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【連載】長谷川 濬―彷徨える青鴉

最終回 「虎」へ帰る その1

遠ざかる満洲

 「夢は荒野へ」を書き終えたとき、たとえそれが不本意なかたちだったとはいえ活字になったことで、長谷川は「満洲」を書かなければならないという呪縛から解き放たれたといえるかもしれない。「夢は荒野を」を書き終えてから、彼の日記から「満洲」を作品にするためのメモはほとんど見当たらなくなる。
 このあと彼が作品を発表する場は、満洲時代からの同人であった「作文」と「動物文学」に限られるようになる。そしてそこで発表された作品のほとんどは随想、詩、そして翻訳であった。小説は、「作文」に発表された自分の半生を回想した「北の河の物語」、「北の海の物語」だけである。それもひとつの作品というよりは、断章の寄せ集めに終わっている。むしろ彼はこの時「動物文学」を舞台に、プリーシヴィン、バウストフスキイ、アルセーニエフなど自然派と呼ばれたロシア作家の翻訳に意欲的にとりくんでいた。「偉大なる王」で一躍名声を博したときの栄光を再び手にしたいという野望があったのかもしれないが、むしろこの時の彼には小説を構想するだけの体力がなかったといえるだろう。当時の日記にこんな一節がある。

「私は頭がにぶくて、小説は書けません。段々鈍化しました。」(1968年4月17日の日記から)

 さらに同じ年の8月にはこんなことを書き留めている。

「ロシア語通訳、愚劣なる仕事さ。それを敢えてやる、食うためである。文学を食う道にすべく、俺はあまりに無器用だ。文学とは何だ、大学教授か、松本清張か。まあ誰でもいいや、とにかく俺は、牧逸馬になれない。ロシア語のほんやく、ロシア小説のほんやくならやれる。ロシア人が分かるからさ。身にしみこんだロシア人のニュアンスがあるんだ」(1968年8月18日の日記から)

「とにかくほんやくに没頭しよう。死ぬつもりで。詩よ、俺を新たにせよ。」(1968年9月12日)

 戦後彼を苦しめ続ける胸の病が次第に悪化していくなか、体力が衰えるのを感じながら長谷川は、机に向かい、ロシア語の原書を日本語に訳し続けていた。こうした翻訳は、『動物文学』に毎号のように発表されている。あくまでも文学に賭けるその情熱に、執念のようなものを感じ、圧倒される。
 彼の身体は病み、そして確実に老いていた。それでも彼はひたすら文学を志していた。

最後の航海

 1967年春「夢は荒野へ」の原稿を渡したあと、8月長谷川は再び船に乗ることを決意する。金のためというよりは、家族と冷却期間をおくためでもあった。夏のある日、つまらないことから長谷川は持病ともいえる癇癪をおこし、それを諫めようとした文江が突発的に長谷川を殴るという事件がおこる。温厚な文江がこのような行為に出たのは、それだけ長谷川の癇癪が理不尽で、目に余るものだったからだろう。文江のこの行為に一番ショックを受けたのはほかならぬ長谷川であった。殴られてはっと目が覚めたのだろう、彼は自戒の念に襲われる。そんな時に通訳の話が舞い込んだのだ。彼は渡りに船とばかりにこの話を受け入れる。

「8月2日 第一中央汽船よりマゴ行要請さる。快諾。とにかく海に出て二カ月ほど洗脳せん。海に出て精神治療をうくべし。海で蒸発したい。ああ永久に、永久に。」

 いつものように乗船前に健康診断を受けたのだが、乗船は許可されるものの、医者からぜんそく発作中なので、一航海したら下船するように忠告される。この時船に乗ることをやめてもよかったはずなのだが、彼はどうしても冷却期間が必要だった。逃げるように彼は船に乗り込んだ。
 一年ぶりの航海で、彼はひとつの儀式を挙行する。

「8月23日 ガス。海上静なり。古上着を海に捨てた。私の身代わりに、私の身代わりになって投身し、私は蘇生した。古い上衣、あのドンコサック合唱団の大阪巡演の際、神が買った上衣をいま八時二十分にサハリン沖合で。これは私が回心と洗浄の象徴式である。私は洗浄され、変身したいのだ。古い私より新しい私へ。この海の上で
母――海のまん中で。海よ照覧あれ。私の魂の故郷――海へ私は身を投げて、新しい私になることを誓う。すでに妻に、子に、友に、世に、文学に。遠ざかりゆきし、褐色の上衣よ、さらば、十二年の歳月よ」

