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【連載】長谷川 濬―彷徨える青鴉

第12回 長谷川濬の戦後文学

 松戸療養所から退院してから四ヶ月後の五月十五日、長谷川は東京三崎町で開かれた『文学四季』創刊号発刊会合に出席している。『文芸四季』は、一九五七年六月に創刊された文芸同人誌で、筒井敏雄を編集人に、およそ五〇名が同人として名を連ねていた、同人誌としてはかなりの大所帯だったといえよう。わずか二年あまりで廃刊となるのだが、毎号百頁にも及ぶ雑誌をだし、中味はともかくみかけは、出版社が出していた文芸誌とひけをとらないものになっている。一年後に尾崎士郎が名誉同人として加わっている。長谷川は創刊以来の同人で、小説だけでなく、エッセイなどほぼ毎号作品を発表していた。
 長谷川は、戦後引き揚げてきた年『文芸春秋』十二月号に「甘粕氏の死」、翌年七月に『日本未来派』第二号に「逸見猶吉の死」と題されたエッセイを発表したものの、その後十年ちかく作品を発表していなかった。
 日記に「『文学四季』により、あれを育て、よき文士とつきあって自分をみがく道がある」(一九五八年七月一八日)と書きとめていたように、この同人に参加することは、作家としてやり直そうという決意がこめられていたように思える。
 五十才というひとつの節目を迎え、このまま作品を書きためるだけでなく、作品を世に問い、作家として自立しようという志をもっての同人参加であった。

 長谷川四兄弟の評伝『彼等の昭和』の中で、著者川崎賢子が 「濬の文筆活動がもっともさかんだったのは、じつは満洲時代ではない。一九五五年(実際は一九五六年――著者注)の生死の境をさまよう喀血後のことであった」と書いているように、彼がこのあと発表した作品は、100篇以上に及んでいる。川崎は膨大な濬の作品量に圧倒されながら、こうも書いている。
 「あとからあとからいくらでも出てくる濬の作品発掘にはめまいがしそうで、多面体としての作家・多様体としての作家などとさかしらにとりまとめるいとまもなくその量に圧倒されてしまうのだが、同人誌の編集者の回想によるとそれでも掲載しなかった原稿がそれ以外にまだ山のようになって、次々に送りつけられてくる原稿に悲鳴をあげたという。
 そんなふうに書かれた、未完成なものの多い、断章めいた、膨大な言葉を、いったいどう読めばいいのだろう。」

 濬から遅れること三年、一九五〇年二月帰国した弟の四郎は、翌年『近代文学』四月号から抑留体験を書いた「シベリヤ物語」連作を発表、翌年には、これが単行本となり筑摩書房から刊行され、さらには芥川賞の候補にのぼるなど、「第三の新人」のひとりとして、注目されていた。
 弟の華々しい活躍を見ながら、濬のなかでは、自分もという気持ちがあったはずである。できれば彼も文芸誌に発表したかったに違いない、しかし彼はあえて文壇からはるか離れたところ、同人誌という小さな文学の世界から再出発をはかろうとした。戦前満洲で『満州浪漫』の編集人として、満洲文学確立を掲げ、思う存分健筆をふるい、さらにバイコフの『偉大なる王』の翻訳で一躍名声を馳せた作家にすれば、一歩も二歩も退いたところからの再出発であった。ただ川崎が書いているように、このあと長谷川は、まさに憑かれたように作品を次々に発表していく。ひたすら書き続けていくのである。彼の人生を支えていたのは、まぎれもなく書くことであった。川崎が立ち尽くしてしまった濬が残したその膨大な言葉から、彼がめざした文学の道を読み取っていかねばならない。

 彼が、再びペンをとるようになって五年間に発表した作品は、次の通り、そのほとんどは小説であった。

昭和32年 『療養記』 『進路』7-9,11月号 
『雪あかり』『文学四季』7月号
昭和33年 『ペトロパヴロフスクの水夫――この一篇を同郷のK・Kに』文学四季1月号
昭和35年 『死者を打つなかれ』文学街5月号
『象の鼻の夢』 『文学街12月号
昭和36年 『アルピーフ』文学街6月号
『同人棒』文学街7月号
昭和37年 『サハリン航海記』文学街1月号
『晩春の微笑』 文学街5月号
『誰も知らない』 文学街6月号

