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【連載】長谷川 濬―彷徨える青鴉

 
長谷川濬 作品3

「風の人」
 

風の人

――人間とは不可解なものである。それを解き明かさねばなるまい――
グロスマン著 “ドストエフスキイ”より

 私はソビエット領と満洲領との東部国境−綏芬河(スイフェンホー)ではじめて父親になった。つまり妻は女児を生んだ。綏芬河をロシヤ人はポグラニーチナヤと称し、在満日本人は略してポグラといった。綏芬河は河の名、ポグラニーチナヤは国境の意味で、強いて云えば国境駅のことである。綏芬河は小高い山の上に位するロシヤ風な小さい町で、こじんまりした山の別荘地であり、保養地でもある。ウスリー鉄路のトンネル三つ越して、平原にソビエットの町グロデコーボがある。私は当時満洲国の外交部弁事処通訳官兼査証事務担当と暗号電報係であった。
 昭和九年二月二十九日の朝から、妻は軽い陣痛になやまされたがそれが緩漫であり、初めての異変なので勝手が分らず、まだ生れまいとたかをくくった私は国境にたった一人の日本婦人の産婆に注進もせず、タ方に妻がうんうんとひたすらうなり出してから、あわてて産婆に来て貰った。
 私の家は小山の頂きに近い樫林の外れにあるウオトカ工場の横手に建てられたロシヤ家屋で、窓から鉄路を一眸に見下ろし、ハルピン行の列車が玩具の汽車のように小さく眼下に走って、それが山と山の間にのまれて消えるまで見えた。その小屋の一室で妻がうめき声をあげ、産婆は準備を整えながら「奥さん、うんと頑張るんですよ。大丈夫ですよ」とか、「もっと力んで・・・」とか下知していた。私にはペーチカをたきつけ、湯を充分沸かすよう命じ私は専ら炊事場のぺーチカのたき口にしゃがんだり、ただうろうろとせまい部屋を歩き廻っているうちに夜となり、妻のうめき声はもう人間の声ともきこえず、(これは難産かも知れん)と心細くなりはじめ、小さい昇降段に出ると、国境の山の端に真赤な月がかかって落ちんとする処であった。ほうずき色の月はぶよぶよにふくれて何となく絶望的な色に見えた。その時、世にも稀な声が短かく、鋭く妻の産室からひびいた。
「うまれましたよ。女のお子さんですよ」と告げる産婆の声を背にきいた私はそのまま固くなって、赤い月をじっと見つめていた。
 私には産室へ急行すべくあまりにも突発的な出産(私の人生において)に何か恐れとたじろぎを感じて、心の用意が出来ていなかったのである。
 私は数分間経てそして妻の寝ているせまい小部屋をのぞいた。小さい嬰児用ベッドに赤い顔の小さい小さい人間がピンク色の産衣にくるまって目をつむって横たわっているのを見た。しずかに息をしていた。その小さい人は忽然とこの世に現われ、私の目の前に眠っているように見えた。
 「逆児でしたの・・・でも丈夫な赤ちゃんです。おててはこの通り」
 産婆はそーと毛布をまくり産衣のそでをめくった。そこに小さい丸い拳があった。五本の指を握りしめている丸い小さな拳。それは強い生命を握りしめているように見えた。私はそーと小さい拳にさわった。私は安心した。私は産室を出て、また昇降段に立った。月はもう山の端に落ちて、残光が仄赤く空に映えていた。私にはあの赤いほうずぎ色の月――線香花火のはしにぶら下って震えている火の球のような月が私の長女の出生と何かの縁があるような気がして空を見つめていた。産婆は後しまつを手ぎはよくすまして帰りぎわに私に云った。「丈夫に育ちますよ。これから、お父さんが毎日お湯を使わすんですね。あなたの指は長くて頑丈です。いつもお湯をわかしておいてね。またお邪魔してお湯の使わせ方を教えます。もう大丈夫です。お昼ごろ来ます・・・」産婆は帰った。もう暁近い色が山々のしだに漂よい、空は白んで来た。私は水をためるブリキ容器をのぞいて心細くなった。水は底の方にわずか澱んでいた。しかし水運搬人は現われない。朝の八時か九時頃やって来るのが常のならわしだ。私はいらいらして水樽のやって来るのを待ち設け、早朝の街に出て坂の下を見ていた。街に人通りは全くない。
 私は通りのベンチに腰かけて街の下を見渡していた。あの町角から水樽をひいた、ろ馬が現われたら大声でよび、水屋のおやじをここまでまっすぐ引張って来るべく姿勢を構えて、ベンチに腰かけていた。父親になりたての当時二十九才の私にはすべてが急に生々と新しく見えて、じーと家にこもっていれなかったし、早く水を満々とあの容器に満たしたかった。そして湯をうんと沸し、あの嬰児に快い沐浴をさせてやりたかった。しかし、水屋は現われず、街は森閑として人通りなく、ただ放牧される牛の群がのろのろと人家の門から出はじめ、青いこうもりがさを背負い、杖を持った数人がひとり、牛の群を追って国境の山の方へ歩く姿が小さく見え、それも消えた。その時、私の背後に人の気配を感じてふり返った。樫林を通り抜けて一人の満人の老爺らしい男が、すたすた歩いて私に近付いて来た。苦力の冠る縁なし帽を冠り綿入れの黒い長衣にうす汚れたフェルトの防寒靴(ウーラー)をはいた粗服の苦力である。
 その男はまっすぐ私の背後にせまり、いきなりロシヤ語ではなしかけた。
「こんなに朝早く、一体何してるだね」と。彼のロシヤ語は北満の満人の使う独特の訛りとくずれた抑揚があり、つまり満人臭いロシヤ語で、日本人にはまね出来ないひびきを持っていた。
「水屋を待っているんだ。夜に赤ん坊がうまれてね。一回うぶ湯を使わしたら、もう水がないんだ。とにかく水がないのだ。困っているんだ。それで水屋の来るのを待ってるんだ」満人はじーときいていた。彼の目は大きく深く利口そうに光っていた。唇を固くかみしめうすい口髭とあご髭には白毛が混っていた。眉をひそめた。
「よし、待ってろ。持って来てやる」
と云ってすたすた坂を下り、ウオトカ工場のくぐり戸から中へ入った。間もなく満々と水を湛えたバケツを両手に下げて現われ、私の家の炊事場へ無言で入った。私もつづいて入った。水を容器に移すと、また急いで工場の構内へ入って行った。大ばけつのおかげで二、三回の往復で水は容器を満たした。
「ありがとう。助かったよ。ありがとう」
と私は礼を云った。
「赤ん坊を見せてくれ」と苦力が云った。私は小部屋に見知らぬ満人を案内した。苦力は小さいベッドにすやすや眠っている嬰児を私の肩越しに見てにっこりと笑った。
「可愛い子だ。きっと丈夫に育つ。男か、女か」と苦力はきいた。
「女の子だ」と私は答えた。
「それはよかった。おめでとう」苦力は部屋を出て、空バケツを二つさげ、さっさと私の家を出て門をくぐり、坂道を下って行った。私は後を追い、呼びかけた。
「ありがとう。あんたの名は」
彼はチラとふり返り、丈夫そうな歯並を見せて笑った。無言である。そしてさっさとウオトカ工場の中へ入って行き、それきり現われなかった。

