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【連載】長谷川 濬―彷徨える青鴉

最終回 「虎」へ帰る その2

承前

99番目のノート――長谷川濬 白鳥のうた

 次男寛さんから預かった大学ノートには、寛さん自身がふったナンバーが貼られている。最後の一冊の番号は99だった。いかにも長谷川濬らしいではないか。100ではなく99、未完を象徴する数字が、長谷川濬という男の生きざま、そして自分でも満たされなかった人生を暗示しているとはいえないだろうか。満願ではなく未完、それが長谷川の選んだ人生であったのだから。
 このノートは、1972年10月18日から書きはじめられている。1973年3月吉田一穂が亡くなった時には、金子光晴らが書いた吉田への追悼文の新聞記事の切り抜きが貼られ、さらには長谷川自身の別れのことばも書き留められている。

「吉田一穂氏逝去
報告(一穂は昭和四十八年三月一日死す)
逸見猶吉よ
一穂は死んだ(ウルトラマリンの底の方へ)
無風帯お砂丘に
足跡がつづく
ピークより転落
猶吉よ
一穂は死んだ
(ここいうぐんぐん
密度の深くなか北方
何処からも荒涼たる
ウルトラマリンの底の方へ・・・)
猶吉と一穂を失った俺は
やっぱり 北の磁針を指して
ひとり行く アムンゼンを追って・・」

 北を目指した逸見猶吉と吉田一穂は、長谷川にとって数少ない同志だったといえよう。逸見猶吉の「報告」を引用しながら、いかにも長谷川らしい弔いの詞であった。
 このあとこのノートには日付がふられていないので、いつまで書かれたものかはわからない。もしかしたらこのあとにも何か書き綴ったノートがあるかもしれない。吉田一穂が亡くなった前後にこのノートに書き記しているのは、日記というよりは、作品メモと言ってもいいかもしれない。そしてその作品とは、自分の人生を振り返るために、真っ白な状態になり、書き綴ろうとしたものだった。生まれ故郷「函館」の思い出、そしてここを舞台にした従妹との淡い恋物語、そして彼を生涯苦しめることになった大阪時代の不倫事件の顛末が、はじめて明らかにされる。いままで従妹の思い出、大阪の不倫事件については、何度も日記のなかでくり返し振り返っている。しかし例えば従妹のことについても、Aというイニシャルで表示したり、大阪の不倫事件についても、断片的に振り返っているものの、自虐的なメモばかりで、実際に何が起きたのかはわからなかったのだが、このノートで何が起きたのかを淡々と書いているのである。かつて自分の人生を書きたいと書いた長谷川が、その作業にとりかかったということなのだろう。活字になったものでさえ、未完成のものが多い長谷川の文章にしては、メモではあるが、簡潔で、要点がはっきりしており、それだけまとめようとした意志を強く感じるものだ。
 それだけ自らの死を強く意識して書いたものといえるのではないだろうか。この最後のノートの裏表紙には「六十六年の人生行路の終点ここにしぼらる」と書き留められている。
 もう少しこのノートに書かれたことを見ていきたい。

