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【連載】玉井喜作 イルクーツク艱難(かんなん)日記

第1回

はじめに
バイカル湖西岸クニナニチュナーヤー駅出発〜イルクーツク滞在中艱難日記
   露歴 1893年8月4日(水曜日) 明治26年8月16日
   露歴 1893年8月5日(木曜日) 明治26年8月17日

はじめに

 今月から5回にわたって、玉井喜作の『イルクーツク艱難日記』を掲載する。これは、山口県光市にある光文化センターに所蔵されている、玉井のシベリア横断時代に書かれた日記三冊のうちの一冊である。
 イルクーツクで世話になったプリクロフスキイからもらった大学ノートに、100年以上前の彼の日々の生活を細かに綴ったノートは、ぼろぼろになり、ページをめくるとそのまま紙が剥がれおちてしまうのではないかと思うくらい傷みがはげしいものだった。
 ここには、玉井喜作がまさに無一文で、日々のパンを得るのにもことかいた、どん底生活がありのまま書かれている。必死になって異国の地であえぎながら、ベリルンをめざして、地を這うように生きた魂の記録が、ここにある。
 玉井喜作、そして彼のシベリア横断の旅については、すでに『シベリア漂流』という本にまとめているので、詳しくはこの書を読んでもらいたいのだが、ここでイルクーツクにたどり着くまでのことを簡単に振り返っておきたい。

 1892年(明治25)11月17日下関を出発、朝鮮半島の釜山を経て、ウラジオストックにたどり着いた玉井は、ここでおよそ半年間百貨店で働いたあと、1893年(明治26)5月31日ウラジオストックを出発、シベリア横断の旅につく。
 ハバロフスクを経て、アムール川(黒竜江)を船で北上し、スレチェンスクから馬車に乗り、バイカル湖を船で横断、イルクーツクに到着したのは、同年8月16日であった。
 バイカル湖畔の港町リストヴャンカに到着した時から、玉井の日記は書き起こされている。

 なお、地名や人名など説明が必要だと思われたところは、随時括弧のなかで説明を入れている。


バイカル湖西岸クニナニチュナーヤー駅出発以来
イルクーツク滞在中艱難日記
起 露歴 千八百九十三年八月四日
  (明治二十六年八月十六日水曜日)
至 露歴 千八百九十三年九月十四日
  (明治二十六年九月二十六日 火曜日)
  四十日間日記
 慶応二年五月十八日山口県熊毛郡光井村出生
 当時北海道札幌南二条西三丁目十八番地
 居住平民(?)東京府牛込区直舟河原町十三番地法学士土屋遼三郎方住居寄寓
 × 万国商業視察者日露貿易熱心家  玉井喜作

