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シベリア横断冒険の旅へ

シベリアのティーロード
夏のシベリア
冬のシベリア1800キロ
シベリアの月

シベリアのティーロード

 下関から釜山、さらに朝鮮半島を縦断して同年十二月九日ウラジオストックにたどり着いた玉井は、領事館を通じてドイツ商館を紹介してもらう。ここで6カ月間アルバイトをしたあと、いよいよ玉井はシベリア横断の旅につく。
 ウラジオストックを起点にペテルブルグへ向かうシベリア鉄道が起工されたのは、一八九一年のことであった。当時シベリア横断の交通手段は、陸路と河川をつかうしかない。玉井が、ウラジオストックを出発してまもなく、前年ベルリンを出発した陸軍少佐福島安正が単独馬に乗ってシベリア横断してウラジオストックに到着するのは、六月十二日のことである。福島のシベリア単騎横断は、大冒険として国民から喝采を受けることになる。しかし同じ年に福島とは逆コースをとってウラジオストックからベルリンへ、二十七才の無名の青年が旅についたことを、報じるマスコミはもちろんなかった。

 ハンカ湖の岸辺にあるアリバロフまで馬車に乗った玉井は、この先は船に乗換え、ハンカ湖をわたり、ウスリー川をくだり、ハバロフスクに着く。ここに二十日ほど滞在し、アルバイトをしたあと、アムール川を汽船で遡りブラゴベシチェンスクを経て、ストレッチンスクへたどり着く。この船のなかで、玉井は積み荷のほとんどが茶であることに気づく。玉井がウラジオストックからたどってきたこの道のりは、いわばティーロードとも呼べる、茶の隊商隊が走るコースでもあったのだ。
 上海に集められた中国茶は、船でウラジオストックを経由して、アムール川の河口の町ニコライエフスクへ運ばれる。ここからアムール川を3500キロさかのぼって、アムール川の支流シルカ川岸の町ストレッチチンスクまで、さらに船で運ばれたあとは、隊商によって悪名高いシベリア街道を夏は馬車、冬は橇を使って走り、途中ヴォルガ川を行く船を使いながら、一路ペテルブルグへと向かうのである。隊商というと砂漠を横断するラクダの一群を思い浮かべるが、シベリアの隊商は、ラクダではなく馬によって、夏は車、冬はそりを牽いて茶を運んでいたのだ。

夏のシベリア

 ストレッチンスクから先は、船は出ない、馬車を雇おうと思うが、懐中の持ち金は底をつこうとしていた。そこで玉井は、茶の隊商と共にこの先を旅することを思いつく。ここから、モンゴル国境のウラン・ウデまでは、十ルーブル払って茶の隊商の荷車に乗せてもらうことにした。ちょうどシベリアは夏を迎えようとしていた。
 シベリア奥地の夏は、冬と同じような自然のすさまじさを玉井に見せつけた。日中は四十度を越す暑さ、覆いのない荷車の上に乗っている玉井に太陽の猛烈な日差しが容赦なく照りつける。一番こたえたのは、のどの渇きであった。水筒はすぐに空っぽになり、途中休憩する場所には井戸や泉などはない、シベリアでは水がお金に代えることができない貴重なものであることを玉井はまざまざと知ることになる。ある谷間で休んでいるとき、水がぜんぜん見つからない。すると近くで電気技師たちが、サモワールを囲みながら気持ちよさそうにお茶を飲んでいるのが目に入った。玉井は「少し水をくれないか、お金はたっぷり払ってもよいから」と呼びかけるが、彼らはいやだと断る。これは当然のことなのである。遠くから苦労し、引きずるようにしてここまで運んできたわずかばかりの水を、見ず知らずの旅人にあげる理由はないのだ。水を自分たちで確保し、管理することは、夏のシベリアを旅する者たちの掟なのだ。自然に生きる者たちは、水を得るためには英知の限りを尽くす。渇きに苦しんでいたとき、玉井の乗った隊商の御者は、谷底に降りていった。なんと湿った谷底を踏んだ馬の蹄の跡にたまった汚水を小さじですくい集め、それでお茶を沸かすではないか。玉井はこの時の驚きと感動をこう書いている。

