月刊デラシネ通信 > ロシア > 粛清されたサーカス芸人 > ヤマサキ・ファイル3
ヤマサキの反スパイ活動を証言する記録である。
職場の同僚、親戚などの証言が、ヤマサキを追い詰めていくことになる。
ファイルナンバー | 13 | 該当頁 | 25〜28 | 日付 | 1937年 7月 9日 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
タイトル | 尋問調書 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
内容 | 幼稚園教師ヴォルコワ尋問調書 (幼稚園でのヤマサキの発言についての証言) |
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1937年7月9日。ナロフォミンスク(P/O)の主任。 ラザレフは証人に尋問した。
質問「1937年7月3日あなたはどこにいたか」 答え「1937年7月3日午前9時から私は第二幼稚園で教師として働いていた。」 質問「1937年7月3日何時に仕事を終えたか」 答え「1937年7月3日午後3時に仕事を終えた」 質問「電気技師ヤマサキと幼稚園の園長コミッサーロワ・ウリヤーノフ・ステパーノビアの話について知っていることは」 答え「1937年7月3日午後3時に仕事を終えた私は、電気技師ヤマサキのところに行った。そこにはコミッサーロワが居た。彼女は電気技師にどんな方法で火事が起こるのかと尋ねた。これに対してヤマサキは次のように答えた。すべてこれは妨害を目的に行われた、電線は全ての階で一緒に燃やされた。妨害者のひとりは発電所の所長ヴォスシケンで、ボイラー室を爆破するために人を派遣したが、これには成功しなかった。同様の妨害活動家はまだたくさんいるし、彼等はいろいろなところにいる。織物工場に8人、紡績工場に4人、機械工場に2人、兵器工場に3人いる、またこうした人々はコルホーズにもいる」 質問「他に電気技師ヤマサキはあなたに何か言ったか」 答え「この会話のあと彼は私とコミッサーロワに対して、この話は誰も知らないことで、あなたたちにだけ話した、もしこれについてあなたたちが話せば、あなたたちは裏切ったことになり、私は自殺するか、私がいま言った人が私を殺すことになるだろうと、警告した」 質問「織物工場や紡績工場、兵器工場にいるというこうした人物について名前を言っていたか」 答え「彼は名前は言わなかった」 |
ファイルナンバー | 14 | 該当頁 | 29〜32 | 日付 | 1937年 7月 9日 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
タイトル | 尋問調書 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
内容 | 幼稚園教師コミッサーロワ尋問調書 (幼稚園でのヤマサキの発言についての証言) |
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1937年7月9日。ナロフォミンスク(P/O)の主任。 ラザレフは証人に尋問した。
質問「公共住居部に勤務する電気技師ヤマサキ・キヨシを知った経緯は」 答え「ヤマサキ・キヨシは以前は知らなかった。最初に会ったのは7月3日で、彼が幼稚園の電気を修理に来た時だ。」 質問「1937年7月3日幼稚園のスイッチを修理に来た電気技師ヤマサキキヨシは、なにをあなたに言ったか」 答え「1937年7月3日私はスイッチの修理のため電気技師を派遣するように公共住居部の作業場へ電話をした。何時間かして日本で生まれたヤマサキという名の電気技師がやって来た。仕事をしながらの話のなかで、どうして工場が火災になったのかということになった。これに対して電気技師ヤマサキは、これは妨害を目的としたものだと言明した。妨害者は誰なのかという私の問いに対して、ヤマサキは、妨害者のひとりは発電所の所長ヴォスシケンで、ボイラー室を爆破するために人を派遣したが、これには成功しなかった。同様の妨害活動家はまだたくさんいるし、彼等はいろいろなところにいる。織物工場に8人、紡績工場に4人、機械工場に2人、兵器工場に3人いる、またこうした人々はコルホーズにもいる。私がこれらの人々の名前を聞こうとすると、ヤマサキは言えない、もしばらせば、私は殺されてしまうと言った。もし[ ]すれば、私は彼等すべてを裏切ることになると言った。この会話について決して誰にも言わないように、彼は私に頼んだ」 質問「この時誰がいた」 答え「この時いたのは第二幼稚園の教師ヴォルコーワ・クセミヤ・アレクサンドロブナで、彼女も彼の話について証言してくれるはずだ」 質問「他にヤマサキとどんな話をしたか」 答え「ヤマサキは、彼が共産党を除名され、[ ]と言っていた。」 |
ファイルナンバー | 15 | 該当頁 | 33〜36 | 日付 | 1937年 7月28日 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
タイトル | 尋問調書 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
内容 | 職場の同僚ベレーズィン尋問調書 (日本のスパイであるとの証言) |
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1937年7月28日。ナロフォミンスク(P/O)の主任。 ラザレフは証人に尋問した。
