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【連載】長谷川 濬―彷徨える青鴉

連載を終えて

 『虚業成れり』という神彰の伝記を書くそもそものきっかけは、長谷川濬という男の存在であった。神彰が呼び屋になったのは、長谷川濬が荻窪のアパートで歌ったロシア民謡がきっかけとなり、ドン・コサック合唱団を呼んだことから始まる。バイコフの「偉大なる王」を訳し、一躍満州文学界を代表する文学者となった長谷川濬であったが、満州崩壊後まさにすべてを失い、ボロボロになりながらやっとの思いで引き揚げてきた。帰国後は病気のため、ほとんど仕事にもつかず、文学の世界からも完全に忘れられた存在となった。そんな彼が起死回生を賭けて挑んだのが、ドン・コサック合唱団の招聘だった。
 こんな伝説の断片を、神彰のもとで呼び屋稼業をはじめた、かつて私が世話になった興行会社の社長大川弘から何度も聞かされてから、ずっと気になっていた。長谷川濬に、なにか自分と同じ匂いを感じたのかもしれない。
 調べているうちに神彰の呼び屋としての生きざまのほうが気になってくる。自分は現役の呼び屋であったのだから、呼び屋として神彰の生きざまを知ることのほうが面白かった。そして自分は神彰の生涯を追うことになった。
 『虚業成れり』を書き終えて、自分なりに充足感があった。あとがきでも書いたように、これを書いたことで、自分は呼び屋として生きる決意を固めたからだと思う。ただ波瀾万丈、まさに華麗な生涯をおくった神彰の伝記を書き終えて、どうしても気になったのは、ドン・コサック合唱団の日本公演の栄光を独り占めした神彰から見捨てられ、ひとり北方の海を航海しながら、満州に、そしてロシアに思いを馳せる長谷川濬のことだった。なぜ彼は見捨てられ、その後どんな人生を歩くことになったのか、知りたくなった。
 出版社に最終原稿を渡して、最初に自分がしたことは、神奈川県立図書館に所蔵されていた、彼が満州時代から同人となっていた同人誌『作文』に長谷川濬が書いた小説や詩、エッセイのコピーをとることだった。自分は、長谷川濬のことを書かなければならない、そんな思いにとらわれた。何故かわからないが、これは自分の使命だと思ったのだ。

 神彰の取材で会った長谷川濬の次男寛さんが別れ際に、父が書いた日記があるのですがとぽつんと漏らした一言も、頭からこびりついて離れていなかった。『虚業成れり』を入稿してからすぐに、もう一度面会を申し込み、長谷川濬の伝記を書きたいのでこの日記を見せてもらえないのだろうかとお願いした。寛さんは、この日記を全部私に預けることに同意してくれた。
 長谷川濬が残した『青鴉』と題された100冊あまりの日記をもとに、戦後の長谷川濬の足跡を追うことになった。初めて日記を手にしてから四年。この間函館、三輪崎、松戸、銚子など長谷川に縁の深い土地を訪ね、また長女の嶺子さんの話を聞くために沖縄にも行ったりもした。長谷川濬という男の姿が、次第に自分のなかではっきりと捉えられるようになった。

 長谷川濬は、長谷川四兄弟のひとりであったが、兄海太郎や弟四郎に比べてほとんど知られていないといっていいだろう。この四兄弟については、『彼等の昭和』という川崎賢子が書いた評伝があるが、このなかでも一番存在感が伝わってこなかったのが、長谷川濬だった。
 こんな濬の実像を自分の中で、少しずつ明らかにするなかで、未知のことに足を踏み入れるそんな手応えを感じつつ、しばらくはその作業に熱中していた。しかしある時から、この作業が、次第に辛くなってくる。なにか息苦しさを覚えるような重い圧迫感にとらわれ、しばらく書けなくなった時期が続いた。連載を終え、少し冷却期間を経て、なぜ書けなくなったのか、ひとつわかったことがある。それは長谷川濬が書き残した日記に、あまりにも依存していたことだった。この日記を寛さんから託され、読んで、長谷川濬の伝記を書けるという自信が湧いてきた。これだけ赤裸々に自分を語っている、まだ手垢に染まっていない資料が目の前にある、それがあれば長谷川濬の実像を書けるはずだと思った。「彷徨える青鴉」は、この日記をそのまま反映したものになった。だからこそ救いのない、逃げ道のない、重苦しさに、書いている自分自身追い詰められている、そんな疲労感にとらわれたのだと思う。もしかしたら自分は、長谷川濬が生きた戦後をそのまま後追いしてしまうことで、長谷川濬が陥った迷路にはまってしまったのかもしれない。

