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【連載】粛清されたサーカス芸人ヤマサキ・キヨシ追跡

帰ってきた女芸人3−山根はる子「私のロシア放浪記」

孤独なロシア放浪
モスクワのカッポレ踊り

孤独なロシア放浪

「身も心も絶え入るやうな毎日に、何で仕事など手がつきましょう。サーカスの主人の情けで、幾らか手に入れたお金も間もなく無くなって、路頭に迷えば、しがない女の身です。しかもこれまで十年もロシアで生活をして来たと言い、身元を洗へば異郷人の私です。
 十一の年からの放浪とは言い、同邦人の多くと賑やかなサーカスに生活していた頃は未だ憂いの少ない生活でした。人の子の悩みから結婚生活に入ったときはほんとうに人生は花でした。それなのに、夫は死別、同輩はちりぢり。希望をかけた愛児は空しく。異邦の孤独感が、私を駆って今から思うとお恥ずかしいような流転の生活がはじまりました。」

 彼女は日本人であることを捨て去ることが出来なかった。それがヤマサキがたどる運命との別れ道となったといえるかもしれない。

「異邦人である私の唯一つの身元証明である旅券の期限が切れようとしていました。私はアストラハンの役場にその旅行券を持参して期限の書き換えをして貰わなければなりません。恐る恐る役場に出て、事情を話して書き換えを要求しますと、思いもよらぬ面倒な手続きです。
「写真を二枚持って来たまえ。別嬪さん。これが私ですとちゃんと判るような写真をね。え、わかったね。』
 そして私は、写真をこしらえて再び役場の扉を押しました。「ねえ別嬪君。写真は確かだが、君の様子から見て忠告するが、そんな様子じゃあ、いっそロシア人に帰化して、本音のロシア人になった方が為じゃあないのかね」
「嫌です。何を言うのです」
 私は自分でも吃驚するほど腹が立って来て怒鳴り返しました。
 「まあ、それならいいがね。よく家へ帰って考へ直すとして明日またおいで。」
 私は泣きました。そんなことがあるものか。と思う反面にあまりにも転変の多い身の上です。あれこれと、追憶やら焦慮やら不安やら、色々な感情が頭と言えず胸といわず、ごった返して、涙が止めどもありません。泣き泣き街に出た時でした。涙にぼんやり霞んで見える街角に、誰やらが凝と私を見ているではありませんか。私はなほよく見ようと涙を拭いました。再び目を開いてその方を見ると、軍人の服装をこらしていますが、粉れもない朝鮮人の青年です。私の瞳はその青年兵土の瞳とカチ合ひました。そして私の身の中に何かしら懐かしい思いが、熱く湧いて、私の目にはもう一度涙がドッとあふれ出たのです。」

 この朝鮮人との出会いが山根の運命を変えたといってもいいかもしれない。

「朝鮮人の青年兵士は、つかつかと私の傍へ寄つて来ました。そして優しく、
『泣いてますね。』と言いました。
そう言われると、なお涙がほろほろと。
「どうして泣くんですか?」とまた…
私は瞬間、そのとき決心して、ロシヤ人に帰化しロシア人となってしまおうかと思いました。この朝鮮の青年だとてこうして兵士となっているからにはロシアに帰化し、異郷の孤独感を洗い流して、幸福そうに若やいだ頬に笑を浮ぺていられるのですもの。
「どうしたのです。何故泣くんです。」
「旅行券を呉れないんです。」かう言つて私は手短に事の顛末を語りました。話している間に、私は口惜しい役所の小役人の揶揄を苦しい心で思い出し、帰化なんぞするものかと強い心になりました。しかし、私の瞳がその青年兵士の瞳にぶつかると再び不思議に帰化してしまおうかしらんといふ弱気がふつと胸をかすめるのです。
 私は全然ちがった二つの心に迷いました。
「そんなら、日本大使館へおいでなさい」
その言葉が私の暖昧な心を決めて呉れました。大使館へ、そうだ日本の大使館へ行こう−私の決心がつきました。もしこの時、青年兵士が、『帰化なさい』と言ったら、いやただ一言「一緒にいらっしゃい」と言ったら、それだけで私の半生は違ったものになったでしょう。
それから八方苦面の末一ケ月有効の旅行券証明をどうやら手に入れることが出来ました。がそれは一ケ月過ぎの届けを怠ると罰金をとられるといふ厳重なものでした。」