 このノートの表紙には「(北方感傷記)我が心のうた――66才の老病人の手記」と大きく横書きで書かれ、さらにあとで書かれたと思われる「ふるさとのおもい出」と縦書きの文字が記されている。そして目次の欄には1から81まで番号をふった見出しが書かれている。そのほとんどは函館の回想記だった。長谷川の小学校時代の同級生で幼なじみの作家亀井勝一郎に「函館八景」という作品があるが、それにならったかのように、函館の街の点景と自分の幼年時代の思い出をからませながら、アフォリズム風に小気味よい文体で、綴っている。ツルゲーネフの『散文詩』を思い起こされるような小品になっている。
 書きはじめた1972年10月18日から11月1日までには日記風のメモも見られるが、27番目の「我が兄の帰国のこと」が書かれてから、空白があり、1973年3月9日退院の翌日というメモが書き込まれている。長谷川は72年の11月から翌年の3月までに桜町病院で三度目の入院生活を送っていた。
 このあと28の番号がつけられた「月に関する会話」が書かれるのだが、それがいつ書かれたものなのかは、日付がつけられていないのでわからない。病後なので、一気に書かれたとはとうてい思えない。ただ以前書かれたノートのように、断章風のメモというよりは、ほとんど訂正もなく、文章の完成度も高いので、いままで断片的に書かれたメモを清書するようなかたちでまとめたのではないかと思う。目次とノートに書かれた番号を照らし合わせると、28の「月に関する会話」から何故か一頁ずつとばして書いているのがわかる。最後の頁に書かれたのが43の「がいだが」で、44の「倉庫町」はまた頁が「月に関する会話」の次の頁に戻っている。どのような意図があって一頁ずつとばして書いていたのかはわからない。あとでなにか書き足そうとしたのであろうか。
 ただいつかの時点で、これを最後のノートにしようという意志が働きはじめたように思える。目次では最後の章になっている「斉藤鉄男と章子の出会い」を書きはじめたとき、これが絶筆になるという覚悟を固めていたのではないだろうか。
 最初に書き留めていた函館回想散文詩のあいだ、一頁おきに17回にわたってこの章が綴られていくのだが、明らかに筆致が違うし、ほかの文章は青いインクの万年筆で書かれているが、この「斉藤鉄男と章子の出会い」は黒インクで書かれている。この手記は長谷川濬の青春時代の淡い初恋、そして破局、人妻との不倫を描いたものであった。なぜ彼が人生の終点を前にしてこれを書かねばならなかったのか、それを思うと胸がつまってくる。彼が何十年間ものあいだ大事にしていたものであり、またそれは自分の恥部であり、それを人生の最後に告白しようという、その馬鹿正直な誠実さ、それが長谷川という男の生きかたであったのである。

斉藤と章子の邂逅てんまつ記

 寛さんから長谷川濬が書いたノートをお預かりして、読みながらずっと気になっていたこと、それは長谷川濬が、赤裸々に自分の思いをぶちまけたこの手記のなかで、何度も何度もくり返し書いていながら、いつも核心をぼかしていたことがあったことだ。それは彼が函館時代、立待岬の海で一緒に泳ぎ、彼が初めて航海にでるときに見送りにきた女性が誰だったのかということ、それと大阪時代に彼を性の虜にさせた人妻といったい何があったかということだった。淡い初恋、そして不倫という見事なコントラストを描くこのふたつの出来事に、彼はずっと囚われていた。いわば原罪のように背負ってきたもの、それを彼はこの手記のなかで何度もふれながら、いつもぼかしてきた。それは、このノートを誰かに読んでもらいたいということを意識しながら書いていたからなのだろうと思う。この誰かというのは、妻の文江である。いままでこの日記のなかで、「妻文江に捧げる」という文章を何度も巻頭に書いている。その文江に、自分の原罪を告白できなかった。おそらくいつか書こう、言おうと思いを抱いていたのだろう。その時期が来たと、はっきり意識した時、つまり死がもう間近にきていると思ったとき、彼は一気呵成にこの告白を文にしたためた。
 この99番目の最後のノートを読みながら、いままでもはっきりとしなかったこと、それがすべて氷解することになった。

「斉藤鉄男は私の宝高等小学校時代よりの友人で、彼は住吉小学校から高等学校一年に編入され、そこで弥生小学校より転校した私と同じクラスになった。先生は竹林と云うチャップリンひげを生やした若い先生であった。弥生と宝の生徒が一所になってはじめて一つの教室に集まった時、竹林先生が一場の訓示をやった。当時斉藤が色黒く、目がギヨロついていたので、先生は「インディアンみたいな目で・・」と彼に注目した。実際も色黒く、目がギヨロつきインディアンと云われる顔付きであった。斉藤は文を作るのが好きで、少年雑誌に投稿したり、文を作って先生にとりあげられていた。私も文を作ったので、二人の文はよく先生にとりあげられ作文の時間に読まれたりした。」

 この手記は、こんなふうにはじまる。
 斉藤なる人物が長谷川の手記に本格的に登場するのは初めてである。こういう友達がいたというようなエピソードとして登場することはあったが、この手記により、長谷川にとってこの同級生が、「デミアン」のような存在であったことが初めて明らかになった。
 そして、斉藤鉄男が兵役に服すため旭川に行き、長谷川の前から姿を消したとき、長谷川にとっては運命の女性といってもいい、章子が現れる。嶺子さんによると、父方、母方を含め、親類のなかで最も美人だったという。