 私は女児に嶺子(レイコ)と名付けた。私の満洲生活の第一歩は首都新京の郊外南嶺の資政局自治指導部訓練所から発足したことを銘記し、また北鉄東満線に高嶺子(カオリンズ)と称する高地の小駅があり、満州国に興安嶺もある。また私の住居は、ポグラの丘の上で鉄路沿線を一眸に見下ろす。そこで長女が生れたのに因んで、嶺子と名付けた。嶺子は順調に育ち成長した。
 私は毎日赤ん坊をお湯に入れてやるのがたのしみであった。はじめうすい肌着のまま湯にそろそろと入れる。湯の温度に圧迫され、息を深く吸いこんで緊張し、やがて、息をゆっくり吐きながら四肢を満足げにのばし、湯の中で私の腕に全身をゆだねて大きな目をひらき、私を見つめる赤ん坊のさくら色の小さい裸身を、やわらかに洗い浄めてやる私は幸福なる若き父であった。沐浴させる度に身長が伸びて、舟型のたらいのふちを足で力強く蹴る成長ぶりに私は満足し、湯上がりタオルにくるまりオリーブオイルを塗られている女児の温かい肉体から赤ん坊独特の乳臭い匂が石けんの芳香と混じりあって発散した。私は時々あの水運びの苦力を思い出した。大きなバケツに満々と水を湛え、それを軽々とさげて運んでくれた苦力のたのもしさと私の肩越しに赤ん坊を見つめて微笑した彼の素朴が私の胸に深く刻みこまれた。あの日からすでに三ヶ月経ったが彼は現われなかった。行きずりの苦力に、すぎなかったのだ。水不足で出産のよろこびを妨害する焦慮に同情した一介の労働者の素朴な好意が忘れがたいのである。しかし月日のたつにつれて名も告げずに立ち去った彼の思い出はうすらぎ、赤ん坊を沐浴させる時、不図思い浮べるのである。
 七月四日の私の誕生日に、私は妻、嶺子と一緒にロシヤ人写真館で記念撮影をやり、昼近く丘の上にある家へ戻り、坂を登りつめると、ベンチに一人の男が座って私にあいさつした。そしてすくっと立ち上った。
「おお、あなたか」と私は思わず感動の声を発した。あの苦力であった。彼はつかつかと妻の処に近寄り、嶺子を抱き上げた。
「大きくなった。大きくなった。何と可愛いのだろう」と彼は赤ん坊を上手にあやした。
「名前は」
「嶺子(リンズ)」
「いい名だ。東満生れにふさわしい名だ」と彼は自分の孫を抱くようにして赤ん坊に頬ずりした。嶺子を妻に渡し、ベンチにおいてある包物をひらき、小さい金の腕環をとり出し、嶺子の手首にはめた。
「さあ、これでよし。小さい人よ、左様なら」とあいさつして、さっさと町の方へ降りて行った。私達はベンチのそばで遠ざかりゆく苦力を見送った。彼はふり返りもせず、足早に坂を下り、小公園の緑の茂みの中にかくれて消えた。
 嶺子の右の手首に金の腕環が一個光っている。突発的な短い再見であった。礼のことばもない裡に終わった。
「あの人は風みたいな人ね」と妻が云った。私は無言で、初夏の風にゆさぶられるチェレヨームハの茂みを見ていた。
「あの人は普通の人じゃないわ」
と妻が云った。
「そうだ、俺もそう思ってる。何者だろう」
と私は独り言のように云った。
「風変りの人。一人ぼっちで寂しい人」と妻が云った。
「それだけか・・・」私の独白。
「この腕環一つはめて去ったわ。よく見るとこまかい細工があるわ。何処で手に入れたのでしょう。」
「彼の出産祝いの贈物だろう。奇特な人だ」これも私の独白。
「赤ちゃんが生れた日から、私達は別な世界に入り、それがはじまり、動いてるのね。」
「そうだ。」
 私達は赤ん坊を中心にして小さい家へ入った。小部屋に子を寝かしつけた妻は、昼めしの支度にとりかかった。