日本大使館に行けば何とかなるそんな希望が芽生えたとき、山根はる子を支えていた母が、逃亡するという事件が起きる。
「私の生活がまた始まりました。しかし今度は、何とかして自分を浮び上らせたい、少くも何か頼るべきものを自ら見出さねばならないと、外に求める弱い心ではありましたが、それでも、自分からそれを求めようとする、一面には強い決心のある生活でした。
 私たちの生活はそれまでには前に比べると随分変わっていました。惨めな生活の惰性は払いのけるのに難しいことでした。
 これまでは母と二人切りだった部屋に、朝鮮生まれの老人が同居するやうになりました。その老人は生活の為の稼業を持って来ました。それは、いろいろな煙草を調合し、くるくると紙巻きにする仕事でした。当時はそれが禁令となつていましたが、それだけに法度を破っての仕事のこととて、どうやら露命を繋ぐ位の稼ぎはあったのです。
 毎日毎日、来る日も来る日も、くるくるくると煙草を紙に巻くのが仕事です。ほれ千本巻いた、幾らだ、ほれ二千本も巻いた、幾らだと、そんな細々とした手内職が私たちの命の綱でした。
 だが、それも長くは続きませんでした。運命はますます悪戯がちに挑んで来ます。といふのは、私にとつて、それは養母のこととは言いながち、残されたさたゞ一人の身内である母の失踪でした。
 母と朝鮮の老人との関係は前から薄々気がついてはいました。が、それがどうだとも私の口では言いはしませんし。
 或る日のことでした。私は期限の切れた居住の証明書のことで、罰金を取られる虞れもあり、何や彼と気まずい、言い難いことを母に相談しかけたのです。それがいけなかったか−そうとは思い度くありませんが−その日から、母親とその朝鮮人の老人とは、出掛けた切り、待てど暮らせど帰っては来ないのです。
 二人はもう帰っては来ないと思い切って断念するのはつらいことでした。でも、そうするより方法がありません。革命以来の生活の苦しさは益々ひどくなつて来ました。私は何ともいえず、誰にともなく腹立たしい気持になってしまいました。それは自棄自暴な、危険な時でした。その時でした。あの街頭で会つた朝鮮人兵士の声が光のように私の胸に甦って来ました。
『日本大使館へ!』
そうだ。日本大使館へ!モスクワへ! 私ほどんな苦悩困難をしのんでもモスクワヘたどりつこうと決心したのでした。もしも、その瞬間がなかつたら私の後半生はとんでもない変わった方にそれてしまっていたでしょう。日本の土などはとても踏めなかったかも知れません。」

 革命の混乱のなか、山根は立て続けに親しい人々を失う。夫、そして産声さへあげることのできなかった子ども、さらには寄り添うように生きてきた養母、わづか数年の間に、異国で全くのひとりぽっちになってしまった。孤独な山根が頼りにしたのは、日本大使館だけであった。やっとの思いで山根はモスクワの日本大使館にたどり着く。

モスクワのカッポレ踊り

「時は日ソの国交が回復して間もない頃で、開設以来日も浅いながら、まぎれもない日本大使館を、またそこにハタハタ翻る日の丸の国旗を、夢ではなく現実に見出した時の私の胸のときめきを想像していただきとうございます。私の生長して来た曲馬団の生活では、国旗は飾りにも、用度にもなり、目慣れたものの数の中です。はりめぐらされた万国旗の中に見るなつかしい日章旗、それはいつも、何かしら他の国の旗の与える気分とは違った感じを、当に見ている自分の胸にも喚び起しはしましたが、これほどの感激を以ってその旗が仰がれたことは、未だかつてなかったことでした。
 長い間のロシアでの生活で、日本風な生活習性を失ってしまった私にも、日本という忘れることの出来ない祖国への力強い愛が蘇って来ました。それは盲が再び闇の眼底に光を感じたようなものでした。」