 彼は小説家の道を歩もうとしていた。満州時代から小説を書いていたのだから当然の選択だったといえよう。彼が十五年ぶりに書いた小説「雪あかり」は、『文学四季』創刊二号目となる七月号の冒頭をかざっている。まさに満を持して書き上げた自信作であった。
 これは、終戦直後の新京を舞台にした小説で、満映に勤務するロシア語ができる牧三郎の目を通してある女性の悲劇を描いたものである。ソ連軍が新京に進軍してきた時、夫をソ連軍に連れ去られた女性は、その消息を探るため、牧とともにソ連軍駐留所を訪ねるのだが、そこでソ連士官に強姦されてしまう。一度は自殺をはかるのだが、牧の看病もあり、命をとりとめる。女性の運命に同情する牧であったが、ある日彼女に抱いてくれとせまられる。なんとかこれを拒んだ牧だったが、しばらくし、彼女がロシア人相手のカフェで働いているのを目にする。
 長谷川は日記「青鴉」に「私は性と戦争悪を書きたかった。それがほんのりとでればいいのであるが・・・」と書いているように、戦争と女性、さらには性が、この小説のテーマといえるのだろうが、踏み込みが足らず、終戦の満州という時代の悲劇を書きたいのか、強姦されたあと変貌していく女性の心理が書きたかったのかはっきりしない中途半端な小説になっている。「私の書いた数ある小説のうちで心に残るものは、「或るドクトルの告白」「ウルジュン河」「さぎ」「雪あかり」です」(一九五七年九月一七日の日記)と書いてあるように、彼としては、自信をもって書いた一篇だった。しかし酷ないい方かもしれないが、その内容は時代遅れの通俗小説に終わっているといわざるを得ない。

 次に『文芸四季』に発表した『ペトロパヴロフスクの水夫――この一篇を同郷のK・Kに』では、函館とペトロパブロフスクという長谷川が青春時代を送った土地を舞台に、ロシア人の水夫と駆け落ちした母への追憶から船乗りになった男の半生が語られている。函館、ロシア、母、航海という長谷川文学の主要テーマを織りこんだ小説といえる。

 文学を磨くはずだった『文学四季』はまもなく廃刊となり、彼の発表の場は『文学四季』の同人が中心となり発刊した『文学街』へと移る。
 かつて『文芸四季』の同人でもあった美馬志朗を編集人とした同人誌『文学街』は、『文芸四季』と比べて、同人の数も少なかったし、毎月出していた雑誌も、五〇頁にも満たないもので、こじんまりとしたものだった。ここで長谷川は、 『死者を打つなかれ』、『象の鼻の夢』、『アルピーフ』、『同人棒』、『サハリン航海記』、『晩春の微笑』、『誰も知らない』と、三年間に七編の小説を発表している。満州、サハリン、三輪崎、伊豆など自分にとっては縁の深い土地を舞台に、さまざまなテーマを、さまざまな手法をつかい、意欲的に小説に書きつづける。

 『死者を打つなかれ』は、『雪あかり』と同じく、牧三郎を主人公とした敗戦直後の新京を舞台にした作品で、『雪あかり』と同じように、牧は日本人の密告のためロシア兵に夫を逮捕された女性と知り合う。この女性もソ連兵に犯されそうになるのだが、危ういところを救った牧は、彼女と一夜をともにする。ここにかつての左翼、いまはソ連の協力者である三浦という男が登場する。三浦からソ連から誰かを密告してくれと言われ、困っているので、通訳してくれと頼まれるが、牧はこの申し出を拒否する。これを恨んだ三浦によって牧は告発され、ソ連軍に呼び出される。一回目の尋問はなんとかしのいだものの、また呼び出された牧は、車に乗せられ、尋問された場所ではなく、まったく違う方向へと運ばれ、「方角がちがう」と叫ぶのだが、観念し「何処へ行くのだ。何処でもいい、海へ行くんだ・・・」とつぶやくところで終わっている。

 『象の鼻の夢』は、ゴーゴリの『外套』をモチーフとした寓話仕立ての小説だった。主人公の青木青吉は、農産物の統計を扱っている社団法人に勤務しているのだが、同僚たちからは疎まれ、邪険に扱われている。それというのも彼をこの職につかせてのが、この社団法人を管轄する官庁ににらみをきかしていた大官という政治家だったからだ。そんなストレスから逃れるため、青木はある日仕事を抜け出して、動物園に行き、そこで見た象にただならぬ愛着を感じる。いつのまにか彼は象を飼いたいという夢を抱き、象の幻影を見るようにまでなる。大官が汚職のため追放され、新しい理事長がやってくる。ある日新理事長は、青木を呼び出し、仕事をするよう命じるのだが、突然青木は机の上にあった書類の山を崩し、ばらまき、会社を飛び出す。翌朝青木の死体が、動物園で発見される。彼は象と戯れているうちに踏み殺されたのだった。