 国境地区には色々な事件が起っていた。私は弁事処に急がねばならない。暗号電報ほん訳。
 私は時々深夜一人で暗号電報の解読をやる。中央からの指令電報である。注意に注意を重ねてパズルを解く。窓を遮蔽し、扉に鍵をかけた密室で深夜に一人で解読するのは一種のスリルがあってたのしい。原紙を焼却し、原帳を金庫にしまいこみ、足音をしのばして事務所を出た。七月も終りであったろう。
 人通りはなかった。小公園の入口に歩哨が立っている。警戒している。国境には色々なもめごとが国際的に発生していた。住民もソ連人、白系露人、満人、鮮人、日本人、タタール等で、鉄道はまだソビエット人と満人が管理し、日本の特務機関、憲兵隊、守備隊、満洲国の国境警察隊、護路軍が駐在し、ソ連領事館を中心にソ連人の生活があり、それ等と交渉を持つ外交部があり、国境線をはさんで微妙な動きがいつもぴりぴりと私の神経に感応していた。その七月の夜も、中央指令の電報を解き帰宅する処であった。歩哨が「誰だ」と推何した。「俺だ。日本人だ」とロシヤ語でどなると、歩哨は私のそばに寄ってじっとうかがっている。銃のべルトをつかんで・・・。
「ああ外交部の日本人ですか。大鼻子(ダービーズ)かと思ったよ」歩哨は銃を肩でゆすぶってにやりと笑った。
「シンクウ、シンクウ(御苦労さん)」
 私は木下闇の茂みにかぶさった小道を通り抜ける。そんな時不図私はあの苦力を思うのであった。あの男が何処か暗い林の中に一人立っているような気がしてならない。また河のほとりにうずくまって流れを見ていたり、河のほとりでロシヤの老婆とはなしこんでいたり、私の描く彼の姿はいつも一人でいる。また地平線に向ってゆっくり歩いて行く彼の後姿である。赤い月−水運搬−金の腕環−一人姿・・・。私は深夜の小屋に帰り、赤ん坊をながめた。手首を見た。そこに金環がにぶく光っている。妻は居間の卓にもたれかかって、居眠りしている。今しがたまで赤ん坊を寝かしつけるために子守うたをうたって疲れたのであろう。例のモーツアルトの子守うた――女学校で習ったのだ。彼女はそのうただけ知っている。日本の子守うたはどうしてもうまく歌えないのだ。私は妻をゆり動かした。妻はおびえたように身ぶるいして立上った。きょとんとしている。
「あああなたでしたの、ああ・・・」とため息をを吐いた。
「何か夢見てたな」と私がたずねた。
「ええ・・・そうよ。あの人・・・あの苦力よ・・・」と妻が答えた。
「あの苦力か、何していた。夢の中で・・・」
「一人で歩いてるの。後姿よ。腕環のお礼云おうとして追いかけたの。いくら走っても、追いつけないの。私の前をぶらりぶらりと歩いてるのよ。私声が出ない。あせってあせってるとき、あなたにおこされたわ。不思議ね」と妻は一気にしゃべった。
「俺も闇の中で苦力の姿を思った。やっぱり一人ぽっちで立っていた。とにかく、ここは日本領地でないからな。しかも国境だ。こんな処で君が子を生んで育てていることが色々と心に影を投げているのさ。あの男も嶺子の出生をきっかけに漂然と現われた東満の風来坊なんだよ」
「あなたのおはなしは作りばなしみたい。そして妙にほり下げて話すわ」。
と妻はひやかした。
「そうかも知れん。しかしね。満洲の国境に来てさ。新婚早々に・・・こんな処に、思いもしないポグラニーチナヤなんて・・・そして子供が生れた。これは不思議だな」と私の独白がはじまる。
「人はみんなそうよ。そんな気がするわ。人間なんて何か新しい処で、新しいものにぶつかるものよ」これは妻の独白だ。妻は遠い処を見てる目付である。
「でも・・・」二人は同時に同じ文句を口走って目を見合わした。
「でも何だい」私がたずねた。
「でも・・・あの苦力は不思議ね。」と妻は云った。「そうでもないさ。あらゆることはあり得るのさ。死も生も、恐ろしいことも、またたのしいこともね」二人は深夜の居間に語りつづけた。
 隣りの小部崖に嶺子は眠っていた。私はその方に気を配りながら小声ではなしつづけた。妻が云った。
「ちょっと前まで二人きりで大声出していたのに、いま、赤ん坊に気をとられてひそひそばなしばっかり・・・何だか妙ね。人間が一人ふえたので・・・そしてまた一人、また一人・・・とうとう私達は年をとりついにまた二人きりになるんだわ・・・白髪のじいさんばあさんで・・・」「何年さきにだ?」
「そうね、三十年か、三十五年か、四十年か・・・」
「ああまだまだ遠い先のはなしだね」
「必ずそうなるのよ」と妻は断言した。目がキラリと光った。私は子を生んだ女の強さと自信に圧倒された。
「必ずか?」と私は念をおした。
「必ずよ。その時きっと満洲の国境生活の思い出ばなしにふけるわ。・・・あの苦力のはなしも、この小さい片屋根のロシヤの家のはなしも・・・」私は無言で相槌打った。独り合点みたいに・・・。
 私は疲れた。私は自分の書斎兼寝室のせまい部屋に入り、妻は赤ん坊のいる小部屋に入り、あかりを消した。国境の夜は静かだ。私はベッドに横たわったが眠れなかった。あの苦力の角ぱった黒いシルエットが空一杯にふさがっているような幻想にとりつかれて、やみの中で目をひらいていた。嶺子がむずかり、妻が自分の乳をのませているらしい。赤ん坊にはなしかけている。その声、その声の出し方や、抑揚には今まで私がきいたこともない全く別な女の声のニュアンスが含まれていて、私は耳を立てた。その声は私の妻と云うよりも、嶺子の母親たる独立した女の声であった。私は寂しかった。かつての妻は分裂し、もはや母性としてうたい、自分の乳で子を養っているのに、父たる私は野山を彷徨してる牡鹿のように一人で耳を立て、母の声をきいている。仔熊を連れた熊、仔虎を連れた虎はみな母親だ。仔虎をつれた父親虎なんて一匹もいないのだ。私は憮然として闇の中で枕に顔を埋めた。