 なにも大事にしていた上着を海に捨てなくてもいいはずだし、そしてそれを捨てたからといってどうにかなるわけでもないとも思うのだが、そういう行為が長谷川濬という男にとっては大事なことなのだ。それが長谷川濬という男のもつ優しさなのだと思う。
 この数日前の日記に彼は「ぜん息のため呼吸苦しい」と書き留めている。この時はおよそ半月の航海であったが、彼はこれ以上船に乗るだけの体力はもちあわせていなかったはずだ。
 しかし翌年6月再び船に乗る。

「6月27日 また海へ出た。逃避ではない、必要なのだ。海のエネルギーを摂取して、魂の栄養にするのだ。
巨大なるエネルギーの浪費をいただいて、私の詩の魂に活を入れる、一種のカンフル注射である。」

 しかし彼には無理な航海であった。

「7月11日 徒歩で太陽丸へたどりつく。苦しい。たんと咳。トイレット。とにかく老化の不快あり。さっそうたる健康体をのぞんでやまない。」

「8月9日 砂子に会い、一杯のみ、息切れして帰船。全く閉口せり。」

「8月11日 (通りかかった客船に来るよう誘われる)。私断る。おそく歩き、咳をしたり、息切れしたりして皆に迷惑かけると気分こわすから、遠慮したのだ。」

「8月14日 夕食後入浴す。息切れする。持病である。」

「8月20日 これでマゴ航路(北水路まわり)は終わり。折り返しマゴ行き。私は下船する。こんな仕事はもう沢山。陸でももりもりほんやくをやるつもりだ。とにかく石にかじりついても生きなくちゃならない。もっとよき生活のために。文江のためにも。」

 これが長谷川にとって最後の航海となった。

忍び寄る死の影

 1969年2月から長谷川は、お茶の水のニコライ学院でロシア語を教える仕事についている。木材船の通訳ではなく、アートフレンド以来久し振りに舞い込んだまともなロシア語をつかう仕事であった。彼の中に、ずいぶん回り道したが、やっと出会うべき仕事とめぐり合ったという気持ちが芽生えはじめる。

「4月11日 小説も詩もならずして、素朴なる語学講師を我が道とせん」

 しかしこんな時は、いつも病魔が行く手を阻むのである。
 長谷川は、身体に異変が起こっているのを感じはじめる。

「4月17日 昨ニコライ学院で授業はじめの一杯。天野、武岡、斉藤夫妻の世話になる。一杯ものまないではなしきく。タクシーで帰る。120円。呼吸苦しい。アレルギー性あり。
4月19日 平野先生の診察をうく。レントゲンとらない。目下観察中、ぜんそくの徴候あり。
5月9日 床屋へ行き、顔色青いと云われる。全く疲れる。咳、空腹、倒れる予感。
5月12日 朝ロシア語講師、午帰る、苦しい。
5月15日 病人自意識過剰。平賀女医の処で注射、薬貰って帰る。肺の機能悪し。小さくなる。
5月24日 平賀女医小生に何か、病気についてはなしある由、月曜日に来院されたしと。
5月26日 病院で注射、ストマイ。」

 そして6月11日桜町病院に入院する。これから1973年12月に亡くなるまで、彼はこの病院に入退院をくり返すことになる。

「6月11日 桜町病院に入院。午前十時半すぎ。二階210号。六人同病、みんな老人、一人若い。痰や咳になやまされ、息も切れ、あわれなり。食通らず。快適なる病室なり。由利博士ていねいにみて下さる。病歴を婦長にはなす。疲労甚だし。薬をのむ。ベットをななめにす。万感去来。夜眠りがたし。十一時眠る。せき痰しきりなり。」

 7月4日この病院で彼は63歳の誕生日を迎える。体重が49キロだったのが悲しかった。
 死が静かに近づいていることを、長谷川濬の身体が一番よく知っていた。ただあと十年は生きたいと念じる。それは祈りのようなものであったかもしれない。十年あればなんとか自分の思い通りのものが書けるかもしれない、いや書かなければという思いからであった。十年、それは長谷川にとっては長い時間だったのか、短い時間だったのか・・・。

「6月19日 ああしつこいTBよ。満洲よりの病、TB。あと十年がんばっていい詩を残したい。」

「8月25日 あと十年死ぬつもりで働く。そしてさらば!」

「11月13日 常に覚悟せよ、死を。悠々として往生せよ」

 死は身近なところに近づいていた。死が彼の日常のなかに、確かな存在感をもって近づいてきた。

「11月17日 粛條たる冬の日、死人は帰宅する。あのシベリアの凍土で、「帰りたい」と一言云って
死んだ捕虜。歯をむき出して野原でやかれた友の死体よ。
死は到る処に。生きてる人と同じように。私のまわりにいる。死に隣り合わせている私。死よりちょっと先に歩いてる私。死は日常事にすぎない。生まれた時、死を約束された人間。その生きている時間に死に急ぐ人々。この雨の日に 私は死人の帰宅を見守る」

