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【連載】長谷川 濬―彷徨える青鴉

第4回 挫折のはじまり

 満州国に青春を賭け、日本の敗戦によって打ちのめされ、娘を引き揚げの混乱で失い、まさにボロボロになって日本に帰って来た長谷川濬に、休息する余裕などなかった。戦後の日本を生き抜かなければならなかった。
 やっとの思いで日本に戻ってきた濬は、荻窪の実家に転がりこむ。父が亡くなったあと、そして濬が一番好きだった兄海太郎もいない、母親と妹玉江が暮らしていたこの家を拠点に、4人の子供を抱え、生活することになる。しかも濬は、満州生活で心ばかりか身体も痛めつけられていた。結核が、彼の身体を蝕んでいたのだ。帰国後は荻窪の実家で寝ていることが多かった。しかし生計を得るために彼は必死で職を探し歩く。

「肺結核で死にそこない
校正かかり、探訪記者(忽ちくび)
原稿書き(売れない原稿)
講義原稿下受け
進駐軍CICのスパイ(ヨコハマ)
立川飛行場の監督(一日だけ)
無給のロシア語教師
ダイジェスト書き(プーシキン、ツルゲーネフ、ゴーリキー)
徳川夢声へのネタ提供(魚屋だね)」(長谷川濬のノートより)

 不惑の年をすぎ、一家6人で転がり込んできた息子に対する母親の目は、日に日にとげとげしいものになる。濬だけではなく、妻文江に対して辛くあたることが多くなった。子供たちもその雰囲気を感じ取り、おどおどする。なんとかしなければならない。いい大人が定職にもつかず、生活の見通しもなくこのまま暮らすわけにはいかない、このままでは袋小路に迷い込み、にっちもさっちもいかなくなる。
 長谷川濬は、この状況を脱するために、とんでもない行動にでる。突然紀州の三輪崎という海辺の町で再起をはかろうとしたのだ。1950年1月30日、紀勢本線三輪崎の駅に彼は、降りたつ。

「1月30日
夕刻三輪崎に着く。松林の向うに強風と怒濤を見る。1時突風あり。天地転倒の感あり。
海−我が心のふるさと、ここへ私は漂着した」

 紀伊半島南端にある新宮市の中心から一山越えたところにある熊野灘と小高い山並みに囲まれた三輪崎は、熊野古道の東の起点となるところ、熊野灘の荒々しい海が眼の前にひろがるところだ。
 彼が遺した膨大な量のノートの一冊目は、三輪崎に到着した日からつけられたものであった。
 「南海雑記」と表書きされたこのノートの一頁には、自分の住所と家族の名前(年齢)を記載され、さらにこんなメモが書き留められている。

「本メモ所有者、長谷川濬は就職のため西下し、紀南三輪崎を出発点として放浪す。
乞う本帖を妻の処へ送られんことを」

 もしも万が一自分が野垂れ死にした時には、このノートを送り届けて欲しいということなのだろう。死を覚悟したうえでの、旅立ちであったのだ。
 海に囲まれた函館で生まれ育ち、若いときには船乗りとして、オホーツクを航海した男にとって、海に面したこの街は、失われた夢をもう一度蘇えらすためにふさわしい場であったろう。病んだ身体と心を鍛え直すためには、慈しむような海ではなく、吠えるような猛々しい海こそが必要だった。その意味で、熊野灘の怒濤の海を見下ろす三輪崎こそ、格好の場所であったといえるかもしれない。しかしどうして三輪崎だったのか?
 当時13才だった次男寛の記憶のなかで、父のこの突然の熊野行きは、ある一人の男の存在と結びついている。

「この頃、父のところに尾崎良雄という若者がよく来ていたのです。面白い男でしたねえ。父はよくこの男と一緒にあちこち出歩いていました。彼が確か、熊野の出身だったはずなのです。そのせいだったと思います、父が熊野に行ってしまったのは。」

 ここで濬はなにをしようと思っていたのだろう。

「2月24日
この新宮三輪崎で、何をしようとするのか。
外語学院設立、文化運動に参加、よろしい、結構だ!」

 妻と17才の長女を筆頭に4人の子供を抱えた44才の男が、都会ではなく、辺境の地で、学校を開設して、それで生計を立てようとしていたのである。安定した生活を送っていなくてはならない40を越えた男が、とる行動としては、無謀というしかない。
 だがそこまで追いつめられていたのである。

