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玉井喜作と「東亜」

 これは、「日本ドイツ文化協会・フォーラムZ」の会報『INFORMATION』No.86(2002年5月20日発行)に大塚仁子さんが発表したものである。大塚さんは、ドイツ語ができない私にとっては、いつも切り札になっている。沢田豊のことを書くときも、また玉井喜作のことを書くときも、ドイツ語の文献を読んでもらったり、ドイツ語で手紙でやりとりしてもらったりと、たいへん世話になっている。
 玉井のことを書くときは、判読がたいへんな日記を読んでもらったり、『東亜』の記事を読んでもらったりと、ずいぶん助けてもらった。
 これを読むと、大塚さんも少しずつ玉井に引き寄せられていっている感じがする。実に頼もしいかぎりである。


玉井喜作と「東亜」

大塚仁子

 玉井喜作、と言われてもご存知ない方がほとんどだとだろう。私が「玉井」の名前を知ったのは、旧知の大島幹雄氏より「玉井」の日記の一部を読んでもらえないかと言われたのがきっかけだった。大島氏はロシア文学(専攻はロシア・アヴァンギャルド)を学んだ後、サーカス関係の仕事のかたわら、海外へ渡った芸人、漂流民などの足跡を追い、著作活動も続けている。氏は玉井喜作のことを著作する際に彼の日記を手に入れたのだが、日本語、ロシア語、ドイツ語が混在していたのだ。私も読んでみたが、古い文体、ミミズのような文字、ドイツ語かと思えばロシア語だったり、正直苦労したが内容は興味深かった。
 まず、玉井喜作とは何者か? 慶応2年(1866年)、現在の山口県光市に酒の醸造元の末っ子として生まれ、小学校の頃から秀才として注目を集めていた。15歳で上京、独逸学校(現獨協中学)でドイツ語を学び、16歳で帝国大学医学部の予備校に入学。20歳の時には私塾東京速成学館を設立し、自ら校長となる。彼のドイツ語は教授以上という評判で、明治21年(1888年)に札幌農学校(現北海道大学)にドイツ語の教授として招かれている。安定とか平安には満足できない性格なのか、わずか二年勤務しただけで教授の職を自ら辞す。札幌郊外に土地を買い、農業を営みながら小売商の免許を得て、ここで商売を興すが、一年あまりで挫折。資金も使い果たし故郷山口に戻るが、未知の世界に飛び出すことになる。
 あこがれの地、ベルリンで貿易を営もうとドイツを目指す。ここでもエリートの道は選ばず、流れ者たちが通るシベリアを経由して、ベルリンへ向かった。当時の日本人はたくましいのか、玉井はシベリア横断中にお金や宿がなくても、決して諦めることなく、返すあてもない借金を重ね、シベリア大陸を横断してお茶を運ぶ隊商を頼って橇旅行、はたまた得意のドイツ語を生かして貿易会社勤務、夢を追ってシベリアへ渡った日本人との出会いにも助けられながら、ベルリンまでたどり着くことになる。下関を出てからベルリンまで467日を要した。ウラジオストックを出発してから272日目のことだった。真冬にシベリアを横断したことは、たいそう厳しかったことだろう。
 しかし玉井は、あこがれのベルリンに到着しても、なぜか感激するでもなく、玉井が民間人であったせいかベルリンの日本公使館も彼に冷たかった。玉井はすぐにハンブルクへ向かう。ハンブルクでは念願の貿易会社で働き安定した生活も送れるようになったが、三ヶ月ほどでベルリンに戻ることにする。ハンブルクを離れるときにはジャーナリストの修行をする決意もしていた。
 玉井はドイツ人と実際に会って話をしたり新聞を読んでいくと、ドイツ人が極東や東洋や日本に関心を持っているのはわかるのだが、その知識や考え方に誤りが多いことに驚かされた。その誤解を正そうと自分なりの考え方を話すと、皆熱心に聞いてくれ、そうした意見をドイツ語で書いてみたらどうか、と勧めてくれる人もいた。ベルリンの新聞社ならば、興味を持つところもあるだろう、と言うことだった。貿易の仕事に物足りなさを感じていたのでこの助言は魅力的で、ジャーナリストの勉強をするためにもベルリンに戻りたいと思ったのだ。