「腐ったような水からこしらえたこのお茶ほど、お茶がすばらしくうまかったことは私の生涯で一度もなかった。」

 ウラン・ウデで隊商隊と別れを告げた玉井は、バイカル湖を走る汽船に乗りイルクーツクにたどり着く。イルクーツクで約三ヶ月滞在し、ここでもアルバイトをしながら、西に向かうチャンスを狙っていた。ロシア運送会社のイルクーツク支店長グリチコフと知り合った玉井は、思いがけない話を聞く。茶の隊商隊は、ふつうは警備のために同行してくれる旅人にお金を払い、荷車に乗ってもらうというのだ。わざわざお金を払うことなどなかったのだ。グリチコフは、玉井にクリコフとテルモフという隊商の隊長を紹介してくれた。
 1893年(明治26年)12月7日、クリコフとテルモフの隊商の橇に乗り込んだ玉井はイルクーツクを旅立つ。そしてここからトムスクまで1800キロを30日間かけて横断することになる。まさにここからが玉井の本当の冒険のはじまりであった。

「旅行中いちばんおもしろく、同時にいちばん緊張もし、いちばん困難だった所は、イルクーツクからトムスクまでの約一八○○キロの道のりで、私はここをぞっとするような寒さ(零下二○度から零下五○度まで!)の中を隊商のそりに乗り、ほんの短い休息をとりながら三十日間で進んだのである。」

冬のシベリア1800キロ

 出発の朝、親類や友人に宛てて書いた手紙に、玉井のなみなみならぬ決意を見ることができる。

 「今の季節は、自分の旅にとって確かに最悪です。しかし、たとえ日ごとに寒さがますますつのって来ても、それに対して勇気を持っています。私は、これからの冒険のために、たとえ一命を失わなくてはならないとしても、冬の隊商とはどんなものか知ってみたいと堅く決心したのです。」

 まさに決死の覚悟で向かうシベリア横断冬の旅であった。
 玉井が加わった隊商は、橇が二百五十台、馬が二百四十頭、御者が四十五人という大編成の隊商で、その長さは二キロ以上にも及んだ。一台の橇には、3〜5プート(1プート=1638キロ)の重さがある牝牛の皮に包装された茶包みが五個積まれていた。
 予想していたとはいえ、シベリアの寒さは骨の髄まで響いてくる。この時玉井は、毛織の靴下をはき、その上に毛織のズボン下、普通のズボン、さらにその上に毛皮のズボンをはき、上半身には厚い服の上に、毛皮の外套を三枚重ねて着込み、毛皮の長靴、両手に厚い毛皮の手袋二枚という重装備をしていた。しかし橇に乗って何キロか走っただけで、両手両足の感覚はなくなってしまうのだ。少し身体を温めようとして歩くことを思い立ったが、この重装備では歩くことも困難であることを思い知らされる。

 「しばらく歩こうと試みていると、雪の中に倒れ、二度と起き上がれそうもない状態となった。このため、御者たちみんなの笑い声がおこり、この連中は私を助け起こそうともしなかった。」

 こんな調子で旅が始まった。目的地に一刻でも早く着きたい隊商は、馬を休ませるために休息をとる以外には、ほとんど休むことなくシベリアの大草原を疾走し続ける。宿は、隊商用に用意されている民家でとるのだが、だいたいいつも3〜4時間程度の休憩で、もちろんベットや風呂などなく、ウォッカをひっかけて、うまくいけば温かいスープにありつけ、あとは床の上に外套を敷いて寝るだけであった。出発に間に合わなければ、置いていかれるだけの話で、うっかり寝過ごすこともできない。実際玉井は一度自分の乗る橇に乗り遅れ、えらい目にあっている。睡眠はほとんど橇のうえでとることになる。
 こうした苦難に満ちた旅であったからこそ、玉井には情けある人々との出会いが身に沁みた。『シベリア隊商紀行』の魅力は、こうした玉井とロシアの庶民たちの心の交流がヴィヴィッドに描かれているところにある。旅に就いて七日目のことだった。休憩していた宿に、以前水夫として日本に来たことのある農夫が訪ねてきた。彼は、玉井に函館の芸者から習ったという日本の歌を二曲歌って聞かせてくれた。それは「江差追分」と「子守歌」であった。異境の地、しかもシベリアで聞く日本のメロディーは、どれだけ玉井の心を慰めてくれたことだろう。
 のちに玉井はロシア人についてこのように書いている。

