月刊デラシネ通信 > ロシア > 粛清されたサーカス芸人 > ヤマサキ・キヨシ追跡 > シマダの悲劇1

【連載】粛清されたサーカス芸人ヤマサキ・キヨシ追跡

シマダの悲劇1−シベリアのエトランゼ

アンドレイ・シマダと究極のバランス
シベリアのエトランゼ−ドクター・シマダ


 ヤマサキと同じヤマダサーカス団に所属していた山根ハルコの手記を紹介したが、もうひとりヤマダサーカス団で一緒に働いていたと思われるシマダパントシと呼ばれた男の悲劇を、また紹介していきたい。
 彼がヤマダサーカスの一員として、ロシアに渡ってきたかどうかについては、定かではないが、彼が革命後もロシアの、シベリア地方を巡回するサーカス団の団長をしていたことはわかっている。そして彼もまたヤマサキと同じように、粛清されたことも・・・。
 現在もロシアサーカスの伝説のひとつとして知られている究極のバランス技を1950年代に演じたのは、シマダの息子たちであった。
 連載の一回目は、まずはこの伝説となった究極のバランス技の話しからはじめたい。

アンドレイ・シマダと究極のバランス

 ソ連時代に出された『サーカス小百科辞典』には、シマダという項目がある。

「アンドレイ・シマダ・パントシビッチ(一九一七年十一月五日〜一九七七年八月八日)バランス。ロシア共和国功労者(一九五八)。七才の時からサーカスで働く。一九二四年から二九年まで、両親と共に『橋の上の悪魔たち』、『人間ボール』などの番組に出演。一九二九年から三四年まで動くハシゴを使った番組に出演。一九三四年から四二年は弟のウラジミール、妹のヴェラと一緒に鉄線渡りの番組、一九四三年からは自らが創作した『究極のバランス』に、ウラジミールとヴェラ、そしてヴェラの夫のイシマル・マスリャコフと一緒に出演。一九四七年からはヴェラの子どもたちイシマル・ジュニアとウラジミールの娘ガリーナも参加する。」

 辞典でもとりあげられている『究極のバランス』はいまだにソビエトサーカス史上伝説の芸として語り伝えられているものである。モスクワにあるふたつのサーカス場のひとつで、人々からニクーリンサーカスとして親しまれているモスクワ・ツヴェトヌィ・オールドサーカス場で、三〇年以上リングマスターをつとめているアカピアンは、シマダ・グループの芸は「天才としかいいようがない」と、いまでも語っているほどである。
 リーダーの長兄アンドレイが額で支えた棒の上を、妹のベラが登り、棒の上で静止するという技からこの芸は始まる。アンドレイは、高さ七メートルのところにピーンと張ってある二本のワイヤーのうえをこのままの状態で歩くというのだから、これだけでも驚異的なのだが、これはまだまだ序の口なのである。ワイヤーの真ん中に置かれた台の上で、アンドレイは、ベラをのせた棒を支えたまま、座ったり、うつ伏せになったり、さらには体を旋回させる。最後はワイヤーを渡ってきた弟のウラジミールがアンドレイの足につかまって、倒立するというものだった。
 写真を見ればわかるように、とても人間技とは思えないような、まさにバランス技の極致とでもいっていい芸である。

シベリアのエトランゼ−ドクター・シマダ

 『サーカス小百科辞典』では彼らシマダグループの創設者である、日本人シマダ・パントシについては何も触れられていない。
 アンドレイ・シマダが一三歳の時、すでに父や母と一緒にサーカスで働いていたときに、このシマダ・パントシとイルクーツクで会っていた日本人がいた。
 一九三○年、ロスアンゼルス、ニューヨーク、ロンドン、パリ、ベルリン、モスクワ、シベリア、満州を経て日本へたどりつこうという三大大陸横断飛行の冒険に挑んだパイロット東善作である。
 彼はこの冒険飛行の途中、イルクーツクでシマダと会っていたことが分かったのは、東善作の伝記、鈴木明著『ある日本男児とアメリカ』を読んだときだった。そして無事日本に帰国した東が、朝日新聞にこのシマダとの出会いの模様を書いていたことを、阿久根氏に教えてもらった。この記事は、昭和五年(一九三〇)九月十九日付け東京朝日新聞に「東飛行士空の漫歩記十五−シベリアを漂う日本人曲芸団−何とドクター・シマダ一座」と題されて掲載されている。そのまま引用してみよう。

「バイカル湖から五十マイル手前のイルクーツクに着いた。この飛行場は町から遠いので不便だが、市民の熱心な希望で近く大拡張する事になっている。
 僕はオイルの事で言葉が通ぜず非常に困っていると『ここにはドクター・シマダという日本紳士がいる。訪ねてゆけば君も愉快だし向こうも喜び、わからぬ語もケリがつくだろう』という事で、僕は地獄に仏と早速自動車をとばした。行ってみるとなんと! 野天に大きなテントを張りめぐらし、数千の群衆がワイワイ取り巻いて、ドンチャンバッカバッカの騒ぎだ。『これがドクター・シマダの家だ」というからタヂタヂとなった。ドクトルというからにはさぞツルゲーネフのような上品な白ぜんの老医師だろうと、その風ぼうを描いていたのだが、それは早合点で、意外にも彼はサーカス一座の団長だった。
 彼は故国の大飛行家(?)が車をまげての御入来とあって心から懐かしみを以て迎えてくれた。彼はほとんど日本語を忘却していたが、それでもお互いに分かりいい英語を使おうとせず忘れ果てた『母国の舌』をおぼつかなげに操りつつ、一語一語を懐古的に玩味するかのように語った。彼は革命前から既に二十数年の間ロシアを放浪してサーカスの興行を続けている。
 ロシアでは革命後民衆の娯楽桟敷は滅びてしまったが、彼のサーカスだけはプロレタリアの人気にピッタリと合うというので、存続を許されるどころか、今ではソビエト政府の援助を受けてまるで半国営的にやり、もうけの割前をもらって、シベリアの村から町へと流れ歩き、ワーニヤやイワンやナターシャの腹の皮をよじらせている。そして彼の芸風から、シベリアのプロレタリアは「ドクトル」の称号を呈しているのだ。
 彼は明朝は一座を率いてお見送りしようと申し出たが、未明だからと辞退し、僕はシベリアのジプシーと別れを告げた。彼は『日本人によろしく・・・』とばく然たる言伝てを僕に託した・・・。だれにと名を指す人もなかったのだろう。」

 エトランゼとしてソ連に残ることを選んだシマダにとって、日本人との出会いは、自分たちが捨て去った祖国と切なく向き合うことであった。母国の言葉も忘れ、『日本の人たちによろしく』と言ったときに、その胸に去来したものは何だったのか。

 シマダのその後の運命は、知ることができる。
 彼もまたヤマサキと同じように粛清されていたのだ。

 月刊誌『ソビエト・エストラーダとサーカス』一九九○年十二月号に掲載された「シマダ」と題された論文によると、「シマダ・グループの父パントシ・シマダは一九三七年に弾圧を受けた。刑務所からは戻らなかった、彼のその後の運命については家族のだれもが知らない」とある。
 粛清されたという事実しかここではわからない。しかもパントシ・シマダのふたりの息子は、すでにこの世にはいないことも、この論文で明らかになった。


連載目次へ デラシネ通信 Top 前へ | 次へ