 私がまだ日本にいる頃、国境の観念はただ絵で描いた地図上の線にすぎなかった。国境をまのあたりに見て何かを感じたのは昭和八年(一九三三年)蘇柄文反乱事件後の満州里(マンチュリー)であった。厳寒の二月に私はこの地で喀血し、担架にのせられて市立病院に入院した。私の横たわる正前に窓があって、そこから乾いた空が青々と見えていた。その空は色紙をはりつけたように青一色であった。夕方が来るとよろい戸がガタンとしめられて、病室を暗くし、朝が来るとガタンとあけられて、病室は明るくなる。その開閉は定刻にキチンと行われ、時の経過を知った。その開閉のために専門の人間が雇われ開閉係をやっているのではないかと思うほど、正確且几帳面で、どんな人が係をやってるのか、つい見とどげるいとまがなかった。ただ開けられた窓から見える淡青色の空の表情に私は国境を感じたのは、私が病気でたよりなく臥床していた感傷のせいであったかも知れない。無限に青く、雲一つない澄みきった寒々とした空――私はこの単調な色に国境を感じた。私は毎日注射をうけ、安静を宣告され手洗いに立つにも、看護婦がつきそった。コルサーコワと云う太った口シヤ女であった。彼女の娘が私に「アンナ・カレニナ」の厚い本を貸してくれた。メドベージェフと云う医者が主治医で、診察が終わると、鼻眼鏡(ベンスネー)のはじをちょっといじって云う。
「日本に帰ってゆっくり養生しなさい。南のあたたかい処で、もう直ぐ帰れますよ」
 私はだまってうなずく。そんな時彼自身が南の国にあこがれているかのように見受けられる。
「ここは国境で寒い処です。とても寒い処です」この文句も彼のきまり文句で、彼が肺病患者のようにも見えた。
 退院を許可されてしばらくニキチンホテルの二階に泊っている時、私は二階のバルコンの揺れ椅子にぐったりと腰かけて、満州里の街をながめるのが唯一のたのしみであった。だだっぴろい街路、人通りの殆どない路は乾いて、暗緑色の門をとざしたシベリヤ式家屋の原色。ひろがる青空の輝き。巾広いレール。デポー。たまにきこえる汽笛。アトポールから入る機関車だけの単音。がらんとした空間はひっそりして時々駱駝が歩き、赤い帯をしめたモンゴル人がガニ股で通りを横切り、ぼやぼやしたうす毛をプラトクからはみ出させたロシヤ少女が大きな丸いパンを抱えて軒下を歩く。ホテルの中は荒れはて、さけたじゅうたんの穴ぼこにつまずきながら女主人が黒いショールにくるまって廊下を歩く。ホロンバイル、ザバイカル、アルグン、アバガイドの風が、ふきまくる満洲里――私はこの地を三月の末に去って日本に帰り、病癒えて五月に妻をめとリ、新しい任地、東満国境ポグラチーナヤに赴任したのは、昭和八年の六月であった。云わば満洲里は病臥の地。ポグラニーチナヤは回春回復の地であり、また蜜月の場でもある。満洲里と異なり、ここは山地で、駅から爪先上りの坂道である。私は東西国境線を遍歴し、このポグラの人情風光を愛した。ここは満洲色よりもロシヤ色の濃い国境町である。墓地を通り越して、丘の切り立つ断崖の端に登りつめると、ロシヤ領が眼下に展開し、右側の渓谷を縫うて走るウスリイ鉄路がトンネルの黒い穴にすべりこんでいる。第三トンネルが国境線だ。その沿線風景よりも広大にひろがる大平原の景観は雄大で、春より夏にかけて平原は鳩色にけむり、その真只中に白い煙のようにかすんで見える石灰のかたまりみたいな小さな輸廓−それがグロデコーボの町である。
 妻がまだつわりで苦しまない頃――私は妻と連立ってこの断崖の端に腰を下ろし、或は寝そべってグロデコーポの町をながめた。
「Nさんもあそこにいたんだよ」
「どうして、あんな町に」
「シベリヤ出兵当時、日本軍が駐屯したことがある。Nさんは当時停車場司令官だった」
「随分古いはなしね・・・」
「このポグラにも革命当時、あのグロデコーボから逃げて来たロシヤ人もいるだろう。その人の肉親がまだあそこに住んでいて、互に会いたがっている。こんなこともあるだろうな」
「さあ、どうでしょうか。多分・・・でしょうね」私は夢を見、彼女はグロデコーボを現実的に見ている。
(これが国境なんだ。互に警戒し、パトロールを厳重にし、異なる民族が生活している。たしかに国境だ。でも・・・お互に人間同志なんだ。それが、どうして・・・)私はへりくつをくり返して断崖に寝そべっている。ただそれだけのこと。私は在満日系官吏のはしくれにすぎないのだ。
 共同墓地の森の中へ葬列がのろのろとすべりこんで行く。その様相からで白系ロシヤ人の葬いだ。聖像の額ぶちや聖旗がピカッと小さく光り、司祭の衣と白衣の列もちらと見えたからである。彼等は墓標として十字架を立てる。赤系ロシヤ人(ソビエット人)の葬列には聖像も旗も司祭もない。ただブラスバンドが先頭に立ち、地味な服装の人々がつづくだけ、葬送曲をぶうぶうとふきならし、ソビエット的にもっさりした一団が墓地の森の中に入る。彼等は墓標として赤星付の黒い棒を立てる。白い十字架と赤い星の棒状墓標が入り乱れて並んでいる。夫々の墓標の地下にロシヤ人が横たわっている。同じ類の人間が同じポーズで。イデオロギーの差は葬いの形式をも変更させた。これも定型の一サンプル。
「ああまた白系が死んだな」
「どうして、白系て分るの」
「牧師さんがついてるから」
「赤系には牧師さんつかないの」
「つかない」
「どうしてさ」
「宗教は鴉片なり」
「どうしてさ」
「レーニン曰はくだ。俺も知らんよ。くわしいことわね・・・とにかく革命ちゅうものは何でもあらためることなんだ」
 私はぶっきら棒に怒気をふくめて放言し、仰向けになって大空を見上げる。どうして気むづかしくなったか不明だ。妻はだまってグロデコーボの町を見ていた。別に感じない様子。沈黙。
「ねえ、あたしね。にんしんしたらしいわ」と妻がぶつぶつと眩いた。私はガバッとはね起きて、妻を見た。おどろいた。ほんとに
「なに、もう一回云ってくれ。何と云ったか?」
「にんしん!」と妻ははっぎりと単調に云った。びくともしない
「にんしんしたか。よし!」
 私は妻を起した。手を貸して起した。
「うちへ帰ろう。国境でにんしんか。とにかく相談しよう」私はうれしかったのである。私は第一の子に女の子を熱望した。私が男であるから。とにかく国境断崖の端で、妻の懐妊を知った私は俄然勇み立ったのである。革命もグロデコーボもけしとんだ。
「つまり、ここで生むか、新京で生むか」
「ここにきまってますわ。ここの女の人みんなここで生んでいるよ。」
「しかし、君は日本人だし、ここになれてないし、それにはじめてだろう。心配だよ。何となく・・・」
「ロシヤ人と日本人とちがいますの?同じからだよ。あなた案外に・・・」
「何だ、案外にとは」
「幼稚ね」と妻は断言した。まさに幼稚である。私は妻に一本とられたのである。
 かくして現地出産と決定した。そして間もなく幸にもハルピンから日本女性の産婆がポグラにやって来た。彼女の亭主がポグラで一旗あげるべく国境落ちを決行し、妻が同行した。彼女は産婆であった。国境唯一人の日本女性の産婆である。そこで私も出産に関し、万事彼女にゆだねたのである。彼女の顔はあんぱんのようにふくれていたので、私は彼女を「あんぱん」と称した。別に悪気があったのではない。その称号の方が適切でしかもたのもしかったのである。そして月満ち、昭和九年二月二十九日の二十四時頃、妻は私の注文通り女児を分娩した。

