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【連載】粛清されたサーカス芸人ヤマサキ・キヨシ追跡

帰ってきた女芸人2−山根はる子「私のロシア放浪記」

革命の混乱のなかで

革命の混乱のなかで

 結婚し、生活も落ちつき始めたかに見えた時に、世界を震撼させたロシア革命が起こる。それが、彼女の運命を大きく変えることになった。

「一九一七年−革命の年は私には忘れ難い年でした。それは、この革命騒ざの大きかったということとは別に、その私の夫が、不慮の死によって他界した年であったからです。
 忘れもしないその年の暮れも近いころでした。サーカスの一行は当時小屋がけしていたバクーからチフリスの方へ巡業に出かけることに決定しました。しかし、私は愛の結晶を宿していて、旅先の興行などには加われないほどの身重になっていました。先ず主人のユダヤ人一行がチフリスに先発して行きました。そして間もなく残りの人々が、その後を追ってチフリスに立ちました。それがあの大革命の二日前のことだったのです。
 私は妊娠中のことでありますので、母と二人で、石油景気のパクーの町に心細いながら残ることになったのでした。
 それから二日後、旧暦の十月二十五日に天下の転倒したあの大革命が起こったのです。バクーの町も何とはなしに不安な気ぜわしい空気ではありました。しかし、私達の周囲は普段とちっとも変わりなく静かでした。
 革命の日には、私の周囲は静かに明け暮れました。それから数日後革命の騒ぎもあれこれと聞きましたが、周囲は同じように静かでした。けれども、間もなく、その革命よりももっと大きな大きな運命が私の身に降りかかって来ることになったのです。私の夫、お腹の子の父が死んでしまったのです。
 暗い恐しい夜が近づいて、バクーの町は暮れかけました。私は母と二人で、こもりきりの部屋に、つくねんと坐ったまま、チフリスに居る夫のことや、生れるであらう子供のことをぼんやりと考へていました。いつも大勢で生活していたサーカスの中にいる時には、感じたこともなかった、静か過ぎて恐ろしいような、取り残された、不安な感じがして、何といふこともなしに大声を上げて怒鳴って見たくなりました。母はと見ると、何か一人で、これもなやみを抱いてもてあましている風でした。
 とその時「コツコツ」と物音がします。私は音のする扉の方に目をそそいでから、視線を母の方にかえしました。母はギックリ立ち止まると不安な瞳で扉の方を見つめているのが、薄暗い部屋の中で見られました。誰だろう。何者だろう。空耳かしら。それとも、もしや夫ではなからうか。それとも主人がお金を持つて来てくれたのではなからうか。
「コツコツ」と今度ははっきりとノックの音だということがわかりました。
「はい。お入り下さい。」と言う言葉が反射的に咽喉の底から嗄れて出ました。それが聞こえなかったのか、扉は三度「コツコツ」と鳴ってのち、外側から、そっと聞きました。二つの目が部屋の中を鋭く覗き込むのが見えました。それから、パッと部屋の中煮飛び込んで来た人を見ると、それはサーカスで私達が「兵隊さん」とアダ名で呼んでいる軍人上りの曲芸師です。
「まあ、兵隊さん。どうして此処へ?」
 兵隊さんは元気よく部屋へ入って来たくせに、一言も喋らずに目を伏せるのです。何かあったな? と私は直感しました。しかしやがて兵隊さんが静かに「野口さんが、死にました」と口を開けた時、私は何処かとても高い処から突き落とされたように力が抜けてしまうのを覚えました。」

 野口はブランコが得意だった。ブランコの横捧の上に、両手をはなし頭だけで逆立ちする大一丁と呼ばれる芸で人気を得ていた野口は、ブランコの上の逆立ちをやっている最中に、そのままもんどり打って墜落し、頭から落ちてしまいそのまま死んでしまったのだ。
 革命の勃発、身重の身、その時支えの夫を亡くした山根の動揺はいかばかりであったか。

「私はそれを聞いているとき、かつて綱の上の曲芸中でさえ覚えたことのないほど、総身の血液をどこかへ持ち去られたように、ゾットしました。母はおろおろと上気しています「何ともお気の毒なことだ。」と幾度も繰り返しながら帰って行く兵隊さんを送り出すと、居ても立っても居られない気になりました。
「私はチフリスに行きます」
「チフリスへ行つてどうせうというのだ。どうぜ死んだ野口さんが甦って来るわけのものぢやなし、それより身重なお前に過ちがあっては大へんだ。チフリス行きはまあ、我慢せにやならん。それにこんな騒々しい世の中だ。お前に行かれてしまっては私も困ってしまうではないか。」
 母にそう言はれて見れば、それを振り切ってまでは行く気にもなれず、何にしても思ったほどに身躰が利かず、その上興奮が沈まると一緒にドッと出てきた疲れに、私はただ泣くより仕方がありませんでした。私の心は、夢にも思わなかった野ロの死によつて、破れ破れになってしまいました。
 その後、チフリスから、野口の葬式がとどこうりなく終わったこと、遺骸はチフリスの墓地に納めたことなどを知らしてよこしましたが、私はついぞ、チフリスに行くことも出来ないまま、一輪の花を捧げもし得ずに、むなしくバクーに合掌し、物狂ほしい思いを持てあまして居るのみでした。」

 夫の死で打ちひしがれる山根は、野口が残した子どもを宿していた。革命の混乱、誰もが明日を知ることが出来ないこの時代、彼女は生きる道を探していかなければならなかった。

「やがて、曲馬団からプツツリと音信もなくなりました。とうとう私達の頭上にも苦しい生活となって蔽ひかかって来たのです。これまで数年もの間生活を共にして来た曲馬団の同邦人は散り散りになって、その行方も知れません。毎日のパンをどうしようか。それは大きな問題でした。何時の間にか私達の生活も変わってきました。」

 革命の混乱は、かつて一緒に仕事をしてきた日本の仲間たちとの別れを余儀なくした。山根に別れを惜しむ時間はなかった。

 「工合よく、前のロシア人の曲馬団の団長が私達のところへやって来ました。私達は当分その団長に面倒を見て貰う事になりました。何しろ身重であり、心の痛手も消えやらぬ為、思うような働きも出来ませんので、曲馬団の中では雑用の働きをしながら不安な毎日を送って、曲馬団の巡業につれ再び流浪の旅に上りました。
 やがて、一行はヴォルガ河口の町アストラハンに着きました。充分気をつけながら仕事をして来た積もりであったのですが、何にせよ雑役仕事で無理が続いたせいか、身体の調子が思わしくなく、これはと思うその中に、堪えも耐えらへも出来なくなり、ドット病床に就いたのですが、其のまま胎児は人とならず、あえなく流産となり終わりました。
 この子は私のたった一つの希望でした。死んだ野口の霊に誓って、無事に出産さえ済ましたら、どうでも立派に育て上げなければならないといふ固い決心も仇に、望みの綱がプッツリと敢果なくも切れて、忘れ形見は日の目も見ずに母親であるこの私に絶望を残したまま、暗から暗に消えていってしまったのです。」

 山根の苦行の旅はここから始まる。


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