月刊デラシネ通信 > ロシア > 粛清されたサーカス芸人 > ヤマサキ・ファイル2
ここに掲載したファイルは、ヤマサキキヨシ自身への尋問記録である。
ヤマサキの肉声が聞ける唯一の記録と言っていいだろう。
ファイルナンバー | 10 | 該当頁 | 13〜16 | 日付 | 1937年 7月24日 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
タイトル | 尋問調書 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
内容 | ヤマサキキヨシへの尋問調書 (経歴、サーカス団のこと、父親のこと) |
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1937年7月24日。ナロフォミンスク(P/O)の主任。 ラザレフは被告に尋問した。
[一頁分欠落 と思われる] サーカスのアーティストたちはモスクワへ連れてこられた。そしてニキーチンサーカスで働くことになった。私はサーカスで1913年まで働き、ロシア各地を巡業した。1914年から17年までロシア軍の志願兵となった。1917年から21年まで赤軍で勤務した。[ ]にクラスナプレスネンスキイ地区委員会の文書使いの仕事をした。1923年仕事がなかった時に友人たちが私を援助してくれた。ベリーキンは、その時クラスナプレスネンスキイ地区で[ ]として働いていた。現在彼がソ連共産党に[ ]しているかどうかは分からない。チョームキンは、ソ連共産党地区委員会で倉庫係の仕事をしていた。そこで現在も仕事をしているかどうかは分からない。1924年から1932年までは、モスクワのベラルースカ−バルチンスキイ通りにあった鉄道の車両工場で[ ]として働いた。 質問「誰がナロフォミンスク工場の電気技師の仕事に就くときあなたを推薦したのか。」 答え「工場の公共住居部の電気技師には、人事課を通じて就職した。」 質問「あなたの父親が日露戦争で戦死したことはどこで知ったか。」 答え「父と母のことは知らない。1912年モスクワに来た時、ニキーチンサーカスで働いていた私は、日本のサーカスの仲間たちと一緒に日本大使館に行った。そこで私は、大使館の職員たちに自分の父親のことを尋ねた。そこで私は、父が日本海軍の上級大尉で、日露戦争のとき戦死したことを知った。」 質問「日本から来たサーカス団で一緒に働いていた同僚たちはいま何処にいるのか。」 答え「私が覚えている限りでは、私の同僚たちは、1916年に日本に帰った。」 質問「あなたは自分の証言のなかで、1914年に志願兵としてロシア軍に入隊したと言っている。どこからサーカスの同僚たちが1916年に日本に帰国したということを知ったのか。」 答え「彼らは私に1916年より前には帰国すると言っていた。[ ]から知った。」 質問「1935年に共産党を除名されたのは何故か。」 答え「1935年に私は共産党を除名されたが、それは同志クゥドローフに対する検閲にかかるような表現のためだった。」 質問「1937年7月3日第二幼稚園であなたはスイッチの修理をしている。この時誰が居たか。」 答え「1937年7月3日第二幼稚園で私はスイッチの修理をした。この時、二人の女教師がいた、名前は知らない。」 |
ファイルナンバー | 11 | 該当頁 | 17〜20 | 日付 | 1937年 7月27日 |
タイトル | 尋問調書 | ||||
内容 | ヤマサキキヨシへの尋問調書 (7月3日の幼稚園での会話について等) |
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1937年7月27日。ナロフォミンスク(P/O)の主任。 ラザレフは被告に尋問した。 質問「調書では紡織工場での妨害活動についてあなたが知っているといううわさについてふれているが」 答え「1937年7月3日こんなことがあったのをおぼえている。私は第二幼稚園でスイッチの修理をした。この時、二人の女教師がいたが名前は知らない。修理している時にすでに話ははじまっていた。女教師の中のひとりが、私に改良されていない電線から何が起こるかと質問してきた。これに対して私は、発火することもある。[ ]は工場に対する復讐だろうと答えた。これ以外にも工場を燃やそうというような妨害は、ナロ全体に多くあると言った。これに際して私は女教師の一人に、この話について誰に喋らないように、もし喋れば私が殺されると警告した。」 質問「誰が何のためにあなたを殺すのか」 答え「私自身どうして殺されるなどと彼女に言ったのかわからない」 質問「あなたが、モスクワのベラルースカ−バルチンスキイ通りにあった車両工場に就職した正確な年と月日を言いなさい。この時就職するためにどんな書類をもっていたか」 答え「月日は覚えていない。ただ1924年の冬だったことだけはわかっている。仕事には[ ]で就職した。この年、つまり1924年工場で働いた時に、日本大使館に行った。日本のパスポートをとるためだった。大使館で私は、書類を日本に送るように言われた。このあと、記載した私の住所(トヴェルスキーエヤムスキーエ通り43-1)に返事を送ってくれるということだった。」 |
ファイルナンバー | 12 | 該当頁 | 21〜24 | 日付 | 1937年 7月25日 |
タイトル | 尋問調書 | ||||
内容 | ヤマサキキヨシへの尋問調書 (知り合いについて等) |
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1937年7月25日。ナロフォミンスク(P/O)の主任。 ラザレフは被告に尋問した。 質問「どこの工場で働いている時に入党したのか、誰が推薦したのか、あなたのことを良く知っているのは誰か」 答え「入党したのは、モスクワのベラルースカ−バルチンスキイ通りにあった1905年車両修理工場にいた時で、1927年だった。誰が私を推薦してくれたか覚えていない。私のことを良く知っているのは、1905年工場の職長シューマンだ。彼以外に私のことを良く知っているのはラトニコフだ。私が工場で働いているとき、ラトニコフは警備長をしていた。」 質問「ソ連のどんな町で暮らし、なにに従事していたか」 答え「1921年軍隊から帰ってきてから1932年まではモスクワで働いていた。1932年から逮捕まではモスクワ州ナロフォミンスクで暮らしていた。」 質問「モスクワにいたときはどんな工場で働いていたのか」 答え「モスクワにいたときは、働いていたのは1905年工場だけで、1924年から1932年まで他の工場では働いていない」 質問「[ ]と紡織工場であなたが良く知っている人は誰か」 答え「紡織工場では工場長のワシリエーフを知っている。ナロフォミンスク工場公共住居部では電気技師のベレージンと、アヴェリヤーノフだ。いま挙げたふたりは一緒に働いていた。」 質問「モスクワであなたの知り合いはいるか」 答え「1905年工場で働いていたラトニコフ以外に知り合いはいない」 質問「1937年7月24日の尋問で、あなたは以下のことを証言している、つまり1923年無職でいたときに、当時共産党クラスナプレスネンスキイ地区委員会の労働者ベリーキンとチョームキンがあなたを物質的に援助していたということだが、彼等は現在どこで暮らしているのか、そして最近彼等と会ったのはいつのことか」 答え「最後にベリーキンとチョームキンと会ったのは、工場に入る前の1923年で、その後は会っていない。」 |
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