 此日記用紙は、東部西比利亜総督陸軍中尉秘書官、日本国を愛し、其国民を愛せる露人プリクロフスキー氏が余に露歴八月二十日(九月一日)露語を学べとて贈れし者なり

露歴 1893年8月4日(水曜日) 明治26年8月16日
 昨夜バイカル湖上イノチシチ×汽船船長フラークの室、即ち船長室に宿す。午前三時過ぎフラーク氏は余を起こし、曰く「今一時間以内にして××(欠落)クニナニチュナーヤー(リストヴャンカのこと)なるバイカル湖西岸の一港に着くす」と。
 直ぐに××××(欠落)、懐中を改めれば、僅か1ルーブル64カペイカ、即ち我××××(欠落)有り。プラゴベシチェンスク(ブラゴベシチェンスク−アムール川とゼーヤ川との合流点近く、中国との国境の町)出発以来四十日間二千三百里、プラゴベシチェンスク出発以来筆紙に悉し難きを×せ×××にも、当地より六十三里程一ルーブル、即ち我が七十銭を投ぜば、汽車にて明日着く、××ば之地に着する乎と思へば何となく愉快にて、甲板上を散歩する内、四時前リステリチュナーヤ港(リストヴャンカのこと)に着す。
 荷物を片付け上陸して、イルクーツク迄の汽船を聞き合すれば、明朝出帆なり、依って一日間汽船待合所に××と決心し、再び船に至れば、同航者ユダヤ人金山発見を業とするクレーマン氏イルクーツク迄×車ですすむ。時に余は当地迄の船貨は十分なれど車代に不足なり。早く当地に着きたきは山々なれど、車代不足なる故、如何にすべしか暫時熟考せしが、イルクーツクに着すればチューリン商会支配人アルセニーフ氏及び当地銀行支配人レフコーフ氏へプラゴベシチェンスク・チューリン商会支配人クライスネル氏よりの深書(親書)あれば、何とか策もあらんと、氏と同車すと決心し、六時馬車に乗り、同地を発す。
 村の西端に税関あり。あり時に主務官尚出勤せず。凡そ一時間程待ちしに、一老人駅舎から来れり見し。税関官吏なり。ウエフネージンスク(ベルフネウジンスクのこと、モンゴルに通じる起点の町、現ウラン・ウデ)より同船せしスハレーチェリスク(スレチェンスクのこと、シルカ川に面した町)よりイルクーツクに転勤せる電信局員オシポフ氏、余等より車を先にしたれば、官吏は同氏の荷物を検し、氏の僅か売れ残り物をおろし、茶の目方を量り、それに課税し、次いで余等の車より荷物をおろさせ、それを検て、時に同行者クレーマン氏黄金数布×を持ち参れば、官吏の××なりし、××は二時間余りを要し、今處を出発し、九時二十分タルツィスカヤ駅に着す。リストラニチュナーヤ(リストヴャンカのこと)駅を離れ、二十露里なり。
 サマワルを命じ、喫茶す。時にクレーマン氏は余にピローグを與へり。此ピローグはパンの中にヲーモリなる魚を焼きはさみしものにて、其味至って美なりし。氏は茶代を払い、イルクーツク迄の馬車貨を算用せしに、一人前2ルーブル27カペイカなり。余は氏に1ルーブル27カペイカを渡し、曰く「只今小銭持ち合わせなき故、イルクーツク着の上残金1ルーブルを払ふ可し」と。
 其実残金40カペイカにして、1ルーブルの金なかりしも、イルクーツク着の上何とか工夫ある可しと、食事を終えて十時頃同地出発二三里進んで、一一時一五分パトロフノフスカヤー駅に着す。直に馬車を×し同地を出発し12里進み、午前一時三〇分イルクーツク府に着す。クレーマン氏と共々ボリショイ・ウーリッツァなるデコー旅店に至る。
 此デコー旅店はイルクーツク第一の旅店にしても×(がい)の石造なり。
 クレーマン氏は三階××二十三号室を一日室料1ルーブル75カペイカ即ち、我が一円三十銭余りにて借り受けるなり。二時頃クレーマン氏×(欠落)屋に至る。氏は湯銭一室60カペイカ及び馬車貨の××××(欠落)
 入浴後チタ府(東シベリアの中心都市)コレクレス商会よりの深書(親書)を×××を持って××商会の××氏(欠落)を訪ふ。氏は余を冷遇せり。氏曰く「君は露語を能く解する能はず。当地露商店に入る難し。支那人を訪じ、支那人の店に入る可し」とを、将棋をさし其冷遇無礼、実に極まり。