九十九里の隠遁生活

 翌1970年1月に長谷川は、半年の療養生活を終えて退院する。晩年の長谷川にとって小さな転機が訪れたのは、1971年4月のことだった。長谷川は文江と一緒に、千葉の旭市に転居している。
 この転居は、長女嶺子の強い勧めによって実現したものだった。
 嶺子は当時のことをこう振り返っている。

「退院して、船にも乗れないし、家にいることが多くなりました。身体の具合もあまりよくありませんでした。私も病院で働いていましたから、ぜん息には空気のいいところでの転地治療がいいことは知っていました。ちょうどその時に私が勤務していた岩井病院の院長のお父さんが旭市で開業医をしていたのですが、ここを閉鎖し、引っ越することになったのです。ただこのあとここをどうするのか決めかねていました。私は院長に、父と母を管理人としてしばらくこの病院に住まわせたらどうかと話しました。院長も院長のお父さんもそれはいいということになり、とんとん拍子に話しが進みました。父も、ここでゆっくり文学に専念できるのではないかと思ったのです。」

 この年になって夫婦ふたりだけで見知らぬ土地で暮らすということに不安もあったに違いない。ただ海のそばで海を感じながら、なんとか健康な身体に戻りたい、そして文学に集中したいという思いが勝った。長谷川濬が文江と共に、ここに引っ越してくるのは、1971年4月12日のことであった。ここで留守番のようなかたちで、およそ一年間妻文江ととも過ごすことになる。引っ越しを終えて、これから過ごすことになるこの家の庭に、槙の木を見て勇気づけられる。
 日記に「茶室の雨戸をあけ、障子をあけて庭をみる。槙の木美し」と書き留めている。槙の木は、戦後最初に入院することになった松戸の国立療養所で、彼を励ましつづけた。彼は槙の木を「ツアラストラ」と呼び、心の支えにしていた。その木がこの庭にあったのである。槙の木、長谷川にとっては、それは生きる希望だった。
 日記には「槙の木を見て」という詩の下書きが残されている。

槙の木を見て

虎のひげのように剛い
槙の木の葉よ
こんもりとベレー帽型に
鋭い葉を上向きに揃えた
槙の木に
私は心ひかれる
幹はものさびて頑丈だ
かつて私が松戸療養所にいた時
入り口にそびえる高野槙を信仰し
ツアラストラと名づけて
日夜仰ぎ見たあの古木
高々とそびえ立ち
頂きは抜群の高さで
空を刺していた・・・
いま旭で
槙を見て
心強さを覚える
私の原始の信仰かもしれない

 引っ越してまもなく、彼は近くにある海を訪ねようと思って歩きはじめるが、地図では九十九里浜の近くにあるものの、海はここから1時間以上歩かなければならないことを知り、ちょっとがっかりする。海を見るためには銚子まで出ることだと教えられる。引っ越して一ヶ月後の5月13日長谷川は家主の岩井の案内で、銚子観光にでかけている。観光バスでの駆け足の観光だったが、犬吠埼に強い印象をもった。犬吠埼から、かつて訪れた紀州の潮岬のような荒々しい海が見えてきた。
 「犬吠埼にて」と題した詩の断片でこの時の思いをこう綴っている。

犬吠埼にて

犬吠はぼうぼうと
海風に鳴り
岩礁黒くして
しぶきをあげ
白き歯を剥けり

 この時長谷川は探すことができなかったのだが、どうしても見たいものがあった。それは犬吠埼に連なる君ヶ浜にある、この海辺で25才の若さ溺死した詩人三富朽葉の碑であった。
「犬吠埼にて」の中で続けて彼はこう書いている。

長汀君ヶ浜に
溺死詩人三富朽葉の
「涙痕の碑」あれど
我行かず
ただ展望して
在りし日の詩人をしのぶ
バイロンも溺死せりとか・・・
ああ詩人の波浪にのまれし
その瞬間に
犬吠の風はいかに強かりしか・・・
我、逸見猶吉を満洲に失いし
あの五月の陽光を思いつつ
いま朽葉の涙コン(リッシンベンに良)の苦きをしのべり
その苦きを・・・

