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【連載】長谷川 濬―彷徨える青鴉

 
長谷川濬 作品4

「王道夢幻」
 

王道夢幻

 今は持病の苦しみと闘いながら寄せてくれた原稿の中から、原文のまま二、三を拾って、若き日の彼の情熱を偲んでみたい。題して「王道夢幻」という。

 大いなる時間と空間に生れ出でた吾等、東海国――日本の運命的時限と軍鼓のひびきよ、太平洋、日本海、オホーツク海、南支那海のどよめき、深き海溝に潜む予言的波動に囲繞(いにょう)されつつ黄土大陸の広漠たる地貌と竜巻と望楼と、・・・・・・廿世紀の民族の瞼よ、深き轍に眠る王道の核を求める吾等。
 テロリズムとマルクシズムと軍国主義のレトルトに密閉された青春の幻。生れ出づる若者の触角の指向、
 「アジアは一つ」と・・・・・・玄海を彩る白き航跡の泡沫に郷愁を捨て、五・一五事件への疑問と革命的パッション。新しき王道主義者の歌う革新、交響曲のカンタータはこだまする。

×××

 風雪に抗するペトンの厚み、弾痕深き二〇三高地要塞の慟哭よ。ウルトラマリンの海面より吹き渡る風に乗る兵土のざわめきの幻聴。ああなつめの木のそよぎ、杖を立てる老将軍のプロフィルに明治の精華は散り、白馬はいななく。

×××

 渡海する青年群像の目の輝き、房子(ふあんず)部屋に入って思考せよ、王道の在るべき姿を・・・・・・
 ああ南嶺の五月、柳絮とび、土掘りて黄塵万丈の陽春。弾痕生々しい新戦場の雑草に新しき世紀と農村自治運動は燎原の火の如く蔓延する。夢を追って王道実践の典型を創る情熱。

×××

 大濤寮の朝…
 勃起男根に輝く太陽、ふんどしのはためく寮歌合唱、議論、ストーム、又議論のすべて、満洲ナロードニクの熱き目(まな)差し、空を彩る大夕焼、柳に滲む夕陽の残光、一文字に暮れゆく地平線の黒き沈黙。王道の在るべき相を・・・・・・この大地の核に新しき生命を求める東海青年の群像。南嶺に夜が来る驢馬も鳴かない高梁の葉ずれ。
「ああ若者よ、行け、辺境の地へ!大地をよこぎって、農民の魂を求めよ。一木一草を愛し、一億一心の行者たれ」と。


 なお彼は卒業生の任地行と、当時の模様について、次のような詩を綴っている。

 深き沈黙の大地よ、僕は聞くジンギスカンの、遠征軍鼓のとどろきを・・・・・・
 つむじ風に散る羊毛。僕は見る、鮮明なる旗色を、・・・・・・ああ大地の静寂に潜む、先輩の血脈よ、南嶺に直結するスワラジ運動、それはヒマラヤを越えて、インドに通ずる。
 「自ら治むる精神」の連帯される処、眉涼しき若者は歌う、肩を組んで歌う、王道の起重機よ、吊り上げられる革新の鉄材、菩等よくぞ海を渡れる! この大地を愛し、民と共にその愛を分つ為に・・・・・・僕は聴く、駅頭の激励の叱陀と渦巻く歌声を、再び還らない首都を去る同志の人々よ。袂別の辞に落涙数行、ああ陳腐の形式を超えて、死地に赴く同志の眦(まなじり)の鋭さ。王道の炎よ、燃えつづけ、野火の如く燃えひろがれ! インテリ思想の破片を捨てよ、南嶺洗礼の若者は、未知の大地の果てへ只一人で去る。


 さらに辺境の地に明日をも知れぬ命を思い、吾子に与えた若き父親の心境を次の如く記している。

 ぼくの子供等よ、お前等は満洲で生れた、ぼくは単身で渡り、大陸で妻を迎えてこの地で住み、父となった。ぼくだけではない、多くの南嶺の同志はこの地で妻を迎え、子等はこの大陸を第二の故国として育った。ぼく達の子は満洲大地のここかしこで呱々の声をあげた。新国家の創造と新世代の誕生と・・・・・・ぼくは子供の成長に望みをかけた、新しい民族の素たり得る若き世代の人々に・・・・・・、お前達の成長は新しい国の育ちゆく姿だ、色々な民族の子と共に伸びゆく我がある。辺境の山上で、大草原で、百姓家で、大河のほとりで砲弾の中で、密林の傍で、大車(たーちょう)の上で、ぺーチカのそぱで、馬小屋で、包(ぱお)で、赤い大日輪や赤い陽の落ちる大陸の涯でお前達は生れ育った。父が討伐に出たその留守中に、お前はカン(火偏に亢)(かん)の上で生まれた。そして五族の子の中で育った。ぼくは子の成長を楽しんだ、そこには新しい若い民族の動脈が結合されているからだ。