 次いでチューリン商会にアルセニエーフ氏を訪ふ。氏は大に余を優待せり曰く「君当地にて商店に入る事難かる可し。当地にて露語を能くし、学識あるものにても、其糊口の道を求むに困難なれば、君は速やかにアムール川に帰る可し。旅費なければブラゴエシンスク(ブラゴベシチェンスク)迄の旅費を貸与せし」と。
 次いでレシコーフ氏を其宅に訪ふ。余は露語不十分なる故、余の移動を十分吐露する能はず。又氏の×語を充分解する能わざる故、後日余が君に吐露せんはする。僕の移動を独露学書を以て××して、君を訪ふ可しと約し、デコー旅店に帰る。
 次いで電信局不案内なるを以て、馬車に乗り20カペイカを投じ、××独逸人ドルゼハ氏をウエフネウージシュク(ベルフネウジンスク)電信局受付グルグナ婦人の名刺を以て訪ふ。
 氏曰く「明朝九時当家に来る可し、共々余の宅に至り、懇談せん」と。
 本日九時二〇分クルチンスカーヤー(リストヴャンカ)駅に於いて朝食をなし、午後七時頃迄一片のパンを食せず。七時頃10カペイカにてパンを求め、昼食兼夜食をなし、餓死を免れけり。
 夜十時クレーマン氏に三人の来客あり。共々喫茶す。本日20カペイカを馬車賃に、10カペイカをパンに、10カペイカを酒代に払いし故、夜に入り懐中無一銭、実に愉快なし。如何となればと窮して為の智識を悟ればなり。
露歴 1893年8月5日(木曜日) 明治26年8月17日
 午前七時半懐中を改むれば一個1カペイカなく、無一文愈々我脳味噌有らん限り力を振るう可き時期至れり。八時前クレーマン氏と共々喫茶す。
 ニコラエフ(ニコラエフスク、アムール川下流の河口の町)に永く、嘗て別れし、栃木県野久椎名保之助氏(ロシア正教を学ぶためにロシアに渡っていた、東京時代の玉井の友人)は既に二三週間前、当地に着かれたれば、当地の事情にも既に少し通じ居らるれば、何とか共々謀らば、良策も出でしと、郵便局と電信局と駅馬取扱××(欠落)其寓居を尋ねたるも、之れを知れる無し。途中馬車に聞きし、彼曰く「バザール市場に白き帽をかぶり、帽笠等を売り歩く日本人あり」と。少し手がかりを得て、市場に至る。或いは東に走り、或いは西に走り、如何程探せ共見出す能わず。某商店にて聞き見れば、アルゼナールスカーヤー町××(欠落)店に一人の日本人住居せりと、漸く其家探し出し、門口に有りし子供共に聞けば、彼の家に日本人居りしと、大に喜び其家に至れば、只今不在なりと、後で×考へ見れば、朝鮮人が日本人と号し、其家に住し、日々市場に帽其他雑貨を販売に×××××(欠落)。夫れより又市場に行き、或る子供に聞きしに、彼れ小生の手帳に日本人の寓所なりと書き與へたれば、見し人其家を探し出し、家に入れば下女余を奥に導けり。
 一紳士出て来て其来意を問う。余答えて曰く。
 「余は日本人にして、昨日当地に来着せしものなるが、当地尚一人の日本人居れば、之れと面会せんが為めなり。市場に居た子供に聞けば、当家に寓するとの事、故只今来れり。日本人本宅なりや否や」
 氏不審の顔色をなし、曰く「余の内に日本人住せず。乍然ども、先ず応接所に来たる可し」と。いと親切に余を応接所に導けり。至って見れば日本婦人用鏡(うらに高級の二字あり)、絹製の拭物、朝鮮支那の仏像、日本漆器類、その他東洋の物品、机上、或いは壁に飾りありて、自ら主人東洋好きなるを知り、大に力を得たり。
 当家主人は東部西比利亜陸軍中将ゴレシキン氏秘書官プリクロフスキー氏なり。氏は大に日本品を愛しており、其品中氏は萩野士官の写真を出せり(中尉力)、以て余の卒書を走しはせず。千客万来を嘗て当地に来りし理由より。
