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明治の快男児・玉井喜作

明治の青春−玉井の少年時代


 いまから百年以上も前に、シベリアをひとりで横断した日本人がいた。玉井喜作という二十七才の青年である。ほとんど無名のこの男が残したシベリア横断単独行記録には、大志を胸に抱き、純粋に夢を追い求めた若者のロマンが書き留められている。
 玉井は『シベリア隊商紀行』と名付けられたこの書の序文でこう書いている。

「1892年(明治25年)に、私は知識欲に駆られて、愛する祖国から広大な世界へ向かった。ヨーロッパ文化、特に世界貿易をその本場で学びたいと思ったのである。だが、インド経由やアメリカ経由の平凡な道はとらなかった。今日よく利用されている、客間つきの快適な汽船には乗らなかった。初めから終わりまで一人で、旅の目的地、ヨーロッパの中心であるベルリンをはっきり念頭におきながら、シベリアとロシアを経由して旅行したのである。」

 何故シベリアという荒野をめざし、この青年が旅立ったのか。

明治の青春−玉井の少年時代

 玉井喜作がこの世に生を受けたのは一八六六年(慶応二年)五月十八日、幕末から維新へと時代が大きく揺れ動いていた真っ只中であった。周防国熊毛郡光井村(現山口県光市)の「銘酒玉川」の醸造元の末っ子として生まれた玉井は、小学校の頃から抜きんでた才能を発揮し、早くから秀才として期待を一心に集めていた。
 15歳のときに東京に出、私立独逸学校(現独協大学)でドイツ語を学び、一八八二年には16歳という異例の若さで、帝国大学医学部の予備学校に入学している。20歳のとき私塾東京速成学館を設立し、自ら校長となる。才能のあるものは、自由に自分の才能を伸ばせるそんな時代だったのかもしれない。鎖国を解き、西欧に追いつくことを目途に、一直線に進んでいたいた日本にとって、玉井は得難い才能であった。特に玉井のドイツ語は、教授以上という評判をとっていた。一八八八年に「少年よ大志を抱け」のクラークで有名な札幌農学校からドイツ語の教授として招かれる。玉井喜作22歳の時である。この若さで教授になるというのにも驚かされるが、予備学校を出ただけで教授になるということもまた異例のことであった。
 すでに18歳の時に、同じ山口の原田エツと結婚し、長女も生まれていた玉井は、家族とともに北海道に渡る。三年間札幌でのびのびと生活をしていた玉井であったが、安定とか平安には満足できない性格なのであろう。三年勤めただけで、辞職。札幌近郊に土地を購入して農業をはじめる。当時日本にも紹介されたトルストイ思想の影響を受けてのことであった。晴耕雨読、農作業をしながら、書を読み、自由に生きる、これが人間の理想だと信じていたのだ。安定した官職を捨て、ほとんど経験のない農業の道を選ぶというこの無謀とも思える試みに、なんの迷いもなく、飛び込むこの楽観的な生き方が玉井の真骨頂だといえるかもしれない。
 しかしもちろん現実はそう甘くなく、農業の夢も二年で挫折、資金も使い果たし、札幌をあとにし故郷山口に戻る。玉井喜作が味わう初めての挫折であった。しかしこれでへこたれる男ではない。一文無しになったことで、かえってドイツへ行く決心が固まった。妻と子供三人を故郷に残し、渡航費をかき集め、単身ウラジオストックに向かう。一八九二年十一月十七日玉井喜作二十六才のことであった。


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