 『アルピーフ』、『サハリン航海記』は、自らの北方航海の体験をもとにした半ばノンフィクション的作品である。
 『アルピーフ』は、漁業会社に勤める二十歳の私が、ロシア式筋子製造のために、カムチャッカに航海し、そこで知り合った筋子製造職人のロシア人アルピーフとの交流を描いた作品で、ソビエト国家の枠組みとは別な次元で生きる、荒々しさのなかに優しさと素朴さを隠し持ったロシア人への共感がにじみでている。
 『サハリン航海記』は、昭和二十九年洞爺丸転覆事故があった時に、北海道沖を航海していたサハリン航海を書いている。台風と遭遇した時の、船長以下乗組員の献身的な働きぶりを書くなかで、海に生きる人々のたくましさを淡々と描き、サハリンに着いてからは、かつて日本の植民地であったサハリンに残る鳥居を見ての感慨、さらにはここで知り合ったウクライナ人ポヤルチュークとの交遊から、満洲時代の思い出を重なり合わせたものである。

 『晩春の微笑』は、戦後成功した男と、ドン底に落ちた男の明暗を背景にしながら、成功した男の妻であり、ドン底に落ちた男の姉でもある貞子と、ふと知り合った画家三村との交流を描いた小説、戦後の光と影が、主人公の夫と弟の生活の対比を通し、浮かびあがってくる。

 『誰も知らない』はミステリー仕立ての小説。主人公の私立探偵間瀬五郎は、新芸術友好協会宣伝部長宇津木勇の尾行を依頼される。宇津木は、白系ロシア人や右翼のボスと面会するほか、大蔵省、外務省をまわったりと、怪しげな行動をとる。潮岬まで追いかけるのだが、ここの断崖から宇津木が飛び込み自殺するところを目撃するという意外な結末になっている。

 『同人棒』の主人公「私」は、伊豆の小さな漁業会社につとめ、漁場監督をしている。仕事は漁夫たちが、漁獲物を盗む(これを同心棒という)行為を監視することだった。ある日おりんという同心棒の常連の女房と出会う。彼女は若い男を漁っているという評判の女だった。漁場でおりんの亭主あさが同心棒をしている現場を発見するのだが、あさの方が一枚上手で、結局は言い負かされ、摘発に失敗する。その三日後私は、おりんが、倉庫のなかで、男とセックスしているところを目撃する。彼は思わず「海も陸も同心棒だらけ」とつぶやく。

 『文芸四季』と『文学街』時代の長谷川の小説には、自分の実体験が散りばめられている。『雪あかり』と『死者を打つなかれ』は、終戦直後の満州・新京の混乱、そして進軍してきたソ連兵と交渉にあたった時の体験が背景にあるし、『ペトロパヴロフスクの水夫――この一篇を同郷のK・Kに』と『アルピーフ』は、二十才のカムチャッカ航海の体験、 『同人棒』には、そのあと七ヶ月過ごした伊豆での体験、寓話『象の鼻の夢』にも戦後一時勤務していた社団法人での体験、『晩春の微笑』の中の弟のエピソードは、引き揚げ後の自分の体験が、『誰も知らない』の宇津木にはアートフレンドの神彰が投影されている。
 しかしこれだけいろいろなテーマにとりくみながら、何を書きたかったのかが、見えてこないのだ。彼のなかで、まだほんとうに書きたいものが煮詰まっていなかったといわざるを得ない。

 「ぼくにはぼくの文学の、小説のきめ手がない。まだ迷っている。書きたいものを書くだけ。きめ手がないので、扉があかないのだ。ふんぎりがつかない。まあいい。書きたいものをやたらに書くだけ。」(一九六一年一〇月一四日の日記)

 戦前満州で、満州文学確立をなんの疑いもなく信じ、まっしぐらに突き進んできた長谷川にとって、敗戦、そして満州国消滅は、それがすべて幻想だったことを突きつけた。彼が根拠としようとした満洲文学が、突然消滅してしまったのだ。なぜ消滅したのか、満洲とはいったい何だったのか、それをつきつめていくところに、彼にとっての「戦後」があったはずだ。「満洲国」消滅とともに彼は多くのものを失った。夢や理想、そして愛する者を。その失ったものがなにかという問いかけをするところに、彼の「戦後文学」の可能性はあったはずだった。しかし彼にはそれができなかったのである。
 長谷川は焦っていた。五十を過ぎ、まだ不安定な生活をくり返している自分が情けなかった。兄海太郎がそうであったように、そして弟四郎のように、文学で身を立てるしかない、『文学四季』『文学街』を舞台にした四年間、手を変え、品を変え、作品を発表するなかで、そう自分を奮い立たせていたのではないだろうか。
 彼が、「失われた満州」こそが、自分が書かなければならないテーマであり、「戦後」をなぞるのではなく、八月十五日に消滅した「満州」を、凍結したまま書くこと、それが自分の使命だと、はっきりと定めるのは、作家として生計をたてることはできないと諦めたときからだった。
 そのひとつのきっかけとなったのは、『文学四季』、『文学街』を通じての同人川村晃が、四郎もとれなかった芥川賞を受賞したことだった。