 次にある小さい会話と題して、

 満洲国日系官吏が嫁さんを日本内地で貰い、新婚旅行を兼ねて北満の任地へ連れ帰った。海を渡り、野を越え都をすぎた。花嫁は尋ねる、「まだですの、あなたの勤めている処は」と、亭主はいう「もう少し北だよ。」また野を通り村を過ぎた。花嫁はおどおどしてきく、「まだですの、あなたの勤めている処は、」夫はやさしい目差しで答える、「まだ、もう少し北だよ」と・・・・・・そしてけろりとしている。
 大きな河を三日三夜もさかのぼりそして車に乗った。はてしないコウ(口偏に廣)=荒野・・・車上の新妻はもう黙って身じろぎもしない。やがて小声で夫にいっ.た。「足がむくんだわ・・・少しなでてよ」「うん」夫は妻の足を無骨に撫でた。少し・・・・・・足投げ出した車上の妻は黙々と北空のはしに佇む雲をながめ、涙をほんの少し流した。・・・・・・


〔面接〕

 昭和七年四月なかばの午前十時頃・・・・・・、私(長谷川)は、東京麹町の開拓ビル六階の廊下にいた。この廊下には、いろんな青年が方々に屯ろして面接試験の順番を待っていた。集まった青年たちの雰囲気は雑然としていたが、そこに何となく国士型で右翼的な雰囲気をかもし出していた肥大漢が九州弁丸出しで満洲を論じ、当時新聞に伝唱された関東軍参謀の名をよびすてにして友人並に扱い大声に笑っていたり、背広服のサラリーマンタイプ、まだ学生服の青年、紋付に黒袴の壮士風の男、「オツス!」とあいさつする男、みんな若々しく生々として廊下に三三五五かたまり、談笑し、ゆっくり歩いていた。廊下のつき当りに面接室があり、そこへ青年たちは順番で一人一人よばれていた。
 私(長谷川)は、ただ満州国参事官になる日本青年を銓衡していることを漠然と知っている程度で、試問する人は大川周明ときかされた。
 正面の扉があいて、黒紋付に袴をつけた見上げるばかりの長身の人が出て来た。角に刈り上げの頭が六尺にあまる背丈の上に小さくチョコンとのり、ギラつく部厚い黒縁の眼鏡の奥に大きな目がギョロリと光り、鼻高く、ひきしまった筋肉質の顔は、なめし革のようで浅黒く、一見インド人かと思われる壮士である。「大川周明だ」と誰かがつぶやいた。彼は、はじめて高名なるアジア主義者大川周明を見た。
 やがて順番が来て、面接部屋に入った。大きな窓を背に机がならび、そのまん中に先刻の大川周明、その左に軍服に参謀肩章をかけた軍人、その他の人物がズラリと並んでいた。指定の椅子に腰かけた。「満洲に渡ったら、命がけの仕事に従事しなけれぼならない。覚悟はいいか、」
 と大川周明がごつごつとした山形弁で訊ねた。
 「はい、覚悟してます」とすらすらと反射的に答えた。みんな無言。
 「よろしい」と大川周明が言った。
 かくして、試問にパスして満洲国行がきまった。
 五月のはじめ、東拓ビル六階に集合すべしという通知をうけた。所定時間に行くと合格の青年たちが続々とやって来た。
 やがて、一人の中年の男が現われて、青年群の前に立った。
 やせて青白く枯れて淡々たる表情の小柄な身体に地味な洋服を着ている。この人が笠木良明氏であった。笠木氏は丸い眼鏡の奥に光る細い目をパチパチ動かし漂々たる調子で事務的に言った。
 「五月十五日、門司発のうらる丸に必ず乗船すること。大連より長春に行き、南嶺で訓練をうけること。」
 話は簡単であった。