 国境は騒然としていたが、ロシヤ人は白も赤も夫々の生活をたのしんでいた。鉄道倶楽部(ジェルソフ)は炎上して崩れていたが、庭園は広々として停水した泉水があり、タから夜にかけて若い男女が遊行を試みる明るい灯の下、羽虫とび交わす夜の園の小広場――涸れた泉水に沿うて円形にひろがる路上を男女は手をくんで散歩する。ぐるぐる廻る、廻る。老人達はベンチで腰かけている。
 町の綏芬河会館には白系ロシヤ人の集会が催される。あらゆるロシヤ人が集い、素人芝居、ダンスパーティ、福引会、宴会、詩朗読会・・・。それに満人、日本人も加わり、夜を徹して騒ぐ。ダンスはポルカをやる。何と古風にして帝政的(ツァール)ムードなるかな!ロングスカートの奥さんと国境警察隊の白系警士殿の組合わせや、日本人とロシヤ娘、日本人と満人娘、とにかく国際色よろしく大手風琴(バヤン)の楽の音で廻り出す。ゆらぐスカート、床をける長靴。腋臭の匂。ゆれる胸先。おでぶさんの雑貨屋のおかみ、ひょろ長い女教師。床をすべる靴音と手風琴の音・・・ざあざあ、ぶうぶうとにぎやかなことだ。私は白系ロシヤ人作家サブウロフ氏と卓についてウオトカを鯡のザクスカで一杯やる。
「満洲新文学のために」チャリン!(杯をぶつける音)
「新しき亡命文学(エミグラント)誕生のために」チャリン!
 とにかくかんぱいを重ねて酔眼もうろう。不図、私はあの苦力を思い出して、人群を丹念に見渡す。彼は見当らない。(彼は場ちがいの人間だ。こんな処に現われない。)すると、やっぱり一人で、後姿のまま大河のほとりに立っている角ばったシルエートが黒々と私の視野をふさぐ。私は急に黙って考える。サブウロフ氏のはなしが耳に入らない。
「ハルピンにはバイコフなる独異(オリギナルヌィ)の作家がいますよ。紹介しましょうか」私の耳に反応がない。つんぼ同様。ぽかんとしている私。
「何ですか、サプウロフさん。かんぱい!」
「おお」彼は肩をすぼめる。
「バイコフのはなしですよ」とサプウロフ。
「おお」と今度は私も肩をすぼめる。ロシヤ式に。私ぼまだあの苦力に拘泥しているのだ。
 ポルカが一段落して、例のコザックダンスがはじまる。ウスリイコザック連がのさばり出す。踊り自慢の連中が大あばれ。床をふみ鳴らし、とび上り、ひくいひざくりで這い廻る。