 「川村晃君芥川賞を受ける。祝状を出す。これからである。詩を書きつづける。エイハブ船長。芥川賞よし。しかし文学の世界はひろし。」(一九六二年七月二四日の日記から)

 芥川賞といえば、いうまでもなく純文学の登竜門である、それを同人のひとりがとったこと、長谷川は、喜ばしいこととして懸命に受けとめようとしている。突然出てくるエイハブ船長にどんな意味が込められているかはわからないが、「詩を書きつづける」、「文学の世界はひろし」と書き留めているなかに、長谷川の動揺がうかがえる。自分も作品を発表している同人誌のなかで、長谷川ではなく川村が選ばれたこと、それは厳然とした事実である。小説ではもう自分のチャンスがない、長谷川のなかにそんな諦めにも似た気持ちがこみあげてきたのではないだろうか。それはまた作家として身を立てることができないというひとつの宣告でもあった。あれだけいろいろなテーマをもとに小説を書いてきたが、自分の実力はそんなものである、小説家として生活するなんて夢のまた夢、そんな思いにとらわれたはずだ。同人誌の世界に身を置き、世に出るチャンスをうかがうことが空しいことだと悟ったのではないだろうか。彼が『文学街』からの脱退を決意するのが、川村の芥川賞受賞直後だったことが、それを物語っている。

「9月4日 文学街脱退の報送る。
 9月6日 鎌原に文学街脱退の報せを送る。
 9月9日 文学街はやめる。文学ごっこくり返してもつまらん。文学工事をやらねばならない。埋立工事だ。新発明のために。」

 長谷川は、『文学街』を脱退したあと、逸見猶吉詩集を編んだ菊地康雄を編集人とする『宴』に、何篇かエッセイを書いているが、およそ二年間沈黙を続けることになる。この間まったく書かなかったのではなく、書き続けてはいたのだが、発表する場がなかったという方がいいだろう。
 そんな彼に、作家として、最後の創作活動の場を与えたのが、『作文』だった。一九六五年『作文』の同人になってから、長谷川は、また息を吹き返したかのように、書きはじめ、次々と作品を発表していく。
 『作文』は一九三二年青木實、町原(島田)幸二ら七名を発起人メンバーとして大連で創刊された文学同人誌で、一九四二年満州国の文芸政策により五五号をもって終刊に追いこまれるが、終刊時には二千部を発行するなど、満洲を代表する文芸誌となっていた。長谷川は、ここであまり作品を発表することはなかったが、同人として参加していた。
 戦後かつて発起メンバーのひとりであった青木實、また同人であった秋原勝二を中心に、一九六四年八月『作文』は復刊される。青木は、満洲時代の同人たちに、復刊された『作文』の同人になるよう声をかけはじめる。長谷川にすれば、願ってもない誘いであった。この時長谷川は、自分が何を書くべきか、書かなければならないのか、はっきりと捉えられていた。
 それはもちろん「満洲」であった。

「満州を書こう。Life work。」(一九六二年六月二日)

 『文学街』を辞める前にこう日記に書き留めていた長谷川にとって、「満洲」を書く場として、『作文』はまさにうってつけであった。
 「失われた満洲」というテーマが、彼のなかで大きく膨らんでいく。日記「青鴉」には、満洲をテーマとした数多くの小説の構想メモが、残されている。

「ぼくは大同学院史をやめた。金沢氏とぼくの構想に開きあり。満州国の認識よりして・・・。それに編集センスなし。ありていに云えば、満州国の一切より脱却したい。
書くとすれば、一人の男の思想彷徨である。昭和七年五月一五日より書き起こし、昭和二十年八月一五日、この十三年間の満州における日本人の生活である。一つのロマンとして。」(一九六一年八月二八日)

「星雲(長編小説)
昭和七年五月十五日満州国に渡るべく、ウラル丸にて渡海。門司にて五・一五事件をきき驚きつつ玄界灘を渡る。笠木良明氏を中心に日本青年一〇〇名と共に。
長編星雲の書きはじめはここから。すでにおよそ廿年来のテーマ。書くべき時到れり。即ち日本の満州経営ロマンなり。と云うより、或る日本人の大陸生活記と云うべし。大同学院第一期の南嶺生活にはじまるロマンなり。」(一九六二年九月八日)

 「失われた満洲」を書くこと、それが『作文』での長谷川のテーマであった。この時長谷川は、作家として生計をたてるという幻想を捨てていた。書かなければならないもの、読んでもらいたこと、ひとつでもいい、自分が書くことで生きてきたその証、それを残すために、書き続けるのである。
 作家長谷川濬が見つけた、いわば死に場所、それが『作文』であった。このとき彼は死が忍び寄っているのを確かに感じていた。


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