〔出発、そして到着〕

 船が接岸完了すると、日本人の新聞記者がカメラマンを連れて殺到して来た。
 「満洲国の人々は何処ですか、団体の船客は何処ですか」とどなりながら。
 記者はさかんに取材している。ペンが走る。めくる紙。カメラ。
 私は上陸した。大連大埠頭に足をつけたが、満州国に来たと云う感慨が湧かない。あまりにも堂々たる港湾と巨大な資本と華美な日本女性の姿で、私の抱いた満洲の夢とはあまりにかけはなれている。ただ私はあの苦力の群におどろいただけである。一行が岸壁に揃うと一人のラマ僧のような巨大漢が太いステッキをついて現われた。和服姿である。足をいためていた。
 「自治指導部の多々良です。ごくろうさんです。」と大声であいさつした。我々の先輩である。すでに建国工作を実践した人だ。多々良さんは笠木氏に丁寧なあいさつを交わした。多々良さんと共に副島氏も同行していた。彼も先輩の一人である。
 一行は大連駅に集合し、いよいよ奥地行の列車にのりこんだ。先ず私の耳に残ったのは機関車の鐘の音であった。巨大な大陸の機関車が鐘をふり、音をひびかせながらブラットフォームに入って来る。この音に大陸の音を感じた。
 汽車は長春向け発車した。黄塵けぶる大陸の奥地へ、建国まだ日浅い国都長春へ・・・。私は汽車の進むにつれ、その地貌の広漠を車窓に見て、満洲に来ていま現に旅行く実感を徐々に肌に感じはじめて来た。柳の立木、黒いいらか、黒い豚、大車、ろ馬、青衣の娘、かささぎの飛ぶ姿、うねる轍、遠くにかすむ塔、まき上る黄塵、大豆畠・・・。人影まばらで広漠たる大地と空のひろがり・・・。汽車は低いプラットフォームを幾つも通り抜けて奉天駅に着く。
 人群犇く奉天駅と出かせぎの苦力の群。この古都は巨大な大地に清朝の歴史の跡をそびやかし黄塵万丈の平原に建てられている。よく耳にした奉天城、そして黒溝台・・・。私はまた古戦場の幻になやまされたり、漱石の満洲旅行を想起したりした。
 奉天駅を過ぎると、私は過去の満洲の幻や日本人や日本に関連する想念より放れて、何か新しい現実が迫ってくるように感じられた。それは風物の変化にも影響されているようでもあった。大連から遠くにへだてられるその距離に比例して、私は新たな感慨を車窓の風景からうけとった。そして満洲国に来たという特殊な感動が具体化され、現実として地平線の彼方から加速度的に追って来るのを覚えた。長春−新京と改称した国都とはどんな都であろう。
 五月二十日の午すぎ・・・。
 十六時近く、一行をのせた汽車は鐘の音をゆっくりひびかせながら長春駅のプラットフオームにすべりこんだ。駅広場の楡の木とウスリー柳の立木、広場を埋める馬車と馬夫の罵声と鞭の音、馬糞の匂。赤いふちとりの服をきた満人赤帽、洋車の並列。宿ひきの奇声、銭荘の金看板と金具看板、ボロのバス。屋台店にむらがる苦力の群。我々は汚いバスに分乗して、まっすぐ南嶺に向った。広場より左折し、日本橋通りを抜け、城内満人街を通った。そこには新しい五色旗がひるがえり、群集は街路に犇めいていた。飯店、金文字を並べた百貨店、屋台、黒いいらか。人々は青衣に或は黒い衣で、女は花かざりを髪にして到る処に群なしていた。これが満洲人民だ。たくましく生きる民衆、バスは街を通り抜けて郊外に出た。木橋を渡り、黄土の道を走った。こまかい塵をかぷって・・・。
 大豆畠や丘のつづく間の一本道をバスは走りつづけ、柳の立木のそばにまばらに散在する人家に沿うて右へ折れ、百米位走って、バスは廃墟のような空屋の並ぶ兵営らしき処でとまった。黒煉瓦の低い塀にかこまれ、門に真新しい標示板が掲げてある。資政局訓練所と書いてある。周囲は高原地帯で地平線がひろがり、柳の立木が所々にそびえ、人影もない、茫漠たる風景だ。門を潜ると、正面に事務所らしい平屋が建ち、左右に兵舎らしい建物がずらりと並んでいる。張学良軍隊の兵舎で、浦洲事変の時、所謂南嶺戦闘の場――新戦場の跡そのままの廃墟であった。
 ここが訓練所であり、寮であり、参事官養成の道場であった。正面の家から若い日本人が出て来て、一行を迎えた。兵舎をのぞくと、練瓦床の上に鉄製の寝台が左右に十ニケほど並んでいるだけ、ガランとした殺風景な空家である。ここが我々の寮である。便所も風呂場も何もないにわか作りの寮だ。私はその一つにスーツケースを置き、寝具の到着を待った。旅馴れた連中は長春へ戻るバスで長春泊りを試みるのか、出かける者もいた。
 私は界隈を歩き廻った。塀は崩れ、雑草はのび、こわれた車輪や、砲弾のかけらが散乱して戦いの跡をそのままとどめていた。しんと静まり返っている。高原の彼方に丸い真赤な大きい太陽が地平線の上に沈みかけていた。この太陽を見たとき、「赤い夕陽の・・・」の文句が思い出され、はるばる満洲に来たという実感がはじめて湧いた。
 海のようにひろがる地平線にぶきっちょな巨大な赤円盤がかかっているだけ、大まかで何の風情もない落日である。人も家もない。ただ空と地だけだ。私は落日をながめていた。あの五月十五日の門司出港より南嶺までの行程は、私にとってすばらしい体験である。この距離の終点の南嶺で明日から新しい生活がはじまる。どんな生活だろう。それは何人も予想しないであろう。私は沈み行く赤い夕陽に照らされて明日からはじまる南嶺生活に大いなる期待を持った。