 「露人は性質善良、温和、愚鈍にして常に其国内に住する外人より軽侮さるを免れず。然れども熊の如き虎の如き之れに何ら敵対せざれば彼も必ず人に加害せざるのみならず、彼の猛獣の人を助けし例少なからず。」

 無骨でともすれば野蛮人に見られがちなロシア人が、限りなく優しい一面を持っていることを玉井は、このシベリアの旅のなかで知った。もちろん玉井は善良な人々だけと出会ったわけではない。ある時は、酒に酔ったコサックに殴りかかられたこともある。

「彼は私が日本人だと知ると、私をなぐり殺そうとした。琵琶湖畔大津での例のロシア皇太子殺害(未遂)事件に対して復讐してやるというのだ。」

 一八九一年ニコライ皇太子が、大津で津田三蔵に斬りつけられた大津事件がもたらした反響の大きさを、玉井は行く先々で知ることになる。泊まった宿の娘が、玉井が日本人だと知るとロシアのカレンダーを持ってくるのだが、それには津田がニコライを襲撃したとき、救助にあたったふたりの日本人向畑治三郎と北ガ市一太郎の写真が印刷されていた。またこんなアネクドートも玉井の旅行記には紹介されている。ある宿の主人が真顔で玉井にこう訊ねる。
 「ロシアの王位継承者が日本旅行した目的は、日本の皇女と結婚したかったからだということ。日本人の多くがそんなことを望まなかったのだ、ある男が彼に対して暗殺計画をたてのだということ」だがそれは本当なのか。

シベリアの月

 トムスクへの旅も終わりが見えてきた十二月二十八日、この日玉井はシベリアに流刑される三百人近くの一群と出会っている。病気以外は男も女もそして子供も、みんな歩いている。とぼとぼ刑に服すためにシベリアを歩く人々は強烈な印象を玉井に与えたに違いない。この日はまた寒さが一段と厳しい日だった。猛烈な向かい風が身を切るようにすさまじく吹き荒れていた。真夜中ふと空を見上げた玉井は、そこに月を見た。酷寒のなかに道を明るく月の光のなんと柔らかなこと。天上の柔和な月光と地上を覆っている猛烈な寒風、このコントラストに玉井は自分の人生を重ねあわす。

 「荒涼として単調で人気のない土地を、私はなぜ今、いちばん恐ろしい真冬にいつも西へ向かって先へ先へと進んできたのだろうか?一体なぜだろう?それはわれわれの新文化の模範であるヨーロッパ、特にドイツに精通したかったからだ。」

 玉井の旅は、あくまでもヨーロッパ、少年時代からなじみ親しんだドイツ、そして明治の日本の知識人が集まっていたベルリンが目的の地であった。そして玉井はその目的を果たす。

 一八九四年二月二十六日玉井は、憧れのベルリンに到着する。その後玉井喜作は、商社に勤めたあと、新聞記者になり、「東亜」というドイツ語の在留日本人のための雑誌を発行、ドイツに住む日本人たちの精神的な支柱となる。家族も呼び寄せこれからというときに、玉井喜作は一九○六年結核のため四十一才の若さでベルリンで亡くなった。

 あたりまえのことがしたくなかった。人のしないことをしたかった。それが玉井の人生であった。そしてそれが玉井をシベリア単独横断という無謀な試みへ駆り立てた原動力となった。玉井の目的地は、あくまでもヨーロッパにあった。それはヨーロッパを文化の模範と見た明治の青春を体現しているといえなくもない。しかし玉井の求めていたのは、ほんとうはシベリアを横断することそれ自体にあったのだと思う。
 シベリアで月を見た夜のことを玉井はこう書いていた。

「この夜の旅では、柔和な月光とぞっとするような酷寒がきわめて対照的だったので、私は一種独特な詩情にひたった。私は自分の身を、愛人を目の前にしながらも彼女に近づくことのできない囚人の身に比してみた。」

 愛人を目の前にしながら近づけない、それを自分に課すこと、それが玉井のシベリアの旅であった。
 そしてそうした旅こそが玉井喜作の人生であった。


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