 国境人にとって週三回の汽車到着の見物は何よりのたのしみであり、希望の象徴である。それはあたかも孤島の住民が定期船の入港を待つ心境に通ずる処がある。はじめ先駆車が武装した護路軍兵士をのせて入って来る。これは列軍襲撃の匪賊を警戒・前哨するためだ。そして次にハルピン発の列車が入って来る。プラットホームも駅の構内も国境の男女で一杯だ。みんな目を輝やかして新来の乗客に好奇と歓迎のあいさつを無言のうちにおくり、迎える。
 新来者が如何なる国籍を持ち、顔色、肌の色を問わず一切おかまいなく平等である。移住者であろうが、旅客人であろうが区別なしだ。道の柵にも人群が鈴なりで、おじいさんまで顔を出してる。「汽車見物に行こう」これは国境人の常套語だ。少女のリボン、少年のそばかすたらけの頬ぺたが並ぶ。並ぶ。
 六月の薫風ふき渡る夕。私達新婚夫妻はさっそうと国境駅に下り立ったので、赤白ロシヤ人の目は一斉にこの日本人カップルに集中した。まるでスター到着そっくり。群なす人波を分けて構内を横切る。ロシヤ人臭い。
 How do you do ? とよびかけられた。英語である。ソビエット学校で習った英語レッスンの会話第一頁の文句であろう。少女の声だ。妻はあがりもせず、きょろきょろもせず、至って大陸的にふるまった。悠々と・・・・。
 坂道の石だたみは崩れ、磨滅し、すりきれた石段はゆがみ、仲々情緒がある。この坂を昇りつめると.、石造のホテルや住宅やロシヤ式アパートが見えはじめ、アパートの下に赤旗がひるがえっている物々しい暗青色の二階建の建物――これがソビエット領事館である。庭にジャスミンの花咲きこぼれ、庭に亭あり、卓上にサモワール湯気を吐き、蜜蜂のぶんぶんとびまわる牧歌的風景はまさにロシヤの地方小都市郊外の雰囲気で、私はチエホフの短篇を思い出した。
「チエホフだなア」と私は思わず独白した。
 かくして私達の蜜月生活はこのポグラではじまったのだ。忘れがたき国境よ。

 嶺子の首が固定して抱っこ出来る頃になると、妻は赤ん坊を抱いてバザールヘ買物に出かける。時には私も同伴する。坂道をまっすぐ下りる。路の片側にロシヤ人の家が並び、門のわき、柵の前にベンチがあり、そこにロシヤのじいさん、婆さん、おかみさんが腰かけて世間ばなしをやってる。チェレヨームハの茂みの下で。そこを通る。するとおかみさん、婆さんがそばへやってきて嶺子をあやす。
 赤ん坊をあやすことばの何と素朴にして美わしくして可憐なることよ。私はこれをロシヤ語で書いた方が美しいのではないかとさえ思うほど、語尾は自ら韻をふんで、即興詩となる。そして、また赤ん坊をあやす婆さんの顔の善良さよ。いや、何処でもいずれの国でも老女の子供をあやす姿はよきものである。この人々によき幸を!と祈らざるを得ない。
 私の国境生活でこれ等のロシヤ婆さんの率直にして純真なることばの発言こそ忘れがたき一篇の詩句として私の胸にいまだにひびき渡る。子供をあやす人を殺す勿れたとえ時が戦争であっても。
「何とまあめんごいこと
 ほんとうにァめんごいてッこしでさァ・・・
 ほれ! まっくろだおおけまなぐしてさァ・・・
 ほんとうにァめんごくで、めんごくで・・・
 このにがこの ほれ まなぐさ・・・」
 これが私がうろおぼえの日本東北べんの青森百姓ことばに訳したつもり。これでかんべんして頂こう。高木恭造氏ならば、もっとすばらしいことばで表現するであろう・・・。
 私はロシヤの婆さんにつかまってる時でも、不図あの苦力を思った。彼がこんな婆さんとはなしたら似合うだろうと私は思った。しかし彼は現われない。
 蜂がとび、毛の長い犬が腹ばい、はだしの少女が走り、寺男は聖歌の練習をやる。
「ニューラ! ニューラー!」
 少女をよぶ母親のかん高い声。私はじーと立って、婆さんの目を見る。ゴーリキイの小説に出て来そうな善良なボルガ沿岸の婆さんそっくりだ。

