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【連載】粛清されたサーカス芸人ヤマサキ・キヨシ追跡

帰ってきた女芸人1−山根はる子「私のロシア放浪記」

革命前のヤマダサーカス


 ロシア語専門書店に勤める宮本立江さんから「何かの雑誌でロシアで苦労した元サーカス芸人の女性が、回想録を書いていたのを見た記憶があるんだけど」と言われて、ずっと気になっていたのだが、宮本さんからこ雑誌が『月刊ロシア』であったという連絡を受けて、早速図書館で『月刊ロシア』のバックナンバーを調べることにした。
 『月刊ロシア』は日蘇通信社が昭和十年(一九三五)七月から昭和十九年九月まで出していたロシア関係専門の月刊誌であった。日本では軍事体制が確立され、ソ連ではスターリンが独裁を固めていたこの時代に発行されていたこの雑誌は、ソ連の国情をレポートするのを目的としていたようだが、歴史や文化に関する記事も毎回紹介されている、総合的なロシア・ソ連情報誌となっている。
 そして昭和十三年の一月号と二月号に、宮本さんが言っていたように、山根はる子というサーカス団の一員として革命前ロシアに渡った芸人の回想録「私のロシア放浪記」が掲載されていた。読み始めてすぐ、彼女がヤマダサーカスの一員であったことがわかりすっかり興奮することになった。
 昭和十三年一月号には、彼女の簡単なプロフィールが出ている。

「明治の時代にロシアへ海外巡業に渡った曲馬団の一員として十一才の時からロシアにあり、三十年目の昨年十一月、ひょっこり日本に帰って来たのが、本編の山根はる子さんだ。
 もの心がついてからずっとロシアで生活して来たはる子さんは、生活の万端がロシア流儀、日本に来朝してはじめて日本を知るという、今様浦島めいた物語りのヒロインだ。
 原籍は岡山県だというが、既にロシアへ入る前から養女となっている。ロシアでは放浪十五年、それから日本大使館に助けられ、残りの十五年を過ごしたという。最近浦潮でソ連官憲の白眼視に会い、居住許可書が下付されず、人の情けで、三十年目に祖国の土を踏んだ」

このようにプロフィールが紹介されているほか、彼女の写真も掲載されている。
 ヤマサキタカシマイシヤマといった芸人たちと一緒にロシアを旅した山根の回想録は、革命という未曾有の歴史の転換に立ち会ったひとりの日本人のドラマチックな運命を余すことなく伝える貴重な証言であることはもとより、唯一日本に残されたヤマダサーカスの記録でもある。しかも彼女が日本に帰還したのは、一九三七年十一月ヤマサキが銃殺された一カ月前のことである、かつて一緒に異国を旅した仲間同士だったヤマサキと山根。第一次世界大戦が勃発した頃、離ればなれになりながら、革命後もロシアに居残ったふたりの運命は最後の局面で大きく分かれる。ひとりはスパイとして逮捕され、もうひとりは日本への帰国を実現している。まさに天国と地獄の差である。
 とにかく我々にとって貴重な証言となる、山根の回想録をここで見ていくことにしよう。(引用にあたっては、旧仮名・漢字を読みやすいように、現代表記に替えてある)

 「十一歳の時から四十一歳の今日まで、ざっと三十年間もロシアに居ったのだから、さぞかし面白い話を知っているだらう、と訊ねられるのですが、実のところ、何をお話してよいものやらわかりません。それに三十年といえば随分長い間ですが、その間をロシアで育って大きくなって来た私には、かへって皆様のおたずねになりたいことがわからないので、困ってしまいます。
 自分の経歴を自分で話すのはおかしいし、嫌ですが、そうでもするより仕様がありませんから、朧ろげながら記憶をたどってお恥しい身の上話しのようなものを致しましょう。」

 山根の回想録はこのように始まる。そして早速ヤマダサーカスについて語る。

革命前のヤマダサーカス

「私が入っていた曲馬団がロシアへ渡ったのは一九○八年−どうも年号までが西暦で言う方が私には判りいいものですから−明治四十二年でしょうか。十一歳でよく憶えていませんが、浦潮に先づ渡ったのが第一です。勿論当時は帝政時代曲馬団の海外巡業とはいい、それでもロシアに渡るには正式旅券を受けて入りました。
 曲馬団というのは、山田曲馬団、内地からずっと打っていました。団員は二十五、六人で、その中に女は私と私の母も加えて四人切りでした。ロシアに着いた、浦潮に興行したからとて、別段に変わるほどのこともない私達の生活ながら、周囲は失張り変わったことだらけだと思ううち、曲馬団は愈々もっと奥地へ巡業することとなりました。こうして、私の放浪の旅が始まったのです。
 此の曲馬団というより曲芸団サーカスは夏になると青天井に大天幕をはり、冬になると劇場がかりをしながら、あっちに一ケ月、こっちに三ケ月と、ロシアを巡回しました。浦潮の振り出しから、ハバロフスク、イルクーツクなどシベリアを殆んど廻って、次には南露を経、北の方ではアルハンゲリスクの方まで歩いて来たのを憶えています。モスクワでもやりました。ウラルでも躍りました。オムスクでも唄ひました。あのロシア革命の一九一七年まで、約九年の間、本当に旅から旅を流れ歩いたのです」

