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【連載】長谷川 濬―彷徨える青鴉

第5回 青鴉誕生−満の死

 新生を賭けて、単身紀州に向かった長谷川濬だったが、結局なにもできず、わずか2ヶ月滞在しただけで、東京に戻ってくる。この時に書いていた「南海雑記」と題されたノートの最後に、彼は、カタカナでこう書いていた。

「ワタクシワ ジブンノココロノアリカタニツイテ ゼンゼンミルコトノデキナイオトコナリ ハテテシマイ コノヨニイキテルコトノムイミサヲ サトリマシタ。シカシカンタンニ ジサツヲスルゲンキモナク イキテイルノハ ナントツマラヌジンセイデセウカ・・・」

 長谷川濬の深い絶望が読み取れる。
 職もなく、ブラブラしている濬を、冷たい目で見ていた母は、さらにつらくあたることになる。濬に返すことばはなかった。母との確執はさらに深まる。しかも母の冷たい視線は、妻の文江にまでむけられることになり、妻との間にもいざこざが絶えなくなる。
 とにかく仕事を探さなくてはならかった。妻だけでなく、まだ中学に入ったばかりの病弱な長男満、小学生の寛も薬工場でシール貼りのアルバイトをしていた、なんとかしなくてはならなかった。

 満州時代の友人の紹介で徳川夢声の家を訪ねたとき、サンカ文学で知られる三角寛がたまたまその場にいわせた。彼は、池袋で人世座という映画館を経営していた。濬は、ここで働きたいと思い、徳川夢声の紹介状をもって、日をあらためて人世座を訪ねる。「何でもやります、便所掃除でも」と頭を下げる濬に、三角は、「便所を見てこい」と言いつける。便所は、掃除が行き届いていた。事務所に戻った濬は、「大変きれいです」と言わざるを得なかった。その日はそのまま引きあげることになるが、後日三角から人世座に来るようハガキが来る。
 のちに徳川夢声について書いたエッセイのなかで、長谷川はこう書いている。

「早速出かけると、三角氏曰く「君が帰ってから徳川夢声自らやって来て、君のことをたのんだ。夢声はわしの親友だ。親友からたのまれると、だまっておれない。明日から来てくれ」と。かくして私は池袋の人世座に通い、夜警、チラシ配り。それから「人世」誌の原稿取りで、夢声さんの処へしばしば行った」(「徳川夢声氏のこと」『作文』85集)

 三角と長谷川がつながっていたというのは、なかなか面白いエピソードだと思うのだが、実際は交流とかつき合いはなく、ほんとうの下働きとしてこき使われたようだ。
 次男の寛は、人世座によく遊びに行っていた。

「ほんとうにひどいところでした。廊下のつきあたりにある、ベニア板のドアを開けると、そこが父の職場でした。きたないところでした。ここで看板書きのため絵の具をといたり、出来上がった看板をリヤカーで駅まで持っていき、それを設置したりしていました。駅のホームから父が看板立てているのを目にしたこともありました。ここではいいことなかったんじゃないでしょうか。父は後年水虫に悩まされるのですが、ここでうつされたとよく言ってました」

 結局、ここも長続きはせずに、まもなくやめてしまう。
 にっちもさっちもいかない自分に、苛立ちを感じながら、母との同居で肩身の狭い思いをしていることで、萎縮している自分にも腹をたて、いたずらに年を重ねるだけの自分が疎ましかった。自棄自暴になっていた時だった、長男の満が、急死したのは・・・。

 腹が痛いと急に苦しみだした満は救急車で慶応病院に担ぎ込まれた。このわずか数日後満は息をひきとる。1951年3月29日のことであった。腸結核だった。
 前日から、満の顔には死相が漂っていた。早朝濬は、新聞を買いに病室を離れる。重苦しい空気に堪えられなかったのかもしれない。苦しみで意識が朦朧としていた満は、このとき傍にいた文江に「パパは」と訊ねたという。
 午前九時四十五分、満は三回喘ぎ、目を一回ぐるりと廻し、そのまま呼吸を止め、動かなくなった。医者が来て、「臨終です」と告げた。嶺子が何度も「満、満」と呼んでも答えはなかった。嶺子が大声で泣き出した。しかし濬の目に涙はなかった。ただぼうぜんと立ち尽くすだけだった。このシーンは、濬の目に焼きつき、終生彼につきまとうことになる。後に彼は、手記「青鴉」のなかで、この臨終の場面を何度も何度も思い起こし、書いている。

 濬は、満州でふたりの娘を亡くしていた。次女の茉莉は生まれてまもなく、三女の道代は、引揚げ途中に、亡くなっていた。特に新京での敗戦、ソ連の侵攻、そこからやっと逃がれ日本に帰る途上で、息絶えた道代について、濬には、充分に看護できなかった悔いに一生つきまとわれることになる。ただこれは戦争という時代がもたらした死であった。
 しかし満の死は、ちがう。やっとの思いで引き揚げてきたのに、戦後職も得ることができず、貧困に追いやった自分が殺したのも同然であった。濬は、どうしようもない悲しみと後悔と無念さに囚われる。それは子を失ったということではなく、自分が殺したという思いからだった。当然であろう。病床で苦しむ息子を見つめて、彼は不平らしき言葉さえ吐いたのである。たとえ自分が、身心ともに痛めつけられ、失意のどん底にいたとしても、息子が、苦しんでいるのを見て、励ますのではなく、叱咤するようなことを言ってしまったのだから。

