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【連載】長谷川 濬―彷徨える青鴉

第2回 『青鴉』は飛んだ――「青鴉の手記」その一

 長谷川濬は、「青鴉の手記」と題されたノートを100冊近く残している。1952年から亡くなる間際まで書かれたこのB5版の大学ノートには、詩や小説の下書き、創作ノート、読書や芝居の感想、日記、随想、スケッチなどが、ぎっしりと書き込まれている。
 長谷川濬は、戦後およそ80篇近い文学作品を同人誌を中心に発表しているが、これらのすべては、この「青鴉」から生まれたものだ。いわばこのノートは、戦後の長谷川濬の文学の骨格をなしているといっても過言ではない。さらに、満州時代の回想、妻文江や子供たちへの思い、亡くなった子供たちや友人たちへの哀悼、自分への叱咤、激励など、彼の真情が余すことなく綴られている。懸命に生きようとしたひとりの敗け続けた男の生きた証とでもいうものが、滲み出ている。
 いまこのノートを読んでいる最中なのだが、これを読むなかで、長谷川濬という人間の魅力にとりつかれてしまった。そしてこのノートを手にしたことで、彼の伝記を書く決意が固まったと言っていいだろう。まだすべてを読み終わったわけではないが、この連載のなかで、このノートに書かれていることを随時紹介していきたいと思う。


 『青鴉』の一冊目は、1952年10月9日から翌年1月10日までの日付がついている。
彼は、このノートの巻頭に「青鴉」と題された詩を書いている。

青鴉


薄明の空に
青鴉の
一羽
すみやかに
とぶを見たり
ただ
一度
それだけ・・・・。

 さらに、ノートの裏表紙には、こんな一節が記されている。

死ぬことを止めよ!生きて、生きて、血を流せ。
青鴉よ!君の胸に止まれ!虚妄の虹よ、永遠に

 何故長谷川が、この手記に「青鴉」というタイトルを冠したのか、とても気になるところなのだが、これについては追々書いていきたいと思っている。おそらくは彼にとって、失った3人の子供たち同様に、その死の重みを噛みしめていた詩人逸見楢吉の影響からだと思うのだが、本来であれば「鴉」の象徴とでもいえる「黒」を「青」にしたところに、長谷川の思い、こだわりがあったと思う。薄明の空に、飛び立つ青鴉のイメージには、生と死の間の永遠の真実、それをつかみ取ろうとすると、消えてしまう、そんな儚い幻の姿が、仮託されているように、いまは思っている。

 『青鴉』一冊目のノートは、おそらくこれから書く自分の作品ノートという意味合いがあったようで、ほとんど詩の下書きのようになっている。このなかに、「満州にんじん」と題された詩の試作がある。

満州にんじん

注射、注射、
青白くやせて、寝小便ばかりして
父にいやがられた
本をよみ、計算に巧みで
理解力にとみ
天才と称された。
引揚の時、妹をなくした、
錦州の山に埋め、
みんなで泣いた。
胡蘆島乗船前のどしゃ降り
五時間、雨にたたかれ、
骨まで濡れて
むしろをかぶっていた子供四人
にんじんもその一人であった。
東京に引揚げると、
父は失業と病気で悩み
にんじんは弟と一所に
薬工場のシールはりに通った
栄養は衰へ
ちびでやせっぽで
頭は天才的であった
そして、とうとう腸結核で
治療も禄に受けずに十五で死んだ

 にんじんとは、このノートが書かれる一年半前の1951年3月29日に急死した長男満のことである。満州時代にふたりの子供を亡くしていた長谷川は、引き揚げという困難を乗り越えやっと帰って来たのにもかかわらず、長男を亡くすという悲しみに面していた。しかも長男は、まだ15歳という若さだった。満州から戻り、仕事にも就けず、やっと得た職場でも、ろくな給料ももらえず、さらには病気で悶々としていた時でもあった。しかもこの長男に対しては、長谷川はつらくあたっていた。どんなにか悔やんでいたことだろうと思う。
 このノートには、懺悔の意をこめたこんな一文も収められている。

菊の花を供へ
愛用の皿に薯を供へて
満君の霊をまつる。
満君よ、
ゆるせ
この微妙心なき父を
ゆるされないであろう
だから生きて
死ぬつもりで仕事をする。
茉莉、道代、満の三M
三兒は手をつないで
聖殿に登る
ああ錦州の山に眠る道代
多摩にいる茉莉、満君
父は生きて
合掌している。

 このなかの「ゆるされないであろう、だから生きて、死ぬつもりで仕事をする」という一節に、長谷川の真情が見てとれる。死の重みを受けとめ、ただそれを嘆くだけでなく、だからこそその重みを背負って、生きるという道を選ぼうとする長谷川濬のこの姿勢、これが、彼の生きかたであった。死を背中に、生き抜くことで、お詫びするという・・・
 長男の急死、仕事もうまくいかない、でも生きなくては、そんな思いの長谷川濬に、船に乗らないかという誘いが来る。この大好きな海での仕事が、長谷川に再生のきっかけを与えることになった。


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