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【連載】玉井喜作と若宮丸漂流民の接点をさぐる

第1回 シベリア隊商紀行と『世界周航実記』

 玉井喜作が「シベリア隊商紀行」の付録につけた「百年前、日本人数名によるシベリア経由の世界紀行」をシリーズで、解説つきで紹介していきます。どこからの引用なのかを解明していくことで、接点がどこにあったのかを追跡していきます。
 第一回目は、付録の「百年前、日本人数名によるシベリア経由の世界紀行」の序を紹介、解説していきます。

シベリア隊商紀行


シベリア隊商紀行

 1898年ベルリンで出版された玉井喜作の『シベリア隊商紀行』(原題 Karawanen−Reise in Sibirien 原著には『西比利亜征槎紀行』というタイトルが日本語で書かれてある)は、彼が1893年12月シベリアのイルクーツクからトムスクまで、お茶を運ぶキャラバンと共に橇で旅したときのルポルタージュである。この書には、「百年前、日本人数名によるシベリア経由の世界紀行」(原題 Weltreise mehrerer Japaner uber Sibirien vor 100 Jahren 原著には『附録 百年前日本人西比利亜経由世界周遊紀行』というタイトルが日本語で書かれている)と題された若宮丸乗組員の漂流譚が付録についている。
 なぜ玉井が当時ほとんど知られていなかった若宮丸漂流民のことを紹介することになったのか、彼はこのことをどこで知ることになったのか、資料をどこで入手したのか、玉井と若宮丸漂流民を結びつけたものは何だったのかを明らかにしようというのが、この連載のテーマとなる。
 この『シベリア隊商紀行』も、長い間日本でも知られていなかったのだが、1963年小林健祐の訳で『世界ノンフィクション全集47』に収められ、ドイツ語で発表されてから70年経ってやっと、日本で紹介されることになった。しかしこの書もいまは絶版となり、「百年前、日本人数名によるシベリア経由の世界紀行」自体読むことは困難でもあるので、ここで玉井が書いたこの若宮丸漂流譚も紹介しながら、玉井と若宮丸の接点を見つけ出していきたいと思う。(引用はすべて小林健祐訳)
 一回目は、玉井が書いた漂流譚のもとになったテキストについて、考察してみたい。
 まずは、「百年前、日本人数名によるシベリア経由の世界紀行」の序を見てもらいたい。

「百年前、日本人数名によるシベリア経由の世界紀行」 序
 一七八九年に津太夫(六十歳)とその同僚たち、儀兵衛、佐平、太十郎(三十四歳)という日本人四人が、嵐にあって難破し、東シベリア海岸に打ち上げられた。ロシアの戦艦「ナデシュダ」が彼らを長崎港の手前にある伊王島へ上陸させたのは、一八〇四年九月のことだった。
 これらの船員たちは、独特の運命をたどり、この時期に地球をぐるりとめぐっていたのだ。彼らは心ならずも世界一周旅行をしたわけだが、それについて日記をつけていた。この日記は次の理由からだけでも一般の人々の興味をひくに違いない。つまり、今日では蒸気船や鉄道で数か月内に地球を一周することができるが、百年前の世界一周旅行は今日よりはるかに珍しいことだったからだ。そのうえさらにこの日記は、次の事情によって一段と興味深いものがある。つまり、四〇年までは外国旅行をすることは禁じられており、それを犯せば死刑だったので、日本以外の他の世界は全く知らずに生きてきた人々によって書かれたということである。そこで私は、この旅行記から最も興味深い箇所を少しばかり、読者にお伝えしようと思う次第である

 玉井は漂流民たちが日記はつけていたと書いているが、こうした事実はなく(もしかしたら日記は書いていたのかもしれないが)、記録として残っているのは、帰国した漂流民たちが仙台藩の取り調べに答えた記録『環海異聞』や、長崎奉行所に残る取り調べ記録があるだけだ。しかもこれらの文献は、当時一般の人間が簡単に閲覧できるものではなかった。では玉井が使っている資料はなんだったのか。この秘密を解く鍵が、玉井の故郷山口県光市文化センターに残されている。
 光市文化センターには、玉井がロシアに渡ってからドイツへ着くまでつけていた日記やメモ帳などが保管されているのだが、この中に手紙の発信簿がある。ここに「明治二十七年(一八九三)十月三十一日の欄に「土屋注文、『寛政年間仙台漂客世界周航実記』」というメモが残っている。玉井は、なんらかの必要があって、東京の友人土屋遼三郎に、この本を買って送るように頼んだのだろう。
 『寛政年間仙台漂客世界周航実記』は明治二十七年四月に博文館から刊行されたものである。
 これは、小原大衛という人が『環海異聞』を当時の現代語で、抄訳したものであった。いささか長くなるが、この本が生まれる経由について、序文を引用する。