 国境は多忙だ。満人農夫拉致、越境者取調べ、ソ連鉄道従業員逮捕、密入国者調査、越境抑留者引渡し等々で私は毎日ソ連領事、特務機関、警察隊、北鉄管理局をめぐり歩いて交渉、ほんやく。その間子供をお湯に入れたり、買物に行ったり、夜は電報解読、発信で動き廻った。
 ハルピンより到着の列車は国際色ゆたかでにぎやかだが、ソ連領より到着するウスリイ鉄道の列車は無人である。がらん洞の列車が入って来る。恐らくグロデコボで全員下軍し、空列車のみを運転して入国するのであろう。
 私は職務柄この列車を点検する。入車するや、車内にただよう人間の匂を嗅ぐ。どの車輌内にも今しがたまで人間がいたしるしとして、ある匂が漂っているのだ。汗臭い、玉ねぎをいためたしょっぱい匂いだ。古着から発するようなすえた匂い――私は海岸通りの匂いを思う。故郷の海岸通りに建つ倉庫の中に入るとこんな潮臭い匂が漂っていた。しょっぱい香り――ウラジオストックから来たせいだろうか、或いは労働者の匂か。私はガランとした硬車の頑丈な木製座席の間をただ一人足音をひびかせて歩きながら海岸通りを連想する。人間の匂を嗅ぎながら、鼻だけが敏感になる。犇めく労働者の姿を思う。波止場、海港。防波堤。そして港外の青い海。日本海。竜飛岬をかわすと津軽海峡だ。そして函館の港。白い防波堤。もっくりした函館山。連絡船。白亜のロシヤ教会。私の思いはポグラから陸を通り抜け海を越えて津軽海峡まで突っ走る。
 軍窓の外に引込線のレールが光り、枕木に油がしみこみ、夏草が茂りかげろうが立ち昇っている。機関車庫の白昼のしじま・・・
 私ははっと我に帰って最後の車を点検して下車する。もう八月だ。秋を感じる。点車係のソ連人が小さいハンマー片手にのっそり歩いてる。
 「今日は(ズラーヌテイ)。誰もいねえでしょう。空っぼ列車さ。」彼はひとり言みたいに云って去る。私は人間の匂だけをなつかしむ。空虚な国境駅。

 嶺子は伸びて、もはや舟型たらいはせまく、小さくなった。足が出るし、あばれるし、私の力では及ばないので、妻が満人経営の風呂屋に連れて行きはじめた。西洋式の浴槽があってゆっくり沐浴し湯もふんだんに使えた。
 夕飯の時、私は妻と話した。
 「子供は大きくなる。見ているうちにのびるものだ。」
 「あの満人に見せてあげたいわ」
 「そうだな。来年の誕生日によんで、ごちそうしてやろう。」
 「料理店にね。あの人の奥さんも一緒に・・・」
 「奥さんいるかね。きっとあの人はひとりだよ。そしてここにはいないね。牡丹江か、東寧か、代馬溝か、或は横道河子・・・とにかくこのあたりを歩くんだね。きっとひとりぼっちだよ」
 「子供が五人も六人もいて、それに孫さんもいるんじゃない、それが全部やって来て、大さわぎの大宴会・・・それも面白いわ・・・」
 「大変だな・・・幼稚園の会食だ。床も卓もごはんで一杯。君とあの人の奥さんが給仕をする。」こんな罪のない会話を交わすうちに夜が来た。その夜はしずかであった。いつでもしずかであるが、何か特に深くしずかな感じがした。夜の九時頃、扉がノックされた。あけると国境警祭隊の警士が立っていて、命令的に云った。
 「匪賊の襲撃があります。警戒中ですから、みなさん、ロシヤアパートの地下室へかくれて下さい。日本人はみんなあそこに収容します、万一に備えて。いますぐ行って下さい。」
 私は妻と嶺子をつれてアパートの地下室へ入った。そこには国境に住む日本人の婦女子が集まり、うすべりやあんぺらの上に座っていた。あの産婆も、医者も、うどん屋夫婦、時計屋、娼婦の一群も収容され、不安そうにひそひそばなしをしていた。妻は地下室の片隅に嶺子を抱いてしずかに座っていた。外はしんと静まって死んだようであった。
 いきなり、街路に馬蹄のひびきが疾走した。五、六騎らしい。街の中央部を通り、東寧街道の方へ走り去った。四毛屯あたりで三発の連続発砲の銃声がひびいた。地下室の人々はじっと固くなって息をひそめた。ゆらめく石油ランプの灯が、壁に大きな人影をうつして、重なり合ってゆらいだ。二時間ほどたった。やがて扉に警官が現れて警戒解除を告げ、みんな立ち上がって、暗い街路に出た。星がキラキラ光っていた。
 私が嶺子を抱いて丘の家に歩き出すと、茂みの蔭から黒い人物が山て来て私達に向かい止まった。
「やあ、あんたかね」
と私は声をかけた。あの苦力である。彼は嶺子を抱き上げ、街灯の下に歩み寄り、彼女をつくづく眺めて、ため息を吐いた。
「嶺子(リンズ)!大きくなった。見ちがえるほどだ。可愛い女の子、黒目の赤ちゃん!」 彼は嶺子を高くさしあげてあやした。そして私達夫婦をふり返って云った。
「心配で一寸寄った。もう大丈夫だ。綏芬河は安全な処だ。」声は低かった。
「ありがとう。今日もあんたのはなしをしていた処だ。家へ寄ってくれ。お茶をさしあげたい。」
「どうぞ。今日こそどうぞ。」妻は日本語で云った。彼は嶺子を妻に渡して頭をさげた。丁寧な態度である。
「あんたは嶺子出生と共に忘れ難い人だ。不思議なめぐり合わせだ。こんな国境の町で・・・」私の表現は感傷的であった。
「そんなこと・・・。俺は放浪者にすぎん。ただ子供が好きだ。小さい人がね。こんなに・・・」
 彼は嶺子の頬ぺたを軽く指でつついて、忽ち闇の中に身をひるがえした。
「待ってくれ」と私は叫んだ。
「お休み。また会う。左様なら。奥さん」その声は闇の中からきこえた。そして足音は遠のいて行った。
「あの人は風よ。風の人」と妻がつぶやいた。