「斉藤のことはやや私の記憶より遠ざかる感があった。私の従妹の章子は、私が二十才、彼女が十九のとき、私は福島の家で彼女にあった。彼女の父、即ち私の伯父は当時福島高等の教授で学校では首席に近い教授であった。従弟が健康保持のため函館に一夏泊まっていて、その付き添いとして十九の章子が私の家に泊まり、私がカムチャッカに行くその年の夏しばらくいっしょに生活し、大沼公園に行ったり、トランプをやったりしてたのしんだ。
 私がペトロパブロフスクへ船出するとき彼女はサンパンに乗り、私の船出を送ってくれた。」

 カムチャッカから帰って来たときに章子は福島に戻り、ふたりは文通をはじめる。章子の手紙に、恋とか愛とかという文字がでてくるようになる。あまりにも頻繁に手紙のやりとりをするのをみて、濬の母は心配になり、何度も注意する。血の濃さを心配してのことであった。
 久しぶりにふたりが会うのは、濬が大阪外語大学を受験するため大阪の叔父のところに寄宿していたときである。入試に失敗し、その報告のため函館に戻ったとき、函館高等女学校の体操の先生をしていた章子と再会する。

「久し振りで章子と会ったが、かつての文通時代のように互いにあこがれるような気分もなかった。或る夕、私は章子によく手紙をやりとりしたものだと話し合った。そのとき私は東京に出ると、やっぱり章子の姿を求めた。あの手紙をやった時がなつかしいと云った。章子も何か追想にふける顔付きであった。私は急に胸が熱くなって、彼女に接吻した。私ははじめて女の唇に自分の唇をつけた。章子は私の接吻に応えて私を抱き、接吻を返し、そして二人は何も云わずキッスをくり返し、またくり返した。その時「これが最後です。これできれいに別れましょう。これが最後です」と云った。二人は深夜にいたるまで抱き合って、涙を流した。そして私は夜おそく兄や弟のいる寝室に入って寝た」

 束の間とはいえ禁断の敷居を越え、大阪に戻った長谷川を悪夢が待っていた。

「私は来年の入学試験準備のため、また大阪に戻り、下宿先を変えようとした夜、叔父の妻に誘惑され、そして女の肉体を知り、人妻の接吻にすっかり度肝をぬかれたが、性交を完遂せず、ただ女の肉体を知り、その接吻の強烈なるのにおどろき、朝まで眠れなかった。これをチャンスに私はその妻君の肉体のおもちゃとなり、寺の下宿にも女はやって来て、私をいじり廻した。」

 初めての性体験に導いた義理の叔母は、まさに長谷川を弄んだ。彼は一度も女性のなかに射精させられなかった。やがて叔父に不倫が発覚し、大阪から追放された長谷川は、函館に戻り、弟の四郎に告白する。やがてこのことは父母の知ることとなり、ふたりは慌てて息子の不始末を詫びるために大阪に向かう。当時函館の実家で寄宿していた章子にも長谷川はこのことをすべて告白する。このとき章子は「私が悪かった」と一言いったという。

 章子と濬の淡い恋が終わり、そして叔父の妻との不倫にも終止符が打たれたとき、また違う恋愛劇が育まれることになる。これについては、長谷川がいままで日記で一度も触れていないことである。
 章子と一緒に市電に乗っていたとき、偶然かつての親友斉藤鉄男が乗り合わせる。兵役を終え斉藤は函館に戻っていたのだ。三人は濬の家で、お茶を飲みながら、遅くまで話しあう。斉藤の妹が、章子の教え子だったこともあり、初対面だった鉄男と章子はすぐに親しくなる。

「斎藤を送った章子の目が異様に光っていた。そして章子は斎藤に恋をした。」

 章子は、まさに電光石火、鉄男に恋し、鉄男もまた章子を恋したのだ。そしてふたりは結婚する。
 ふたりが結婚したという話は大阪の長谷川のもとにも届く。親友と、かつて淡い恋心を抱いた従妹との結婚は、長谷川に大きな衝撃を与えた。結婚した翌年、追い打ちをかけるように突然ふたりは大阪の濬のもとを姿を現す。