「先人磐渓。曾て隣交篇ヲ撰シ。魯西亜ト交盟スベキヲ。幕府ニ上陳シタリキ。此言夙ク嘉永ノ初年ニアリ。當時邦人甚タ海外ノ事情ニ暗ク。常ニ斥ケテ。夷狄禽獣ノ徒トナス。故ニ此篇ノ出ツルヤ。痛ク世ノ攻撃ヲ受ケ。詈罵垢辱。其醜ヲ極メタリ。既ニシテ。米国通信トナリ。五国条約トナリ。稍々頑陋ノ夢ヲ覚シ。明治維新。俄然其局面ヲ変シ。天明ケ日出ツルガ如く。今日ニ至リテハ。三尺ノ童子モ。西伯里ノ鉄道ヲ説キ。浦潮港ノ商況ヲ論セリ。前後僅々三四十年ニ過ギズ。先人ノ先見。実ニ驚クベシ。而シテ。コノ見ノ立ツ。畢竟王父磐水ガ。環海異聞ノ記述アルニ據レリ。其書ハ仙台ノ漂民ノ帰朝ニ就キ。魯国ノ政刑風土ヲ。詳悉ニ丁寧ニ筆記シ。一読シテ。其国勢国情ヲモ洞觀スベシ。嗚呼。家訓ノ由ル所。又仰クベキカナ。
 小原大衛子ハ土佐の人ナリ。桂川甫純君に介シテ。来リ云フ。環海異聞ヲ節要シテ。世ニ問ハントス。先生幸ニ諾ヲ與ヘヨト。曰ク諾。マタ一言ヲ乞フ。及書シテ與フ。
                      大槻修二謹」

 大槻修二は、大槻磐渓の次男、祖父はいうまでもなく「環海異聞」の編者大槻磐水こと、大槻玄沢である。この序文にあるロシアとの国交を結ぶべきだと進言した嘉永初年の書とは、修二の父大槻磐渓が、嘉永二年対外問題を論じた『献芹微衷(けんきんびちゅう)』五篇のことをいう。
 祖父玄沢が帰国した漂流民からロシアの国情のことを詳細に聞き出した記録『環海異聞』をいま要約して世に出すことはたいへん意義のあることだという小原大衛の申し出があり、快く承諾し、また序文を書くことに同意したということがここに書かれているわけだが、この書が出版されたことにより、限られた学者しか知らなかった若宮丸漂流民の足跡が一般の人たちにも知られることになったといえよう。
 玉井がシベリア横断の旅を終えて、ベルリンに着いたのが明治27年2月、『寛政年間仙台漂客世界周航実記』が出版されたのが同じ年の4月、そして土屋にこの本を送ってくれるように頼んだのが、やはり同じ年の10月だった。
 どういう経由で玉井は『寛政年間仙台漂客世界周航実記』のことを知ったのか。若宮丸漂流民が暮らしていたイルクーツクで玉井もおよそ半年間生活することになる。その間若宮丸漂流民についてなんらかの情報を手に入れ、それについて書かれた本を探しているうちに、この本のことを知ったという仮定がひとつ考えられる。しかしこの可能性はかなり低いだろう。もしもイルクーツク滞在中にこうした日本人が百年前にいたことを知っていたら、彼がイルクーツク滞在中に書いていた日記に、このことを記しているはずだが、そうした記述は見当たらないのである。
 『寛政年間仙台漂客世界周航実記』を土屋に頼んだとき、玉井はこの本だけでなく『南極探検実記』(鈴木経勲著)、『世界周航記』(クック著)、『ペルシアの旅』(吉田正春著)、『メキシコ探検記』(竹沢太一・福田顕四郎・中村政通著)など一連の冒険ものを注文していた。これらの本はすべて博文館が出していたものである。それは『寛政年間仙台漂客世界周航実記』の最後の自社広告欄で紹介されていることでわかる。
 おそらく玉井は、シベリア横断の旅を終え、この記録を書く準備をしていたのだろう。そのために土屋に国内で出ている探検ものや冒険ものについて問い合わせをしているなかで、博文館出版の世界紀行探検シリーズものを手に入れ、そこで『寛政年間仙台漂客世界周航実記』のことを知ったと考えるのが妥当なのではないだろうか。
 玉井は、実はもう一冊若宮丸漂流民について触れたクルーゼンシュタインの『ナジェジダ号とネバ号による世界周航の旅』のドイツ語版を入手し、これも参照しながら、『百年前、日本人数名によるシベリア経由の世界紀行』を書くことになる。これについてはまたおいおい触れていくことにする。


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