 さらに彼は子供のなかで、誰よりも満につらくあたっていたのだ。
 満州にいたころから、満は濬の癇癪の犠牲者だった。水風呂に投げこまれ、みみずばれになって、泣きじゃくりながら通学した満。はなをたらし、虱をわかしていた満。肺炎になり、腸チフスにもなって、隔離された青白くやせた病弱だった満。寝小便をすると、怒鳴られた満。ちびでやせっぽちだった満は、自分のことを憎む父に対して哀願するような目で父を見た。それがいやで、また怒鳴った父親。いったい自分は自分の息子になにをしてやったのだろう。
 寛はこうふりかえる。

「兄は、優しい人でした。背が小さく、病弱でした。父は、どうしたわけか兄に厳しかったのです。買い物に行かせて、帰ってくると違うと文句を言って、また行かせたり、とにかく、兄のなすことすべてが気に入らないようでした。」

 満は、計算に巧みで、オスカー・ワイルドの本をひとりで読むような、早熟で頭のいい少年だった。勉強が遅れがちだった同級生の親友を励ます心根の優しい少年だった。そんな優しさが、かえって濬が父淑夫から受け継いだ癇癪の気に触れたのかもしれない。親らしいことをなにひとつできず、そればかりか、鞭打つようにいじめたという後悔、さらには自ら招いた貧困のため、充分な治療も施すことができなかったという悔いは、濬のその後の人生を支配していくことになる。
 満を火葬場で焼き、小さな骨壺をもって荻窪の家に戻ってきた濬に対して、母は冷たくこう言い放った。
 「あなたが満を殺したのですよ」
 もちろんそれはわかっている、それをあらためて肉親の口から聞かされたとき、どんな思いが濬の胸にこみあげてきたのだろう。それはどこにもむけようがない、どうしようもない怒りだったのではないだろうか、

 長谷川濬が残したおよそ百冊のノートのなかに、「詩集・自我詩」、「悪言集」というタイトルがつけられたノートが二冊ある。このノートを預かっていた寛は「青鴉」というタイトルがついていない、詩だけのノートが何冊かあったので、たぶんそれだろうと思い、ずっと頁をめくらずにいた。ある日何気なく、このノートを開いて寛は驚く。これは死の直前まで満がつかっていたノートだったのだ。この余白に、父は詩やメモを書き留めていたのだ。
 この二冊の、国語と社会のノートには、満が鉛筆で書いた小さく几帳面な文字が残されている。満がつかったのはわずか数頁なのだが、このノートの余白に濬は、そのときのさまざまな自分の思いを書き記す。
 一頁目に、「「徒然草」は吉田兼好の書いた随筆である。自然や人事の感想、論議考証などいろいろな面にわたり、ここに兼好の豊な趣味性や冷静な知性からにじみでた味わい深いものがこもっている」と満が書いたところを、大きく囲み、つづけて濬はこう書き込んでいる。

「亡兒満君の残したノートに書く
亡兒満君
三月二十九日午前九時四十五分
最後の息を三回して
君は別れを告げた。
時間の凝結と圧縮の裡に
君は十五年の生涯を終えた。
死とは何か
別れである。
人生とは
別れである。
左様ナラ!永遠にサヨナラ」

 なぜ濬が、満のつかっていたノートに、自分の詩を書こうとしたのか。
 自分が死に追いやった息子の死を贖うことは、自らの生を絶つことではなく、生きることでしか果たせない、そんな思いからではなかったのか?

 満の死からおよそ1年半後、自分の詩やその時々の思いを記すことになるノートを「青鴉」と名づけた濬は、裏表紙にこう書いている。

「死ぬことを止めよ!生きて、生きて、血を流せ。
青鴉よ!君の胸に止まれ!虚妄の虹よ、永遠に」

 「青鴉」は満のことなのだろう。自分が死に追いやった満のために、自分は生きなければならない、生き続けることで満にわびることができる。それを自分に課したところから、長谷川濬という、ひとりの詩人が誕生するのである。彼の書く詩は、作品として永遠に残ることを意図し、自立しようとするのではなく、生きることでしか満に詫びることができない自分の生きざまそのものなのである。彼の生きざま、それ自体がひとつの詩となった。作品ではなく、彼の生きざまを書き記す、こんな営為を自分に課すためのノート、それが「青鴉」だった。

 満の死は、濬の人生にとって、もっとも大きな出来事といえる。死の悲しみ、悔しさ、それを背負うかたちで、生きるという道を選んだひとりの男の彷徨が、ここからはじまるのである。青鴉は、失われたもの、この世にない、はかない命の象徴である。長谷川濬は、息子の死を背負って、失われた過去を求めて「青鴉」となった満と共に旅立つ。


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