(匪賊とは何であろう。どんな集団であろう。何が目的であろう。今夜も日本人だけが収容された。彼等は日本人だけを狙うのか、何のために)私は満洲国に勤め、国境勤務してから、新しい目をこの現実の満洲に注ぎ、あらゆる情報を判断するほど自ら新しく教育された。そこにはきびしい政治と民族の現実があることを学んだ。官吏としてではなく、一個の人間として。あの苦力との妙な交際も一個の人間として、すべての衣を脱いだ生の人間としての交わりであり、私の満洲観、民族観には現実の政治や、政策と矛盾する反抗の苦悩がある。だからこそ一介の放浪者の吾児への関心や愛情をもそのまま受け入れ、大切にする。これも異境に来て生活する一つの試練なのだ。この圧迫感を嶺子を通じてあの放浪者の心情で解放している。そこに人間らしい共鳴を求めている。けれんも策もない共通のオアシスを生々しい血を通して求めているのだ。
「風の人か、いい表現だ」私は独白した。
「星がきれいだわ。満洲に来て、先ずおどろいたのは星がきれいなことだわ」
 妻がこんなこと云うのは、はじめてである。
「星と風の人か・・・なるほど。人間は地上を歩き、星は空をめぐり、風は地上をふき、海を渡るか・・・詩にもならねえや。」私の独白。
 私達は丘の家にたどりついた。
 国境の秋は早い。
 樫の葉が枯れ、枝から落下せず、そのまま枝にへばりついてガサガサ風に鳴る頃。もはや冬の気配を感ずる。人々は庭で薪作りをはじめる。山すそが段々黄ばんで来た。山ぶどうやレビーナの実が熟し、人々はジャムを作る。猟銃発火の音が尾を引いてひびき、きじがとび立つ。そろそろ二重枠の準備にかかる。
 駅に日本人の往来が目立ち、次第にはなやかな国際色はうすれ、カーキ色が君臨しはじめた。土建屋の親方が往来し、深夜の臨時列車から苦力の群が下ろされ、家畜のように追われて谷間の奥に消えた。私がはじめて妻のにんしんを知つた断崖の端とその界隈は立入禁止区域となリ、毎日測量隊のみが出入した。××組の親方が日本人カフェーで軍人と一緒に酒をのみ、女をつかまえてわめき出した国境地区は新しい事態に入ったようだ。
 国境警備隊の土牢は囚人で満員になった。蒼い囚人がわずかな光の下で、鉄柵につかまってわめき、鎖が鳴りひびいた。多くは赤いひけをのばしてやせ衰えていた。
 私はある朝――偶然だが、朝の散歩に出た。清冷な秋の空気を吸い、小公園を抜けて、丘の坂道にかかろうとするとたん、妙な行列に遭った。その一行は警察隊方面からくり出して来たらしい。一人の男が頑丈に両手を後ろにしばられたまま裸馬に乗せられ、そのまわり日本人の警官が犇き合って歩いて来る。それはみこしをかついだ一群のように見えた。群より一際高くそびえている馬上のいましめの男の顔を見て、私は息がつまって棒立ちになった。あの朝水運搬したあの苦力であり、あの夜嶺子を抱きあげた苦力である。その人が悠然としてしばられたまま馬上の人となり、空を見上げていた。微塵も苦悶の色はない。私は息をのみ、胸をつぶし、棒のように立ちすくんでいた。声は出なかった。行列は私の前を通り彼は私を認めた。にこりと一笑して軽く頭を下げた。私も目礼した。互に無言のままで・・・。彼の目はいつもの通り深々と黒くしておだやかであった。一行は国境の丘にある刑場――あの断崖の方角へ去った。
 秋空に剃り立ての頭がくっきりとそびえて青々と冴え、そのまわりに矮小な首斬役人共が腰に日本刀を重そうに引ぎずり、ゴキブリのようにたかり、もぞもぞうごめきながら、足元からほこりを立ててぎくしゃくもつれ合って急いでいた。
 私は遠ざかりゆく馬上の人のひょろ長い超然たる背中と青々した後頭部の丸さを山の頂きを仰ぐように路上からながめ、その場に立ちつくしていた。秋の朝風はさわやかで、むしろきびしかった。


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