〔学院での生活〕

 五月二十日南嶺に着いた我々はガランとした寮で鉄のベットに一夜を明かした。旅の疲れでうとうとしていると、いきなり入口の扉のあたりで、かん高い人声がひびき渡った。
 「キショー」
 みんなハッとして入口の方に目を向けた。そこには白っぽい色あせたレンコートを着た男が不動の婆勢で、雄鶏のように喉をふくらまして立っていた。
 「起床! 起きて朝礼に出る!」
 白レンコートの男は方向を変え、歩調をとって出て行った。
 「誰だ、あれは」とうすい口ひげをはやした肥大漢がいった。
 「奴さん、船の中でいっしょだった学生じゃないのか」
 「キショーと来やがる。ガウン着やがって」
 「なるほど、ガウンか。ガウン先生・・・」
 この起床号令はただ一回だけで廃止された。そして号令した男はついにあだ名ガウンとよばれ、彼の本名は忘れられてしまった。「・・・ガウンが云った」「あのガウンが・・・」
 食堂だけは用意されてあった。急ごしらえの便所はみんなズラリと並んで大小共に用をたす素朴にして親近感自らあふれ、食堂で飯を食うと同様にここでも互いに相並び、相対し対話しつつ用をたす場でもあった。
 服装もまちまちで、和服あり、背広あり、中国服あり、学生服ありで、こんな連中が朝礼に集まる。
 朝食をすましてから一同に伊東六十次郎氏から教務に関する注意と報告があった。伊東氏は素朴な誠意に満ちた学究の人柄らしい若い人で、実直な東北訛りで我々に接した。そして彼一流の学説に基づくアジア政治学の教官も兼ねていた。彼は大学卒業論文に「日露戦争の世界史的意義」を論じ、極東アジアにおける日本の近代と将来を暗示し、若きアジア主義者として注目されている人であった。
 訓練所に我らの資政局長で統領たる笠木氏が現れ、自治指導部の根本精神と実践に関する報告があった。私はこの報告に期待した。教室に一同が集合すると笠木氏は多々良氏を同伴して現われ、印刷された笠木氏の所感を多々良氏がよみあげた。その内容は宗教的で抽象化され、難解な仏教語が混り、笠木氏の注釈を要するもので私には理解されなかった。要はアジアの自治運動実践の場としての満洲国と資政局の使命、地方農村自治運動の実践者参事官の任務がコーランのようなひびきをもって書かれ、仏典をよむ印象を与えた。官僚的な実務要領書でなく笠木氏の理想がそのまま報告されてあった。学生は動揺し、色めき立ち、湧き上る波のような気運を私は場内に感じた。
 「先生、農村自治をもっと具体的に説明して下さい。」と一人が質問した。
 笠木氏は漂々たる表情で答えた。ニコリともしない。
 「実情を見て、自分で感じて下さい。これは精神です。皆さんの先輩がやったことを見て下さい。いま満洲は新しい階段を昇ろうとしてます。」
 「参事官とは・・・・・・」
 「参事官は官吏でない。強いて云えば牧民官です。官吏なら日本の役所にうじゃうじゃいる。君たちはそんなものじゃない。君達は役人になるのじゃない。」
 「王道主義と民族解放とは・・・」
 めいめいが熱っぽく発言し出した。もはや、議論の場と化しつつあった。
 「ここで何を学ぶのか・・・」
 「ここで満洲の実情を知る基礎を学ぶのだ。」学生は発言した。笠木氏は言葉少なく淡々として学生のことばをきく態度である。
 「ここは学校でない。魂の道場だ。云わば松下村塾でいい。」と飯塚富太郎が老成ぷった落ち着いた口調で云った。
 「・・・・王道主義は農民プロレタリヤの解放だ。」と永井定がいった。
 私は黙って笠木氏を見ていた。彼は伏目勝に学生のはなしをきくだけ、(俺のいうことはもうすんだ)といった態度である。報告された指導要綱は非現実的で仏教的でさえある。これは恐らく笠木氏の主張する資政局の精神であろう。
 「議論は結構だ。結論は早い。ゆっくり見て考えよう。急ぐな。」と岸要五郎がいった。
 その日の報告会は終った。我々は売店からビールをとり寄せて食堂で浴びるようにのんで議論した。それは満洲国独立という事実から発起され、現段階の一切と民族と王道に関する検討であった。私は満洲に関して無知である。南嶺に集まったこの日本青年たちは何をやろうとしてるか、要は地方農村に出て、村長の仕事をやれぱいいのか、宣撫工作か、討伐か、そのためにわざわざこの地へやって来たのか、いや、王遣の実践者、笠木イズムで新しい歴史を創るのだ。私は雄峯会も青年連盟の主張も知らない。現地派の建国運動方向も知らなかった。全く無知だ。
 ・・・・満洲にやって来たのは単なる就職だったのか、「せまい日本に住みあきた」という例の大陸ロマンチズムやセンチメンタリズムの放浪癖か・・・。私にとって、教官や講師よりも同じ釜の飯を食らう同志の一人一人から何かを吸収した方がより現実に生きる道であると感じた。

