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【連載】玉井喜作 イルクーツク艱難(かんなん)日記

第5回(最終回)

イルクーツクにたどり着くまでのハードな旅がもたらした病、痔に苦しむ玉井、それを励ます椎名。ふたりの苦難は続く。

バイカル湖西岸クニナニチュナーヤー駅出発〜イルクーツク滞在中艱難日記
   露歴 1893年8月22日(日曜日) 明治26年9月3日
   露歴 1893年8月23日(月曜日) 明治26年9月4日

   露歴 1893年8月24日(火曜日) 明治26年9月5日
   露歴 1893年8月25日(水曜日) 明治26年9月6日

   露歴 1893年8月26日(木曜日) 明治26年9月7日
   露歴 1893年8月27日(金曜日) 明治26年9月8日
   露歴 1893年8月28日(土曜日) 明治26年9月9日
   露歴 1893年8月29日(日曜日) 明治26年9月10日

   露歴 1893年9月1日(水曜日) 明治26年9月13日
   露歴 1893年9月2日(木曜日) 明治26年9月14日

露歴 1893年8月22日(日曜日) 明治26年9月3日
 十時離床。懐中僅かに壱カペイカあり。
 本日天気快晴。
 昨夜午前五時迄日記を書す。
 午後壱時頃前家ジェストロフより招待され茶及びパンを喫し、昼食をなす。
 午後四時頃椎名君と金作に付き必死になり智恵をしぼりども智恵は出ず可き、金の出来可き苦なし。椎名君は余の夏服、即ち浦塩港出発の際中井嘉×君より贈られしを、氏の知己なるカフカーズ人に持って行き、之れを×して1ルーブル持ち帰り、82カペイカ(20カペイカ半瓶酒、5カペイカ黄瓜五個、3カペイカパン、14カペイカ砂糖、12カペイカローソク、30カペイカ料理店払い)
 共々飲み共々食し、大いに快を取り、町を散歩して、かつてプリクロフスキー氏が余に11カペイカにてソップ及び肉を売る料理店××ソルダートスカーヤ町にあれば、其料理店にて食を求むべし、鉢を持ち行き宿に持ち帰れば二食にて充分と教え×られる事を思いだし、其料理店を如何程探せにも見当たらず、某料理店に入り、聞き合わせれるに、内にも料理出来れば室に入り、一食試むべしと言う故、氏と共に内に入り、一皿を食ぜんに、ビフテキを持ち来れり、其代価を聞けば、一人前30カペイカなりと、勘定をなし十一時頃宿に帰る。
 夜に入り懐中を改めば、僅かに16カペイカなり。
露歴 1893年8月23日(月曜日) 明治26年9月4日
 昨夜四時まで安眠し能りざりし、九時離床。午前西部利亜総轄陸軍中将コレシキン氏へトムスクまで郵便馬車或いは黄金車乗車願書露文×の件、依頼の為め二回市役所にネストローフ氏を訪ふ。
 朝末曇天にして、十二時頃より小雨。
 午後三時頃余が去る一月(?−ママ)浦塩港リヤンゲリッチ商会におりし時同店より22ルーブルにて求めし外套を椎名君、氏の知己なるカフカーズ人=3ルーブル=にて入質して乍然昨日入質の夏服は持ち帰れり。
 午後四時ハバロフカ鬼塚、早川両氏宛にて
 「返事待居り」
 の電報を発し65カペイカ電報料を払う。
 十二時頃12カペイカ酒、夕刻15カペイカ酒を求む
 本日支払い金右の如し
   80カペイカ 宿室料四日分(22日より25日迄)
   27カペイカ 酒代
    4カペイカ 黄瓜代
    5カペイカ パン代
   65カペイカ 電報代
   13カペイカ 煙草代
   25カペイカ デコー昼食代
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  2ルーブル19カペイカ
 