 しかし夢にまで見た日本大使館で、山根は一体どこの馬の骨だかわからぬ人間として扱われる。

「髪はと言えば赤ばんだ縮れ毛の断髪。語る言葉はロシア語ばかり。何処を押したら日本らしい音を出すか、色を出すか、えたいの知れない私風情の者に突然訪ねられた大使館の館員の方々は、よほど吃驚されたことでしたろう。物珍らしそうな、穿鑒するような、怪しむような目でじろじろと私を睨めまわすのです。私は自分で興奮しているとは知ってましたが、それでも、その目が私に悲しい思いをさせ、冷たい印象となって残っていることを憶えています。
『私は日本人です。私は日本語を話せません。けれども私は日本人なのです。・・・お願いです。・・・私は・・・』
 追い返されまいとしてますますあせり気味にもつれる言葉の息を切りながら、私は一生懸命で言いつづけました。私の名前、生国のこと、父のこと、母のこと、曲馬団のこと、それからそれへと、私が日本人であることが分ってもらおうと、口の酢くなるほど、くどくどと述べ立てました。
 皮膚の色、瞳の色、容姿風貌がどうしても東洋人であることがわかっても、果たしてそれだけで、日本人かどうか、証明するぺき何物も持たない私を、一応疑うのは尤もすぎる位尤ものことでせうが、そう疑われる私自身にしてみれば、悲しいとも心苦しいとも、ほんとうにやるせない瞬間ばかりの・・・。」

 山根が日本大使館を訪ねたのは、何年頃のことだったのだろう。日本とソ連が正式に国交を開くのは、一九二五年一月のことである。国交が開かれると同時に、東京とモスクワにそれぞれ両国の大使館が開設されている。おそらく山根がモスクワの日本大使館を訪れたのは、大使館が開設された直後であったと思われる。ヤマサキは調書のなかで、一九二四年に大使館を訪ねたとあるが、これは記憶ちがいであろう。
 日ソ国交復交の初代大使は、田中都吉。山根は田中大使と面会するばかりか、カッポレを披露することになる。

「『君かね。日本人だというのは?』
田中大使は私に訊ねるのでした。そして私の言い分は、同じように過去十五年の繰り言の数々。
『で、何か君が日本人であるという確かな証拠は?』
そこで私は思い出したのです。私のパスポート。それは明治四十二年、日本を出るときからの、唯一つの生国証明書でした。私はパスポートをやっとさぐり出して提出しました。私の大事なパスポートはやがて、大使館員の手に渡って、取調べの為でしょう、持ち去られました。
「で、君は君が日本人であるということを示すためのものを、何か他には持合せないのかね?』
私、ロシア語しか話すことの出来ない私に、何が出来るといふのでしょう。パスポ−トまで疑われたのでは、もう私はお終いです。
『そうだなあ。君は曲馬団に居て、ずっと前、つまり日本に居た頃からだそうだが・・・。では日本の踊りの一つぐらいは何か知っているだろう。・・・例えば、ええと、「かっぽれ」なんかは・・・?』
私はそれを思い出しました。父や母がよく鼻ごえまじりにしたかっぽれ。ロシアに渡ってからも時折は、踊りとして正式なものではなかったかも知れませんが、日本で大衆的だというかっぽれが踊りなら、私も真似ごとに踊りもさせられていたのです。
 あのサーカスの舞台で、ロシア人の間に物珍らしさから大喝采を博した日本の踊り『かっぽれ』が、こんな所で私の身の証しになろうとは、運命は何という皮肉なものでしょう。
 晴れたモスクワの空の下、日本大使館の庭園に、珍らしくも響くジャズの音『かっぽれ』。笑う館員環視の中に、踊る私は必死でした。
へかつぽれかつぽれ、…ヨイトナ、
あゝヨイヨイ、
うららかな光の下に何と面白おかしい風情でしたろう。」

 必死でカッポレを踊る山根の姿が目に浮かんでくる。
 この必死さが実を結び、山根はモスクワの日本大使館で女中奉公をすることになる。十数年にわたる、放浪生活に終止符を打った山根は、ここで七年間平穏な生活をおくることになる。


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