農村実態調査について

 我々が待望する地方農村視察旅行が八月はじめ施行された。地方を各班が分担し、スケジュールをきめ、視察プランを予定検討し、いよいよ実行に移した。私の班は撫順より新民屯方面を担当した。同行の人々は石丸、緒形、美濃、寺岡通訳、それに阿部虎男が加わって出発した。はじめ奉天まで合同で旅行。奉天で清朝発祥の歴史の跡をめぐり、特に同沢女子学校に寄った。この講堂が自治指導部の発会式を挙げたゆかりの場所であるからだ。講堂に入った時、みんなの口から思わず深い歓声のどよめきがもれた。
 奉天から各班に分かれて出発した。撫順では露天堀の雄大さにおどろき、労働者の数、出炭量、設備、輸送を見学した。夜は撫順の文化人と座談会をひらき、「満州匪賊の社会学的考察」についてはなしをきいた。翌日新民県向け出発した。巨流川を渡り赤土色濃い新民県に入り、県公署で日本参事官に会って、県公署を見学し、参事官をかこんで質問し、ノートをとった。私には何を見て何をテーマとするか迷った。県公署のあっせんで馬を借り、農村を巡回した。学院の乗馬訓練のおかげで落馬者もなく村々をまわった。屯長の家の庭内で昼飯をとった。大きな塊樹の下で、純粋な高粱酒と木順肉の味は格別であった。真夏の陽の下でのむ強裂な高梁酒は却って涼しさをもたらした。
 屯で、石丸が村の役人に一場の演説をやり、新国家の意義を啓蒙した。寺岡が通訳した。みんなぽかんとしてでくの棒のように立って石丸のはなしをきいていた。大陸的ポーズというのであろう。その時、言語の問題が痛切に考えさせられた。日本人が農村運動に入って、通訳つきで工作せねばならないのか、彼等のはなしが分らず、こちらではしゃべれないとすれば、一体どうなる。ことばが彼我の相互理解の方便である。すると日本人は夫々満語を理解ししゃべらねばなるまい。風土風俗人情に通ずるにはことばがその鍵となる。ことばをマスターするのは相手の生活文化をマスターすることだ。私は石丸の演説をきいていて、言語の重大性を痛切に感じた。私はアラビヤのロレンスを思った。日本人が彼のようになればいいのだ。ことばだけでない、銃の扱い方、馬の乗りこなし、体力、胆力、精神力すべてロレンス並になって満洲農村自治に挺身したら、彼等は日本人を理解するであろう。誰がロレンスになれるであろうか---。少くとも南嶺青年群の中より輩出するだろうと期待した。
 予定のコースを終えた一行は新京南嶺に帰り、調査報告作成に忙殺された。私は何も書けなかった。数字も統計も地理も各屯の特徴も農民の生活実態も新国家認識も傾向もその他の現象も何一つ記述するデータがない。どう書くべきか迷っていた。盲人巨象を撫でる類である。ただ遍歴して風景を見たにすぎない。頭に残ったのは風物だけである。しかし、人々は夫々報告書を書き上げた。私は風物や旅の様子を詩の如き紀行文にまとめて提出した。全学生の報告文は金沢辰夫、寺岡健次郎、福田一の図書委員らの手によって一冊の報告書にまとめられ刊行された。この一冊は大同学院で刊行された最初の満洲農村調査報告書として貴重なる文献である。いま、この本が何処に保存されているかどうか不明であるが、この一期生の各県視察報告書が先例となって爾来毎期報告書が刊行されることになったのである。当時日本青年の目に大陸の様相がどのように映じたか改めて読み直して見たい興味ある文献である。
 この視察旅行以後学生の目は落ち着いてきた。自分の目で見た地方農村と農民の様相が現実を見る生きた資料となったのであろう。