 本日室料を二十五日まで払いしは、将軍が幸いに黄金車を許可せば同日出発の考えなりして以てなり。此夕クレーマン氏をデコーホテルに訪ふ。氏既に出発後なりし、余は25カペイカにてスップを食し帰る。
 本日椎名君ネストロック氏と共に馬車にて大僧正を訪ね、宗教中学官費入学の件ぜしも日本ニコライより証明書あらざれば許可難成の回答ありして、以て氏はニコライ氏に向かって書状を出し、証明書請求することに決心せり。本日馬車賃60カペイカはネストロック氏より借用せり。
露歴 1893年8月24日(火曜日) 明治26年9月5日
 昨夜五時迄安眠し能りざりし、九時離床。
 午前十時将軍グレミキン氏を官邸に訪ね、露文願書を出す
 其文に曰く
 「余は数年間日本大学に居りしものなるが、日露貿易の隆盛を謀らん為ペテルブルグ大学入学を思い立ち途中旅行不案内、露語を充分解せざりし為め、予定分の旅費を要し、一定の馬車賃を払いて之地まで達する事出来難き故、之地迄黄金車若しくはトムスク迄郵便馬車無賃の御許可あたえん拝命望する云々」
 将軍願書を一読し曰く
 「君速やかに日本に帰るべし、日本に帰って修行すべし、其方君の為め得策なりと」
 余如何程熱心に弁ずりといえども、なかなか許可与えざりし
 正午十二時宿よりソップ(二十カペイカ)を取り、椎名君と共々昼食をなす。食後ネストロック氏、昨日椎名君借用せし馬車賃を請求せし故、之を払う。午後三時頃椎名君と共にトムスク行き茶車聞き合せの為め、汽船待合所に至る、之れを知る能わず。
 時々余は穴痛強く、歩行に難堪え以て、帰宿し、椎名君一人にて市場近く方々(傍々)行き之れを聞き合せ、帰り報じて曰く
 「今朝一隊出発せり、近日出発する趣にて、凡20ルーブル位ならん、乍然、其馬車屋と直接応対せざれば確かか知り難し」
 氏は帰途2カペイカのパンを買い大いに恥れりと。
 本日午後椎名君は彼の仕事場親方に畠山氏より贈られし仕込み杖を持行き、2ルーブル借り来たり。17カペイカビールを買い、共々飲む、本日20カペイカ茶、14カペイカパンを求む。
 夜に入り穴痛益強まり、大に困難せり。
 椎名君仕込み杖、××入質
露歴 1893年8月25日(水曜日) 明治26年9月6日
 本日天気快晴。
 本日穴痛非常に強く、殆どなす所を知らず。余苦痛を忍び椎名君に謂って曰く
「この苦痛百万千万の金にも替え難し、金なくんば僕の時計、露独書、洋服など、何なりと手当たり次第取り出して、金を作り×、治癒の方を講ぜらんことを、一時も早く、君に願う、今瞬間のうちに僕の穴はいかに難症におちいるか計り難し、殆ど切られる如き感あり」と
 時に余は苦痛なした為、余は勇気を失い、一時男泣きに泣きたりし。
 時に椎名君余を励まさんが為、大笑いして曰く
「君平素勇気勃々×が如く、白刃失石を冒進するも、敢えて意とせざる君の今日の挙動果して如何に寧々君の穴を切り捨てべしと」
 氏は直ぐに薬屋に走り、ヨードカリーを十五カペイカにて求め来り、水に混じて余に飲まして曰く、二週間禁酒して、可成塩気を断じて、之を飲むべし、必ず全癒すべしと。
 午後一時入浴して少しは苦痛を減ぜり、午後八時再び入浴して益々快を感ず、帰途8カペイカローソクを求む。
 本日二十七カペイカにて十八斤の大黒パンを求め、机上に置き相笑て曰く、五日間籠城兵糧の憂なしと
 本日の入費次の如し
   27カペイカ  パン
   13カペイカ  ヨードカリー
   14カペイカ  湯屋
    8カペイカ  ローソク
 本日椎名君ヨードカリーを買いに行きし時、市場に於いて廉価なるソップ屋を発見し5カペイカにて之を求めしに、味美なりしと、且つ×酒を飲み××いえり。
露歴 1893年8月26日(木曜日) 明治26年9月7日
 今朝小生懐中無一物なりしも、椎名君六十カペイカ余り所持しおりし、且つパンの昨日買置きは二十七斤の大黒パンあれば両人共何とか心強かりし。
 天気快晴。朝×穴乃金玉は大に快を感ず。
 正午宿よりソップ(二十カペイカ)を取り余一人にて昼食をなす。
 午後二時電信局に至る。返信に接せず。帰途店に立ち寄り六カペイカにて煙草紙を求む。
 午後四時と六時二回プリクロフスキイ氏を訪ふ。非ず。是れトムスク迄千五百五十五里程茶車若しくは歩行にて決心出発に就いて氏に喋らんが為なり。
 椎名君は本日より毎日昼食にクルチスキー氏より招かるる事になり、且つ氏は本日椎名君に靴、フロックコート、チョッキ、夏上衣及びのチョッキ、洋服下シャツ、及びえりかざりを贈れり。是れネストローフ氏が椎名君の目下労働するを不憫に思い、同氏に談ぜしを以て氏を助けられしなり。
露歴 1893年8月27日(金曜日) 明治26年9月8日
 九時離床。サマワルを湧かし喫茶。十時店に至り十カペイカ煙草を求め帰り、十一時入浴す。
 今朝穴少し痛みしを入浴後快を感ず。
 午後一時宿よりスップ(二十カペイカ)を取り、昼食をなす。
 午後四時市場にセニブレプゾ氏を訪ふ。
 午後七時椎名君と共に再び湯屋に至る。湯屋にてドイツ語を能りするユダヤ人散髪屋と暫く談話す。
 本日天気は快晴なりしも夜十時頃より俄に大雨となる。
 本日入費(出費のこと?)は右の如し
 10カペイカ 煙草               −+
 21カペイカ 湯屋                | *縦書きの書き込み
 12カペイカ 砂糖                |
  7カペイカ パン                |
  5カペイカ 酒(椎名)  −+湯屋の帰途    |
  6カペイカ クワス(玉井)−+        −+