「私が外語二年生(昭和六年三学期)のとき、章子と鉄男が大阪にいる私の下宿先に訪ねてきた。斎藤一家がブラジルに移住するので、別れにやって来たと云う。いま神戸にいて、明日午後出帆の移民船で神戸を出ると云うのだ。
 二人は私の部屋にすわり、鉄男は前に、章子はその後ろに座った。章子の私を見る目が何となく意味あり気で、私は内心胸騒ぎを覚えた。それは「あの当時、手紙をやりあった頃、泳ぎに行ったころ、また鉄男が不在のとき、私を抱いてくれたあなた、あの頃がなつかしいのですね」と語っているようにとられた。私の目付きも普通でなかったのであろうが、今でも章子のあの眼光に一つの謎を見る。
 翌日移民船は神戸をはなれた。私は埠頭に送る気になれず、丸善隣のドンパルと云う喫茶店でコーヒーをのんでいた。」

 デミアンのような存在斉藤鉄男と初恋の相手章子が結婚するだけでも大きな衝撃だったはずなのに、そのふたりがブラジルに行くという。長谷川の気持ちは穏やかではなかったはずだ。長谷川がまるで逃げるように満洲に渡るのは、ふたりのブラジル行きが大きな影響を与えていたのかもしれない。
 ブラジルでふたりの生活は破綻する。どんなことがあったのか長谷川は書いていない。長谷川が満洲より引き揚げる前に、ふたりは東京に戻っていた。東京に戻った長谷川は、ふたりを訪ねる。

「鉄男一族が横浜の鮮人部落のそばの長屋にいるとき、私は訪問した。すすけた部屋に章子は鍋のすすだらけになって戦後の苦しい生活に堪えていた。薪となる木片を拾い、煮炊きに使い、そのすすで身も顔もすすけ、鉄男は易にこり、ギターを奏で、昔と変わらなかった。食後鉄男のギター伴奏で章子と子供たちが合唱した。章子の声が最も高く冴え渡って聞こえた。すすだらけの手で顔をすすだらけた章子が声高くうたっているあの顔を見て私は胸が一杯になった。
 横浜駅まで章子は私を送った。途中改札口に入るまで、章子は「私は幸福です」の連続で、私に一言も云わせなかった。「私は幸福です」と。そして横浜のアパートに移った。鉄男は突然脳溢血で急逝した。昭和三十五年か。幸福なるまま彼は逝った。」

 この「斉藤鉄男と章子の邂逅」はこう締めくくられている。

「鉄男の死ですべては終わりを告げた。娘たちは嫁に行き、孫が出来、長男も船を下りて陸上勤務についた。(テレビ局の自動車の運転手)
 章子は学校をやめ、孫たちの間をめぐり、鉄男の思い出に生き、よきばあさんとなり、時々玉江の処に現れ、泊まっていく。私の処に一回来たが゛何となく文江に気を使っているようだ。章子はエホバにこり出した。鉄男――小学校時代より、私だけに友情を結び、私とつき合い、ついに章子とめぐり会い、人生の伴侶とした。全く一生の運命を感ずる。」

 長谷川にとって章子は、ひとつのトラウマだったのかもしれない。それをどう文学にするかということより、それを自分の人生として、とう受けとめるか、それを書き残すこと、それが彼にとっては大事なことだった。

長谷川濬の死

 辛かった告白を書いて、長谷川濬はずいぶん楽になったのではないだろうか。そして生きたいという力をまたもったのではないだろうか。
 寛さんが、杉並の家に見舞いにいったとき、もしかしたらそれが最後に父の顔を見たときなのかもしれない。濬はこれ面白いぞといって、一冊の本を見せた。『荒海からの生還』という本であった。
 この本は、小さな子供ふたりをふくむ家族四人と若い青年一人を乗せたヨットが、南太平洋を航海中に、シャチに襲われ、沈没し、ゴムボートに乗り移り、数週間洋上をさまよい、日本の漁船に全員無事に救助されるまでの実話を描いたものであった。
 寛さんは、この時のことをこう思い出している。

「わたしが成田東の父のところへ行ったとき、父がこの本は面白いから読みなさいと言われたのです。そして本の内容をいろいろと聞かされました。そのときはなぜか今更という気がしまして、本は借りてきませんでした。わたしがそれを読んだのは、父が亡くなってからのことです。なおこの本の発行日が昭和48年10月30日になっていますから、父が読んだのは本当に死の直前ということになります」