「2月26日
振り出しに戻れないのだ。さいころは投げられた。ここで頑張る。何があるのか。ただ自分をたよりにするだけだ。自滅かもしれない。更正の道があるかもしれない。一切の危惧、不安をおしつのけ、一路前進あるのみだ。
東京に居る、三輪崎に居る、同じ道だ。
この地で独立独歩の道を開く、これが私の最後の活路だ。惑わず、躊躇せず、前進あるのみ、これが私の未来だ」

 放浪を余儀なくされた男が、家族を養いながら、自活していく、そのための三輪崎行きだった。
 濬は、三輪崎を無謀な夢を実現する拠点としようとしたのだ。しかしここでなにをしたかというと、ただ悶々としていただけだった。彼のなかでは、語学を学ぶ寺子屋のようなものをつくろうという漠然とした構想はあるにはあったのだが、そのために具体的になにかをしたかというと、この1ヶ月の滞在中のノートを見る限り、なにもしていなかったに等しい。

「3月1日
コッペパンと水。(略)
「潮岬」を書く。粗雑で荒い。筆進まず。三枚で中止。寺子屋のビラをはって歩く。三枚はってくれる。未だいかん。勇気に欠けている。南窓で日向ぼっこする。ビラを配る」

 熊野の荒々しい海を見ているうちに、家族を養うという本来の目的を忘れ、文学で身を立てようという野望が、またよみがえってくる。「潮岬」という作品を仕上げようと原稿用紙に向かう時間が多くなる。南海の荒波を見つめ、独りで暮らすという行為のなかで、突破口が開けると思ったのかもしれない。
 しかし現実はそれほど甘くはなかった。「潮岬」を書き上げることもなく、寺子屋つくりもままならず、彼はまたしても、追いつめられることになる。

「3月5日
生徒一人も来ない寺子屋、空虚なる机の前に先生一人。自炊の飯といわしの乾物食い。熱き豆腐汁を吸う。観音仏に向いて、独り飯食う四十男なり。
ああ、落武者よ
引揚者よ
敗残者よ
長春より南海熊野路に漂って、独りいわしを食らう。夕陽力なく庭に照り、みかん茂りて
実は重くたれ下がる」

 現実の厳しさが、濬に押し寄せる。結果をださなくてはならない。荻窪の長谷川の実家で、家族が待っているのだ。あてはないが、家族をここに呼び寄せなくてはならない、そんな焦りのなか、彼は荻窪で、父の報せを待つ子供と妻のために、電報を打つ。
「文江宛て
「用意出来た、すぐ立て」すぐ出立せよ」と。

 破れかぶれというのは、こういうことを言うのだろう。彼には家族を迎え入れるあてなどまったくなかったのである。ただこうでも書かないと、家族のみんなは納得しないだろう、そんな切羽詰まったところまで追いつめられていたのだ。しかし冷静に考えれば、いま家族を呼んでも何もできないことは自明のことであった。このわずか数日後、出発を断念するよう手紙を書き、速達で投函する。

「3月3日
家族呼び寄せについて庄司より反対の意見書を頂く。尤もの御心配。俺としては東京で苦しますよりこちらで苦します方がいいという意見。俺の気持ちは分かって呉れまい。家より便りなし。どうしたんだ。寂しい限りだ。
(同じ日付)
家族出発中止の電報を打つ。四日速達で出す。3月ここで頑張る。
3月4日
出発の予定の電に対し立つのやめにしたと拒否の電を打つ。心中落ち着かず。海野君よりふとんを借り堂内に寝る。寂々として静か。微熱あり。文江、満、寛、瀏よ、しばらく待たれよ。しばらくの辛抱だ。」

 次男の寛は、この速達を見て、びっくりする。

「もう自分たちは紀州に行くのだと思っていました。転校の手続きもしました、それが来るなという報せがきて、どうなっているのかと思ったものです」

 ここで再生をはかるつもりだった。自分をもう戻れないところまで追い込んだはずであった。しかし結果は無残なものだった。再生を賭けて、やり直しをするために、思い切った行動にでた結果だっただけに、この挫折感は大きかった。
 紀州への旅立ちは、戦後を乗り越えるための濬の博打だったといえるかもしれない。しかしそれはまた戦後の挫折のドラマの序章となったのである。

 まもなく彼の存在を根本から揺るがす大事件が起こり、容赦なく、挫折感はさらに深いものとなる。
 1951年5月29日、長男の満が急死する。彼のノートの二冊目は、長男の満の死後一年目の1952年にまたはじまる。長男の死、それは自分の責任だ、そんな思いにとらわれる。長男満の死のもつ意味合いは深く、重く、濬の戦後にのしかかってくるのである。


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