質問「電気技師ヤマサキ・キヨシと知り合ったのは何時からか」 答え「電気技師ヤマサキ・キヨシと知り合ったのは、彼が公共住居部に入ってきたときからで、1937年4月からだ」 質問「ヤマサキキヨシについて知っていることを」 答え「ヤマサキキヨシを知っているのは公共住居部で働いていたときで、彼は何度となく私のアパートに泊まっていった。彼との話のなかでこんなことを言っていた。『俺は鎖に繋がれていない人間だ。もし捕まるようなことがあっても、日本大使館を通じていつでも自由になれる。』また仕事のときに彼はいつも『東の国境に行こう、そこははるかに暮らしやすい』とアジを飛ばしていた。私はこれに同意しなかった。加えてヤマサキは私に彼が日本とロシアのふたつのパスポートを持っていること、簡単に好きなときに日本に行けるし、帰ってこれると言っていた。これ以外にもヤマサキから仕事は多いのに、報酬は二束三文で、いつだって飢えた人間が行き交っているという話を聞かされた。それと7月の初めのことだと思うが、彼と一緒に外国へ行こう、日本に行けるし、日本を見ようと言っていた」 |
ファイルナンバー | 16 | 該当頁 | 37〜39 | 日付 | 1937年 7月28日 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
タイトル | 尋問調書 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
内容 | 職場の同僚アベリヤーノフ尋問調書 (日本のスパイであるとの証言) |
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1937年7月28日。ナロフォミンスク(P/O)の主任。 ラザレフは証人に尋問した。
質問「電気技師ヤマサキ・キヨシについて知っていることは」 答え「電気技師ヤマサキ・キヨシと知り合ったのは、1937年4月からで、公共住居部で一緒に仕事をしていた。彼との話のなかで次のようなことを聞かされた。彼はモスクワから、ナロフォミンスクにやってきた。そしてなんどとなく、ソ連で働くことは大変で、仕事は多いのに、食べるものがなく、いつだって飢えた人間が行き交っているといっていた。またこんなことがあったのを思い出した。彼の奥さんがカメスキイ通りに住んでおり、彼が養育費を払うために、告訴されているということだ。その時彼は個人的に私に、まもなく外国に行くことになっており、そこで会えるといっていた。また私が彼のところを訪問し、両親や彼の知り合いについて聞くと、いつも彼は話を逸らした。」 |
ファイルナンバー | 17 | 該当頁 | 40〜42 | 日付 | 1937年 7月28日 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
タイトル | 尋問調書 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
内容 | 職場の同僚ゴドゥノーフ尋問調書 (日本のスパイであるとの証言) |
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1937年7月28日。ナロフォミンスク(P/O)の主任。 ラザレフは証人に尋問した。
質問「どのようにしてヤマサキ・キヨシを知ったのか」 答え「ヤマサキ・キヨシを知ったのはおそらく1933年からだ。彼は、モスクワからやって来て、オブチーニコフの隣に住むようになった。最初は食器のハンダ付けや靴の修理をしていた。ヤマサキとの会話のなかで、私は彼がモスクワに住宅をもっていたが、売ったことを知った。これについて彼は、トランプ博打に熱中し、[ ]して、友人たちから逃れようと決断し、村に来ることになったと言っていた。ヤマサキとの話のなかで、彼の公然とした反革命的活動についても聞くことになった」 質問「具体的にヤマサキの反革命的活動の事実を示せ」 答え「1936年の7月にヤマサキ・キヨシが私の家に来たとき、こんなことを言っていた。『ソ連ではコミュニストたちや要職にある人々だけの生活はいいが、労働者やコルホーズで働く人々の生活は悪く、仕事は多いのに、何も食えない』 1936年8月にはヤマサキは個人的ということでこんなことも言っている。『コルホーズの事務員たちはコルホーズの人々に仕事を多くさせることができないでいる。何ももらえなで、二束三文しかもらっていないのだ』 質問「ほかにヤマサキキヨシについて知っていることは」 答え「ヤマサキのほかの反革命的活動について、私はなにも知らない」 |
ファイルナンバー | 18 | 該当頁 | 43〜45 | 日付 | 1937年 8月 2日 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
タイトル | 尋問調書 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
内容 | 妻方の親戚ガラーモフ尋問調書 (日本のスパイであるとの証言) |
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1937年8月2日。[ ]の主任 は証人に尋問した。
質問「どのようにして日本人ヤマサキ・キヨシを知ったのか」 答え「ヤマサキ・キヨシはわたしにとって親戚だ。私の妻の妹(姉)がヤマサキと結婚したのだ。1937年冬にヤマサキはエルミーリン村にやって来て、ヤマサキはエルミーリンの工場に就職し、私の家にいた。」 質問「ヤマサキキヨシの反革命的活動について知っていることは」 答え「私との話のなかでヤマサキは、ソ連がたいへん暮らしづらく、なんでも高いのに、稼ぎは少ない、日本で暮らした方がいいと言っていた。さらに彼は、日本の国境近くに行きたい、そしてそこから日本に行きたいとも言っていた。彼は選ばれて新天地に行くことを望んでいた。」 質問「他にモスクワの日本大使館についてヤマサキは何か言っていたか」 答え「ヤマサキは絶えずソ連での生活に対して不満を表明していた。今度は私が彼に、お前は日本人と同じように自分の大使館にいけばそこで助けてもらえるのか、あるいはソ連の中央執行委員会にいけば、援助してくれるのかと言った。これに対してヤマサキはモスクワの日本大使館に行くだろうと答えた。彼がほんとうに行ったのかどうかは私は知らない。この話のあとヤマサキとは一度も会ったことがない。」 |
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