 寛さんを取材して何度目のことだったか忘れたが、ある時寛さんがうれしそうにこの本を見せてくれた。

「父はこんなところに赤線を引いていたのですよ」

 長谷川濬が赤線を引いていたのは、こんな場面であった。
 漂流した家族にとって、救いを待つしかないとき、待ちに待った貨物船が近くに見えた。みんなで手を振り、信号灯をふったが、彼らを発見することなく、遠ざかっていった。そのあとの文章に長谷川は、赤線を引いていた。

「この貨物船は西に向かっていた。燃え尽きたり、湿っていて発火しなかった発煙信号などを苦々しい思いでながめているうちに、私は突然、そうだ、と気がついた。この苦境をどう乗り切るべきかについての私の考えは、この瞬間から一変したのだ。あの貨物船はわたしたちを救助してはくれなかったが、それならそれでいい。それならばいっそ連中のことなど忘れて、自分たちだけの力で切り抜けてみせよう。あんな船の助けなどなくても生き抜けるし、これからは「救助」とか「助けを待つ」などといった、他人に頼る精神は捨てて、「生き抜く」を合言葉にするとしよう。そう考えると体中に力がみなきぎってきて、貨物船に救助してもらえなかった悲しさは消え、どうにでもなれといった、むしろ楽しいような気分になった。猛獣のような闘争意識もわいてきた。この海はわたしたちの生存に適した環境ではないし、失敗すればサメや魚のエサになるのがおちだ。だが、立派に生き抜いてみようじゃないか」(河合伸・訳『荒海からの生還』朝日新聞社 1973年

 戦後長谷川は幾度も辛酸な目に遭ってきた。日記のなかでそれに挫け、泣き言や、自虐的な言葉を書き留めてはいるが、彼は一度も「死にたい」と書いたことはない。「死して成れよ」というゲーテの言葉を何度も書いていた。自分が死なせたと一生の重みにしていた長男満の死をふりかえるときも、彼は苦しんで生きることこそ、自分の宿命だと書いていた。生き抜くこと、生きて苦しみを受け入れる、それが自分の生きかただと。いくつもの死を乗り越え、しかも自分の死が確実に近づいているのを知っていたときに、彼はこんな言葉に魅了され、赤線を引いていたのだ。長谷川濬は、最後の最後まで、生きようとしたのだ。生き抜くこと、それが長谷川の生きかたといえるのではないだろうか。

 長谷川の死は突然、そして静かに訪れた。1973年12月16日日曜日の昼下がりだった。文江は、「お父さん、今日のお昼は何にする?」と聞かれた長谷川は、「うどんがいいなあ」と答える。文江はうどんをつくり、ふたりでお昼を食べたあと、いつものように長谷川は昼寝をするため横になった。いつもだったら喘息のため寝ていても咳き込むのに、今日はずいぶん静かに寝ているな、と文江は思った。しかし3時すぎても起きて来ないのを不思議に思った文江がのぞきにいくと、すでに長谷川は息絶えていた。
 日曜日だったので、いつものように父のところを訪ねようとした嶺子は、杉並に行く前に渋谷のデパートに寄った。父にとても似合いそうな煉瓦色のセーターを見つけ買ってしまう。父の喜ぶ顔を想像しながら、杉並の家に着いたとき、救急車が家の前に止まっているのにびっくりして家へ駆け込み、そこで初めて父の死を知る。

「母の話しだとお昼を食べているとき、今日嶺子は来るのかと言っていたと言うんですね。もっと早く行けばという思いはあります。せっかく父に似合うセーターを買ってきたのにね。棺にいれてやりましたけどね。でもいい死にかたですよね。苦しまずに寝ながら死ねたのですものね。私もこんな風に死にたいと思いますよ。」

シベリアの密林への帰還

 長谷川濬がなくなった翌年1974年8月同人であった『作文』は「長谷川濬追悼」を特集している。戦後文壇とは無縁で、文学界から忘れられた存在であった長谷川であったが、戦前満洲時代から同人で、最後の最後まで寄稿を続けていた雑誌『作文』だけが、長谷川を追悼することになった。ささやかな追悼号ではあるが、長谷川にはふさわしいものだったといえるかもしれない。同じように満洲時代からの同人であった「動物文学」の平岩米吉、満洲時代からの同人仲間緑川貢、大野沢緑郎、青木実、秋原勝二らのほか、弟の四郎が回想を寄せている。この追悼号がでたあと、週刊朝日のコラム「活字の周辺」に「「偉大なる王」の訳者長谷川濬を悼む」と題されたエッセイを「カザック」氏が書いている。
 ここでカザック氏は、「文壇のモンスターとよばれた林不忘にも、未知なものが残された。長谷川濬はそれ以上に未分化のまま去っていたようだ」と締めくくっているが、まさにその通りだろう。「偉大なる王」の訳者として、一躍名声を馳せた長谷川であったが、戦後文学のなかに、彼の場所はなかった。戦後三〇年あまり、必死になって、もがくようにして彼が書き続けたものは、未分化のままの埋もれていくことになった。