 *本日にて去る二十四日椎名君の仕込み杖を入質して得たる2留(ルーブル)の金全く悉く。椎名君曰く、尚僕の毛皮の外套あり、今一ヵ月間必要なし、其内にな何とか工夫付かんと、僕曰く尚てん奸計あり、チューリン商会ありと
 両人共日々其日のパン代に窮しながら敢えて憂ふることなく。常に虚心平気なりしと奇と思う可し、随分酒も飲みしが、ヤケノミにも非ず。平常金ある時飲むの心捨てなりし。数年の後椎名君と再会する一日比サムソノワ。本佳日記を読めば、随分愉快ならん。
露歴 1893年8月28日(土曜日) 明治26年9月9日
 本日小雨道路極めて悪しかりし、椎名君は早朝泥眤を犯し、氏の毛皮外套を携えして、氏の知己なるカフカーズ人に×行き入質して3ルーブルを借り来れり。
本日午前十時浦塩港松浦、中井、青山、保坂、久保、宮本六氏連名あてに次の電報を発し、電報料1ルーブル33カペイカを払う。
 「ぺテルブルグ着次第払う、七十ルーブル直々送り貸せ
  好機会失う 早く 是非頼む  ロシア語」
 余は浦塩諸氏に依頼するの××なからんが当地出発を急ぎしと保坂亀太郎氏が余が浦塩出発前夜青山商会に於いて別盃の際、西進に就いて旅費欠乏、困難の際は通報すべし、必ず君の為、可然取計はんと、数回堅く盟はれしを以て、自ら依頼せざらんと決心せし盟を××り。一時の急を凌ぎ、ペーテル着の上返却するの考えをいだき、右の電文を発せは、心中自ら恥じる所ありたり。
 午後一時サマワルを湧かし黒パン砂糖を食、昼食となす。
食後一人にて湯屋に至りここにてベンニク(木の枝)を求む、ウエニクは箒なる意見にして、湯屋にて身体を温めてから打てば非常に快を感ず。
 午後十一時椎名君と共に再び入浴す。帰途クワス(要説明)を喫む。
 数日間非常に困苦せし金玉は殆ど快復したれど穴痛尚止まず。深夜痛み強くはなはだ困難す。
 本日入費カペイカもなし
 1ルーブル35カペイカ 電報料
     15カペイカ ヨードカリー
     10カペイカ ()
     21カペイカ 風呂
      8カペイカ クワス
      5     ()
−−−−−−−−−−−−−−−−−−
1ルーブル94カペイカ

 藤村強太郎氏にハガキ出す
露歴 1893年8月29日(日曜日) 明治26年9月10日
 七時半離床。1ルーブル懐中にあり。
 十時椎名君と寺に至る。
 一時宿より20カペイカにてソップを取り、昼食をなし。
 午後三時より七時まで安眠す。
 午後七時店に行き、16カペイカ煙草、5カペイカ砂糖、6カペイカロウソクを求む。 帰宿してサマワルを湧かし、黒パンを喫しを夕食となす。
 午後穴痛大に快を覚ゆ。
 之夜椎名君郷里ニ本××の快×をなし、深夜に及ぶ。
露歴 1893年9月1日(水曜日) 明治26年9月13日
 七時半離床。
露歴 1893年9月2日(木曜日) 明治26年9月14日
 八時半離床。天気快晴。早朝懐中無一銭。
 去る二十八日浦塩斯徳港松浦氏丑氏に電報を発せしも未だ返信に接せず。一旦発せしども、今一回の電報を発し、送金するや否や聞き正さんとするも一文の金なき、依って十一時頃チューリン商会の支配人アルセニーフ氏を訪ぬ。氏不在。帰途、氏の自転車にて帰宅するに会す。氏は自転車を下り、用向きを問えり。余は余の意見を露語を以て充分に吐露し能わらずが故、椎名君が露文を以て書きし(小判洋紙)依頼書を出す。氏半分ばかりそれを読み(以上で終わり)

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