 ベルリンに到着した翌日から中国人の経営する店で店員として働き始める。玉井の働きは高く評価され、流ちょうなドイツ語も手伝い客の評判も良かった。店員だけではもったいないと言われ、三週間後には日本に発注する仕事まで任せられるようになる。丁度そのころ、日清関係が緊迫し、戦争が勃発する。これがまた玉井の転機となる。中国人の店にこれ以上勤めるわけには行かない。
 日清戦争勃発は玉井にとってチャンスにもなった。ドイツ人の目ではなく、戦争当事者でもある日本人として記事を、それもドイツ語で書けば注目されるだろう。玉井はこれをドイツの新聞社に持ち込むようになる。それだけではなく、日本の新聞社にもさまざまな情報を提供するようになった。こうして、玉井はジャーナリストとして足場を固めていった。そうこうするうちに、シベリア横断の旅を一冊の本にまとめた。1898年12月、Kolnische Zeitung社から『KARAWANEN REISE IN SIBIRIEN(西比利亜征槎紀行)』が出版された。玉井が次に目指したのは、ドイツ語で月刊誌を発行することだった。東洋と西欧に橋を架けようとしたのだ。
 1898年3月、ドイツ語の月刊誌『東亜(OST-ASIAN)』が創刊された。これは玉井喜作がベルリンから発した日本へ、そして日本人からドイツ人へのメッセージだった。その目的は、商業を基盤に東西間のパイプをさらに太いものにすることであった。ジャーナリストとして貿易をサポートして西と東を結びつけようとしたのだ。『東亜』は1910年2月まで通算139号発行された(一号分欠けているが、138号分は東大図書館に所蔵)。
 玉井が『東亜』を創刊した頃、日独関係は良いものではなかった。日清戦争の戦後処理で三国干渉があった。また、1888年即位したヴィルヘルム二世は、黄色人種がヨーロッパの白人に禍をもたらすという、いわゆる黄禍論者だった。玉井が『東亜』を創刊したのには、これらに対抗したいとの思いも込められていたのだろう。
 玉井喜作は1906年9月25日、肺病のためベルリンでこの世に別れを告げた。この年の3月号で編集長を辞していた。結核に冒されていたのだ。しかし最後までこの月刊誌のために、そして日本とドイツの架け橋として全力投球で生きぬいた。
 玉井喜作については、詳しくは大島氏の『シベリア漂流』(1998年・新潮社−残念ながら絶版・入手不可能。図書館か古書店で探して下さい)、または大島氏のHP『デラシネ通信』(http://homepage2.nifty.com/deracine/)をお読み下さい。
 玉井喜作の曾孫にあたる、和歌山大学教授の泉健氏がこの『東亜』の目次を全訳され、和歌山大学教育学部紀要に発表された。私もこの目次を読んだが、その内容は貿易に限らず、文化から政治まで幅広く、歴史的にも重要なものが多く見られる。森鴎外の『舞姫』も掲載されている。当時の特許に関する記事もあれば、川上音二郎一座の欧州巡業も紹介されている。特に玉井喜作と親しい関係にあったのか、P・F・フォン・シーボルトの息子、アレキサンダー・シーボルトの寄稿の多さも目を引く。貴重な資料だ。玉井喜作、また『東亜』には、意外な情報が隠れているようだ。当時、日本人がドイツ語でこんな多様な内容の雑誌を発行していたことには驚かされる。大島氏も、ドイツ語関係の方で玉井喜作の足跡を追ってくれる人が現れないかと期待を寄せている。


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