 もうひとつ書けなくなった理由がある。
 この貴重な日記の存在を教えてくれた寛さんには、何度も取材させてもらったのだが、そのたびに父の伝記を書く意味はあるのですかと、問いかけられてきた。沖縄で長女の嶺子さんと初めてお会いしたときも、何故父のことを書くのですかとまず尋ねられた。寛さんや嶺子さんにとって、異彩の人材を多く輩出した長谷川家のなかで、文学者として父の濬の存在は、そんな重いものではなかった。いままで知られていなかった父の存在を知らしめる、こんないい機会はない、ありがたいと思われるはずだったのに、濬の子どもたちはまったく異質な反応をしめしたのである。おふたりとも父の影響を受け、文学や音楽、映画をこよなく愛し、ほんものを見抜く力を養っていた。そのふたりが、文学者としての父・濬をとりあげる意義があるのかということを、問いかけてきたのである。少しずつ自分のなかでブレーキがかかってきた。
 自分は何故、長谷川濬を書こうとしているのか、それを熟考する機会を、長谷川濬の子どもたちは与えてくれたのかもしれない。
 この連載のなかで、戦後長谷川濬が書いた文学をそのまま紹介した。それは同人誌だけで紹介された作品で、ほとんど知られていないものばかりであった。長谷川濬の文学を紹介しながら、戦後の長谷川濬の足跡を追おうとしたのだ。文学者としての長谷川濬を発掘しようという気持ちがあった。
 しかし長谷川濬の子どもたちがすでに認めていたように、彼の小説は、文学として認められるものまでに達していなかったものばかりであった。長谷川濬は、まるで暗号を残すかのように、ただ書き散らしていただけだったのである。
 彼は文学者として、私の前に立ち現れたわけではなかった。文学者としての再評価することではなく、自分が書きたいと思ったことは彼の生きざまではなかったのか。いくどもいくどもうちのめされながら、そしていくども死と向かい合いながら、「死して成れ」とゲーテの言葉を引用しながら、生きる道を選び、どんなボロボロになりながらも生き抜くことに徹した、その生きざま、引き揚げの時に次女を亡くし、やっと帰って来た日本で、長男を貧困のなかで病死させてしまったその責任を一身に背負い、死なせたのは自分であり、その罰として自分はどんな貧困であろうが、病気になろうが、生きていかねばならないと、まさに地を這うように生きた男の生涯を書くことではなかったか。
 彼がまさに書き散らした文学作品も、彼が残した日記も、彼がそうして懸命に生きた証であった。ただ長谷川濬はそれをまとめようとはしなかった。それが長谷川濬の生き方であった。

 長谷川濬が残した日記を私が読むことになったのは、宿命だったように思えてならない。長谷川濬が残した百冊あまりの日記、それはいつも誰かにむけて語りかけていた。その誰かとは自分ではなかったのか。生きることで精一杯だった彼が書き散らしたものをまとめること、それが彼が残した日記を読むことになった私の使命ではなかったのか。
そんなことがわかったとき、また私の中に、長谷川濬の評伝を書く力が湧いてきた。


 私にとっては6冊目の評伝となる今回の長谷川濬を本にしてくれるところがあるだろうか。実はこれが自分のなかでは大きな問題だった。いまの出版状況を考えると、今回の題材はあまりにも地味だということはわかっていたし、可能性としてはかなり低いと思っていた。自費出版という道もあるのは知っていた。でもそれでは長谷川濬の思いを伝えることができない。そんな意地もあった。最後はなにかの賞に応募することしかないと思っていた。ここに救いの手が。いつも拙著の装丁をしてくれている西山さんが、出版社を紹介してくれ、社長さんと編集部長にプレゼンテーションする機会を与えてもらった。西山さんに対する信頼の大きさだと思うのだが、社長さんはすぐに本にすることを決断してくれた。ほんとうにうれしかった。
 デラシネに連載してきた『彷徨える青鴉』がもちろんベースにはなるが、大幅に加筆、補筆することになると思う。連載では戦後の長谷川濬の足跡を追ってきたが、本にするにあたっては、満州時代の長谷川濬に焦点をあてたいと考えている。そして長谷川濬に名声をもたらすことになった『偉大なる王』の作者ニコライ・バイコフの生きざまも絡ませていきたいと思っている。

 連載の最終章となった「虎へ帰る」は、この書こうと思っている本の序章でもあった。何故ふたりは満州までに流されてきたのか、ふたりが何故ここで出会うことになったのか、そして出会ったことで何が起きたのか、それがふたりの運命にどんなことをもたらしたのか、さらに「満州崩壊」の中で彼らは何を失っていくのか、「満州」という幻のキメラ国家で生きたふたりの人生をじっくりたどりながら、長谷川濬の生きざまを書きたいと思っている。

 「彷徨える青鴉」をご愛読いただき、ありがとうございました。そして本になったあかつきには、ぜひまた読んで下さい。




その後、出版に向けて動いていたのですが・・・



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