 三富朽葉(みとみ・くちは――1889〜1917)は、長崎県壱岐出身で、早稲田大学を卒業後、自由詩社に参加、マラルメやランボー、ヴェルハーレンなどフランス象徴派の詩を紹介する一方、「早稲田文学」等に詩やエッセーを発表、注目されたが、29歳の時三富家の別荘があった君ヶ浜で水泳中に溺死した。一緒に泳いでいた早稲田出身の詩人今井白楊が溺れかけているのを見て、助けに行ったものの自分も溺死してしまったという。この碑は、九州から駆けつけた二人の両親が、建てたものだという。若き息子たちの急死に悲嘆にくれた両親は、この碑を「涙痕の碑」と名付けた。
 長谷川は岩井氏からこの夭逝した詩人のことを聞いたようだが、若くして亡くなった詩人のことが気になって気になってしかたなかった。銚子観光した4日後の5月17日の日記に、「犬吠埼、君ヶ浜の「涙コン(リッシンベンに良)の碑」のことしきり思わる」と、さらに5月26日に「犬吠の君ヶ浜に心ひかれる。「涙コン(リッシンベンに良)の碑」を見たい」と書いている。
 長谷川がこの碑を探しに、君ヶ浜を訪ねるのは、およそ一年に及ぶ旭での生活にピリオドをうち、再び東京に戻ることを決めてからのことであった。やはりどうしても気になったのだろう。
 1972年4月22日この碑だけを探しに彼は銚子から千葉電鉄の路面電車に乗る。

「11時32分着。そのまま千葉電鉄で君ヶ浜に赴く。海辺に出て、茫々たる海面と波をながめて、「涙痕の碑」をさがす。見当たらず。風吹き、人影なき浜辺に波白くおどり、崖の上に灯台白し。約20分砂原を歩き、松林の小径を歩き、駅につく。」

君ヶ浜「涙痕の碑」 結局彼は、この碑を見つけることができなかった。
 何故長谷川はこの碑のことがこれだけ気になったのだろう。若くして死んだ三富朽葉という詩人の書いた詩のことはほとんど知らなかったのではないだろうか。ただ溺死し、夭逝したことによって永遠の存在となったこの詩人と、彼にとって永遠の詩人である逸見猶吉とが重っていたはずだ。永遠に人々の心に残る詩を書きたい、永遠に人々の記憶に残る詩人になりたい、そんな思いではなかったか。決して身体の調子がよくないのにもかかわらず、三富の碑を探すなかで、無名の詩人である自分を探していたのではないだろうか。
 「涙痕の碑」は、犬吠埼の灯台の下、君ヶ浜へ続く浜辺にある廃屋のところにひっそり立っている。君ヶ浜から犬吠埼灯台をめざして歩けば、すぐに見つかるはずであった。日記には20分ほど探したと書いているが、実際はもっと短い時間だったのかもしれない、それだけ歩くことは長谷川にとっては体力的にもきつかったのだろう。

 引っ越した当時は、新しい生活への期待感もあり、意欲的に作品をつくり、翻訳にいそしむのだが、次第次第に、地方都市の無味乾燥な生活に嫌気がさしてくる。
 次男寛さんはこう語る。

「父は、東京に帰りたくてしかたがなかったと思います。旭は田舎ですから、本を買うのにも不自由するし、友だちもいませんし、退屈だったんでしょうね。たまに東京にでる用事があると、喜々としていましたね」

 さらに転地治療のためにここへ来たのに、半年ぐらい経ち、寒くなると、またぜん息の発作がでる。東京にいれば、病院の心配はない、岩井先生の父が近くの病院を紹介してくれたものの、やはりかかりつけの医者に診てもらった方が安心である。彼は1972年4月30日再び杉並の家に戻る。

 東京に戻ってすぐに、『動物文学』の平岩や、『作文』の青木に連絡をとったり、旧友のひとりがもちこんだブルガーコフの翻訳の話について打ち合わせたりと、忙しい時をすごす。彼にとって隠遁生活よりもこうして人と交じわるほうが自分には合っているとあらためて思う。しかしやはり身体がついていかなかった。
 東京に戻ってすぐ、5月3日の日記に「全身だるく、咳のみ多く、ベットに横たわる。トラックの四時間強行ドライブ、そして昨日の友とのしゃべくりまくった。疲労せり。弱ってしまった。」と書き、翌日には中野の病院に入院、そして5月29日にはまた桜町病院に転院、再び入院生活に入る。この後8月には退院しているが、11月に再び入院、翌年3月まで入院することになる。
 「あと十年頑張りたい」(1972年6月6日)と、またおまじないのように自分を励ますのだが、彼にはもう十年も生き残るための体力は残っていなかった。でも彼は病院で大学ノートに自分の思いを、作品メモを書き続けるのである。

 晩年の長谷川濬の文学に対する情熱は決して萎えることはなかった、むしろますます強まっていたといえる。長谷川寛さんから預かった最晩年の濬の日記には、字に乱れもなく、翻訳、童話など、新たな企画をしっかりと書き留めている。特に最後のノートを見ると、彼が必死になって自分の人生を総括する作品を書こうとしていたことがわかる。こうした熱情が、彼の弱った身体を支えていたのだろう。

つづく


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