 昨日アルセニーフ氏、レフコーフ氏××氏を訪問せし××を談じとても、此地にて生活の道難ければ、郵便馬車を願い、在二氏より多少のパン代を受け、露都に向って明日にも出発の考えなれば、貴下に於いても幾分の助けあらんかを希望する云々。氏答えて曰く。「アルセニーフ及びレフコーフ二氏は、或いは銀行、或いはチューリンに於いて毎月100ルーブルか200ルーブルの月給を受け、其月給は其月の費に充て、別に蓄財あらざる可しと、チューリンは露国に於いても有名な金満家なれば、チューリンより君が必要の旅費大ふ借用す可しとて、船車貨其他パン代等を計算されしに、50ルーブルあれば堂にかこうにか露都まで達せられば、左様可取計」とて、自ら余をチューリン商会に導けり。
 直々主人に面すブクリロフスキー氏、余の為に熱心に弁ぜらる。主人アルセーニフ氏を呼ばしめ、プラゴエレシュク(ブラゴベシチェンスク)よりの深書(親書)を読み、既に応ぜんとする模様ありしも、傍に居りしハバロフカの商人妨害をなし、終いに好結果を得らざりしは残念の至りなり。
 プクリロフスキー氏と共に出て、氏は途中より出勤時間なれば、是れより府厩に出勤するが、君如何とするなり、余答えて曰く「宿に帰り、熟考の上再び午後訪問すれば可然。万事××仕る云々。是非とも方法を謀り、出発の為策なし。途中倒れても天なり、命なり」と。時に一一時頃なりし。
 又本日プリクロフスキー氏と会せし前、九時頃××を訪ふようにと×××(欠落)独逸人ドルゼット氏を訪ふ。氏は直ぐに余を氏の宅に伴へり。時に婦人不在なりし。余の目的云ふ。今は無一物の××を語りしも、氏は余に向かって、今日より拙宅に来らん可し。其内にも君も何とか名策出ずんと。且つ氏曰く「君は当地郵便局に無貨乗車を乞い、トムスクに赴き、当地より汽船ににてチューメン(六里程)に進み、直にペーテル都迄行く様決心さる可し。50ルーブルあれば充分には非らざれど、節倹せば達せらる可し。余は露都×××(欠落)容易なりと察し、且つ××なり出発を決心××(欠落)
 正午一二時デコー旅店に帰り、荷物を片付けドルゼント氏の宅に移らんとせしに、馬車貨なし、クレーマン氏より20カペイカを借り、氏に別れを告げ、直ぐにドルゼット氏の宅に行く。時に氏不在なりしを以て、前の家主の家にて待つ。此家主はポーレン人(ポーランド人)にして、老婆独語を能わす。又一八九才の令嬢独語を話し能くし、茶を出し優待×れり。
 暫く待ってもドルゼット氏帰宅せざる故、市場に行き椎名君を探す。其×恰かもカチキウチ(敵討ち)が其かたきを探すが如く。暫く諸方聞き合わせども、其効なし。二時過ぎ再び家主の家に帰る。老婆昼食の馳走をなす。
 三時五〇分頃ドルゼット氏、婦人と共に帰宅せり。直に氏の宅に至る。婦人大に不満の色あり。小生も実に不快なれど窮迫カペイカなし。今日の場合なれば暫時の間耐忍して、何とか工夫する事を決心せり。喫茶す。ドルゼット氏は郵便馬車無賃斡旋の労を取る云々話したれば、余の喜び、之れに優るものなし。
 五時頃プリクロフスキー氏を訪ふ。其決心を語る、暫く談話の後、氏は余に十ルーブル、即ち我凡そ七円の金を途中パン代にとて恵與せらん。氏曰く「トムスクに以て方法付かざれば、如何とする哉。」
 余答えて曰く「余は西比利亜事業を以て倒れるの決心を以て日本を出発したれば、今は其事業に着手せざるも、各地商業其他××の事情視察は、亦其事業と謂って可なくし、方法なくんば倒るるの他なし、世の中は万事天なり、命なり。運を夫れ使せ成も×不××天。敢えて恨む處なしと。
 氏は余の決心の強きを見て、曰く。「途中君は防寒の用意なければ、凍死の恐れあり。余の×××談じ、猟用の外套を贈らせん。且つトムスクに着せば、同地警察署長を訪ね、汽船ならびに運賃の労を取らる可き様謂可し」と。氏は今より本人を訪ひ、君の外套を斡旋せん云々語られしに、×氏を辞し、×ち暫くして一兵卒短外套、毛靴、ズボンの三品を持ち来る。余をして感泣に堪えざらんしめた此物品を贈られし士官××ならんとドルセット氏は語れり。
 此夜ドルゼット氏宅に電信局員ラールキビキン氏亦あり。十二時頃迄或いは飲み、或いは食し長椅子の上に寝たり。
 本日天気快晴なりし。

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