繰返しながら、一九七三(昭48)年十二月十六日亡くなる。六十七歳であった。


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