卒業式について

 十月卒業式が挙行された。
 鄭総理、駒井院長、関東軍参謀長、日満高官臨席で行われた。衛藤先生が声涙共に下る送別のことばをのべた。文はやや大時代的な明治調で、先生独特の口調で朗読した。学生はみな感動して聴いた。私のそばにいた荒谷千次は涙を滂沱と流し放しのまま辛うじて立っていた。
 藤井学監は息子が旅に出るその時に父が注意をするような湿かい態度で素朴なことばを述べた。藤井学監は式がすんでからみんなに将来の生活について学生に注意と忠告をした。
 「君たちはいま独身者だがいずれ嫁さんを貰うだろう。嫁さんがいれば子供が生まれるだろう。そこで一言注意したい。満洲の冬はきびしい。日本では経験し得ない寒さだ。処が在満日本のお母さんは赤ん坊の頭を充分に保護しないで外出させる。これは非常に危険だ。零下二十度の厳寒に赤ん坊の頭をさらすと、頭部の血行とその内部に影響するのは明かだ。ロシア人や満人が如何に防寒に用心深いか、よく見てくれ。これは大切なことだ。赤ん坊の頭だけでない。生活・文化をよくみてくれ。先ず家庭を守って健康に注意してくれ。たのむぞ。」と学監はさとすようにいった。
 藤井学監は未来の幼い者の頭のことまで心を配っている。先ず足下から暖めて出発せよというこまかい心くばりである。私はこのことばを忘れられなかった。
 そして藤井学監はみんなにかつがれて院内を廻った。酒気を帯びた卒業生は「おやじ」をかついでみこしのようにゆさぷり、学監はおろおろと無器用に傾いたりはね上げられたりして学生の肩の上でなすままになって無邪気に笑っていた。
 卒業生の勤務地はきまった。多くの同志は地方の参事官として発令された。中央勤務になった人は不満を訴え、人事処に地方勤務に変更を要求した。これには人事処長は狼狽した。同志は政情不安で生命の保証のない地方に自ら志願して赴いた。
 みんな学院の寮に別れを告げ、同志と別れ、夫々の任地に出発した。南へ、北へ、蒙古へ、また辺境に単身赴いた。
 私はロシア語専攻の履歴から外交部勤務を命ぜられ、ついに地方参事官の体験を経験しなかった。今にして思えば、やっぱり卒業生は地方農村の参事官として活躍するのが元来の大同学院の第一使命であると思う。これが自治指導部を経た大同学院の伝統精神であり、アルファであり、オメガであろう。今でもこれを信じている。
 いますべては終った。満洲は毛思想で改革された。大同学院はすでに過去である。当時、新しい民族独立と解放に挺身した青年の行動をいまの人々はドン・キホーテとして語り草にするかも知れない。しかし新しい歴史の渦中に入った青年はハムレット的よりむしろドン・キホーテ的傾向にかたむくのが青年らしいところだ。また現代史に於いて満州国は何人も抹殺出来ない事実であり、満州国で純粋に行動した青年の行跡も事実だ。この評価は規制の観念(イデオロギー)では計量出来ないと思う。大同学院の第一期生は満州国を独自に解して星雲状態のなかで積極的に勝手な行動をとった。これが却って次の学生に色々な暗示を与えたのではないかと思う。


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作品紹介