 ヤマサキは取り調べの中で自らの出国を一九〇五年と答えていたが、山根は一九〇八年としている。ただし明治四十二年は、西暦では一九〇九年が正しい。ただここで重要なことは、出国にあたって団員たちが正式な旅券を交付してもらっていることが、ここで明らかになったことである。外交史料館に残っている旅券原簿の中に彼らの名前を発見できる可能性が出てきた。さらにヤマダサーカスが国内で公演していたこと、そしてウラジオストックが最初の公演地になっていたことも彼らの足跡をたどるうえでの手がかりになるかもしれない。
 団員の数が二四、五人であったこと、アルハンゲリスクやモスクワで公演したことなどロシアに残っている資料と重なりあう部分も多い。アリペロフの回想では、最初ヤマダサーカスのプロモートをしていたのは、モロゼンコであったが、彼のことは山根は何も触れていない。ただ彼の手を離れ、独自で興行していたようだ。

「しかし、その間中、この山田曲馬団がずっと興行していることは出来ませんでした。ロシアで興行をつづけるには、どうしてもロシア人と組にならなければやれないのです。
 音楽隊なども全部ロシア人を雇い入れました。ワルツ、行進曲のラッパや太鼓の音は、今でもなつかしい少女の頃の思い出を誘います。あの音楽がはじまると、私は綱渡りの用意をしたものです。今では勿論とても出来もしませんが、綱渡りなどはなかなか得意なものの一つでした。」

 山根は綱渡りをしていたようだが、バラノフスキイが感嘆していた「四つ綱」の演技者のひとりであったわけだ。山根は、ヤマダサーカス団の演目について次のように書いている。

「一行の演技というのは色々ありましたが、仰臥していて脚を天井に向け、足先で種々なものを調子よく踊らすのや、玉のり、皿廻し、プランコ曲芸などが受けました。
 立っている男の肩の上に長い竿を立て、男が両手を離して平衡をとると、その竿の上に上って、色々曲技をすることもありました。
 また洋剣の鋭いのを幾條もならぺ、その刃の上を歩いたこともありました。
 大がかりな手品めいた、本当に危い曲芸もしました。私が丁度身体が一杯に入るほどの箱の中に入ります。蓋がされる、すると、箱の外から、鋭い剣で箱をブスリブスリと突き通すのです。箱の中で私は、身の自由がきかないまま、その剣先を避けねばなりません。首をあっちへ廻し、こっちにちぢめるのもカン一つです。箱の外が見えないのですから。一度はとうとう首を傷つけたこともありました。」

 アリペロフやバラノフスキイが褒め称えた空中ブランコや足芸、綱渡りのほかに、玉乗りや皿回し、さらにはさしものとして知られる日本の伝統芸肩芸なども演じられていたことがわかる。ロシア中を震撼させたハラキリについては、山根はここで何も書いていないが、刃渡りや剣刺しなどの危ない芸を披露していたこともわかる。こうした命がけのケレン味のある芸と、水準の高い芸がうまく構成されていたところに、ヤマダサーカスの成功の秘密があったのかもしれない。サーカスには多くの観客が詰めかけたようだ。

「サーカスは大抵大入りに当りました。主人は随分儲けたに違いありませんが、そんなことは私達の知らぬことです。何しろ雇い入れたロシア人を合わせると五十人からの大人数でした。町に着くと、ホテル住まいなど出来っこはありません。一軒家を借り受けて、大人数の共同生活です。小屋では全部を三部にわけ、私達の持ち場の他に、ロシア人はロシア人で舞台で馬を乗りまわしなどをして、喝采を受けていました。」

 ヤマダサーカスは、前にも書いたようにニキーチンサーカスに雇われることになる。手打ち公演といわれる自主公演は、ヤマダにとって物いりも多く大変だったのかも知れない。

「そうするうちに、いろいろな関係で、私たちの曲馬団は一応たたんで、ロシア人のサーカスに雇われることになりました。
 そのサーカス団というのはニキーチン曲馬団と言い、モスクワをはじめ、オデッサ、キエフ、チフリスなどにそれぞれ曲馬団を持っているという、ロシアでは大きな勢力のあるサーカスでした。
 その後、再び雇い主が変わりましたが、その二番目の主人といふのはユダヤ人でありました。このサーカス団に居った二三年位でしたでしょう。そしてこれが私の曲馬団生活の最後となったのです。
 劇場から天幕へ、天幕から劇場へ、同じような毎日が過ぎました。行く先々は親方まかせ、オデッサ、ハリコフ、パクーからキエフ、フキオドシヤなどの南露の巡業は、それでも、気候もよし面白い旅でした。」

 山根はここでニキーチンサーカスと契約した年がいつであったか書いていないが、一九一〇年前後のことではないだろうか。そしてここで約三年働いたあと一九一三年サマラでヤマダサーカスは分裂したのだろう。そしてこの時今まで五年間一緒に旅を共にしたヤマサキとも別れた。この時ヤマサキは十三才、山根は十六才であった。わずか三才の違い、ふたりとも養子でサーカスに預けられた身の上、似たもの同士で接することも多かったのではないだろうか。残念ながらこの手記には、ヤマサキのことも、タカシマのことも、イシヤマのことも何も書かれていない。ここに登場する唯一の同僚の名は、野口なる芸人である。彼は、山根と結婚した男だった。

「私の夫というのは、一緒にサーカスにつとめていた野口孫次郎という曲芸師です。美しいロマンスなんか別にあったわけではないのと同様に、私が愛を捧げたこの夫も、とりわけ美男というわけでもありません。ともすれば、舞台が舞台だけに物語りめいた語り種にはうってつけですが、そう想像して下さる方には、期待はずれでお気の毒ですから、ただ、野口は愛想のいい男の子であった、とだけ白状して、勘弁さして頂きます。」

 しかしこのはにかむような幸せな生活も一時のことだった。
 やがて山根は、流転の放浪生活をしいられることになる。


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『ヤマダサーカスと三人の日本人』


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