 戦前からの同人『動物文学』では、あらたまって長谷川追悼をしていない。ただ創刊201号目となる1974年に長谷川の訳文「アンバ」が掲載されている。虎が縁で『動物文学』に加わった長谷川濬の最後を締めくくるには最もふさわしい弔いになったかもしれない。
 長谷川濬が『動物文学』に入会し、初めて寄稿した文は、77集の「虎ものがたり」であった。80集にもその続編「続・虎ものがたり」を発表している。「アンバ」が掲載された前号は、200号記念号となったが、そこで長谷川は「こんこんと流れる地下水」と題されたエッセイでこう書いている。

「私と虎が縁となって「動物文学」誌と知り合い、第一の投稿が虎に関する随筆で、それがはじめて活字になった時の印象は今でも鮮やかだ。それ以来、時々投稿し活字になるので、私と「動物文学」誌は私のペン生活の支柱であり「動物文学」誌に私のほんやくの大部分は掲載された。これは私にとってほんとうにうれしいことで、お蔭様でいろいろ勉強させて頂き、個人的にも平岩氏にいろいろお世話になり、言わば「動物文学」は私の人生の一部になって私に密着している」

 「アンバ」は、アルセーニエフの『ウスリー探検紀行』の一節である。長谷川濬は、戦前満洲で弟四郎と共訳で「デルスウザーラ」という本を出している。もっともこの本の翻訳は実際には四郎がやり、当時はバイコフの『偉大なる王』の翻訳者として有名だった濬の名前を借りたというのが実情だった。
 晩年長谷川は、アニセーニエフの『ウスリー探検紀行』を訳し、それを『動物文学』に掲載していた。自分の翻訳で、「デルスウザーラ」を出したかったのかもしれない。
 もうひとつ考えられるのは、当時しばらく映画をつくっていなかった黒沢明がソ連の力を借りてアルセーニエフ原作の『デルスウザーラ』をつくることが発表されことに刺激を受けたことだ。
 平岩は、追悼文のなかで「最近、しばしば意欲を見せられていたのは、黒沢明監督が満洲でデルスウウザーラを映画化すると聞いて、その通訳を買ってでたいということであった」と書いている。
 『動物文学』に「デルスウザーラ」をあらためて訳し、発表しようとしたのは、黒沢明へのデモンストレーションだったかもしれない。
 しかし、最後に『動物文学』に掲載されたのが、「アンパ(虎)」だったことにひとつの因縁のようなものを感じる。「虎」で始まった長谷川の文学生活は、虎で終えることになったのだから。

 満洲の樹林のなかを、独り、ストイックに獲物を求めて彷徨う虎(アンパ)の姿を追いながら、訳す長谷川濬の魂は、満洲を彷徨っていたのではないだろうか。
 愛する子供たちを死なせてしまったという悔いても悔いきれない想い、文学界に名前を刻むことができなかったという無念さを抱き、それでも長谷川濬は、生き続けようとしていた。

金色の虹を
瞳孔にからみつけて
飢に喘ぐ虎・・・

 これは『作文』に発表された「虎」と題された長谷川の詩の一節である。長谷川の魂は、いつも北の大地を彷徨っていた。満たされない想いを飢えたように求め、厳寒の地を、ひたすら前を向き歩いていた。樹林を彷徨う虎のように・・・
 長谷川濬の魂は、満洲の樹林へ帰っていた。そこでは長谷川の心の父であったバイコフが待っていたはずだ。
 長谷川より15年前に、オーストラリアのブリーズベンで八六才で亡くなったバイコフが、最後に発表した小説は「さらば、樹林」だった。
 「満洲」で、そして「虎」で結びついたバイコフと長谷川濬のふたりにとって、帰る場所はそこしかなかったはずだから。


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