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文化二年長崎日露会談の裏舞台を見る
−通詞たちから見た日露交渉−

第三回 第三回日露会談

献上品をめぐっての攻防
第三回日露会談

献上品をめぐっての攻防

 文化二年三月八日朝、石橋、中山、名村の大通詞三名と、通詞目付三島が、昨日奉行たちが提示した妥協案をもち、梅ケ崎に向かい、レザーノフと会談する。
 解決しなければならない問題は、ロシア側の献上品を日本側が受け取るか、そして日本が提供しようとする食料を、ロシアが受け取るかどうかに絞られていた。
 通詞たちの使命は、是が非でも米や塩、その他航海に必要なものを、レザーノフに受領させることだ。交渉というよりは、説得といっていいかもしれない。
 レザーノフも昨日の強固な姿勢から、いくぶん妥協的な態度で交渉に臨んできた。幕府が、献上品を受けとれないということだが、せっかく遠路はるばる持参したものだし、日本の人々には世話になったので、そのお礼ということで、一部でも受け取ってもらうのであれば、日本側が申し出ている食料品などをありがたくいただきましょうと提案してきた。
 石橋たちは、一人分ぐらいのものだったら、受け取るつもりだが、どんな品物を贈るつもりなのか、聞かしてもらいたいと答える。
 レザーノフは、ここで「鏡、硝子灯籠、金モール、硝子火打ち、ラシャ羽織地、焼物茶器、石細工」を進呈したいと具体的に品目をあげた。通詞たちはこの品物がみな小物ではなく、立派で大きな品なのに慌てふためく。これでは少しの物だったら受け取ろうと妥協案をしめている奉行たちを説得できない、もう少し小さな他のものというわけにはいかないのか、と再検討を迫った。
 レザーノフは、格別に品物を減らして提案しているのに、これ以上減らせというのは、「国王の恥辱に相成り候」と、一歩も引く気配はなかった。
 これではまた破談になってしまう、三人の大通詞たちは必死に説得にあたる。

 「贈り物をしたいという切実な気持ちはよくわかっているが、日本の法律では通商していない国から何かをもらうことは禁じられているのだ。あなたが、ロシアから持ってきた献上品を受けとらなければ、日本側が提供しようというものを貰わない、というからわずかなものに限って受け取ろうといっているのだ。これ以上無理を言われると、私たちの通訳が不行届だと受け取られ、我々に落ち度があったと見なされ、自分たちの立場が危うくなってしまうのだ、なんとかならないだろうか」(「通詞日記」から大意)

 通詞たちにこれ以上迷惑はかけられまい、レザーノフは、ならば品物の数を減らして、さらにオランダ商館ドゥーフにも世話になったお礼として、いかばかりかの品物を進呈したいと妥協案を出す。通詞に「鏡、硝子灯籠、金モール、硝子火打ち、ラシャ、焼物茶器、石細工」、ドゥーフに「鏡、灯籠、石細工物、ボタン」に贈ろうというものであった。
 通詞たちは、これでも過分な贈り物であり、奉行に伺いをたてなければならないと、一旦この提案を預かることにした。
 通詞たちも、さすがにこれ以上は、レザーノフも引き下がらないと思ったのかもしれない。
 献上品をめぐるやりとりはこれで終わったが、今度はレザーノフ側から、3つの新たな要求が出された。
 ひとつは、カムチャッカに戻るとき、日本海を通ることになるので、もし嵐などに遭遇して、日本の沿海に漂着したとき、保護を保証する「御書付」を発行してもらうこと、ふたつめは昨日受け取った「御諭書」を国王に見せるために、オランダ語に訳してもらいたいこと、三つめは、帰国して国王へのお土産にしたいので「蒔絵小道具と端物類」を購入したいということであった。
 いずれも奉行所に戻って判断を仰ぐことにした。
 「通詞日記」には書いていないが、こうしたやりとりの中で通詞たちが今回の日本側の回答については、自分たちはまったく知らなかったことであり、たいへん厳しい拒絶を遺憾に思っているというと語ったことに対して、レザーノフは「そんなことはありえない」と不信感をあらわにしている。
 実際、通詞たちが幕府の最終決定について知ったのは、会談の前日であったことは、前に見たとおりである。

 四人の通詞たちは、梅ケ崎のロシア屋敷をあとにして、奉行所へ向かい、いつものようにまずは池田に交渉の結果を報告する。

 「私たちは、あくまでもわずかな物だと言ったのだが、このように「大造」の品になってしまった。しかし受け取らないと、また破談になるため、やむを得ず受け入れた。レザーノフの申し出ている品々を受け取り、また蒔絵細工品なども、これらへの御礼ということでお渡し、早々に出帆してもらうことが賢明であると思う」(「通詞日記」から大意)

 ここで注目すべきは、レザーノフに対してはいったん奉行に伺いをたてると答えておきながら、ここではすでに自分たちの責任で、レザーノフが申し出た品物を受けとると答えたと、通詞たちが言っていることだろう。あくまでも事後承諾を求めるために、奉行所に報告をしにきたことになる。
 これが、通詞たちの交渉のやりかたであった。彼らは言葉を通訳するだけでなく、状況を判断しながら、奉行所に報告する時は、すでに自分たちが承諾したということが何度かあった。彼らは彼らなりに、交渉を円滑に進めようとしていたといえるのではないだろうか。
 池田が、両奉行と遠山にレザーノフが進呈しようという品々のリストを見せたあと、四人は直接奉行と遠山がいる部屋に呼ばれる。ここで三人を代表して、豊後守が最終的な判断を申し伝える。

 「贈答品については、書付を見たが、通詞たちもたくさんいるので格別過分なものとも思わないので、受け取るようにしてもらいたい。
 カピタンへの贈り物についても、両者でいままでもいろいろやりとりはしていたようだし、これ自体はいいことではないが、いまは出帆してもらうのが先決であり、認める。
 手印書付は、むやみに渡せるものではなく、江戸に伺いをたてなければならない。以上使節に申し渡してもらいたい」

 この答えをもって4人は再び梅ケ崎のレザーノフのもとに向かう。
 すでに夕闇がせまる午後6時、献上品の受け取りに同意する旨をレザーノフに報告する。これは「通詞日記」には書いていないことなのだが、レザーノフの日記では、この時も日本側が、通詞のひとりがロシアからの贈答品を受け取り、それをみんなでわけると言ったことに対して、レザーノフが激しく反発し、全員ひとりひとりに贈りたいと主張するが、通詞たちが頑としてそれを認めようとしなかったので、レザーノフもここでは引き下がらずを得なかったことになっている。
 とにもかくにもこれで献上品をめぐる交渉は、合意をみることになった。
 レザーノフは、明日もう一度長崎奉行所に赴き、正式に幕府が提供しようと言っている米と塩、綿を受け取る、いわば最後の儀式に出向くことに同意した。
 通詞たちは、食料を受けとることに同意してくれたことに、レザーノフに礼を述べ、梅ケ崎を出て、これを報告に再び奉行所にむかった。
 池田は、4人に明日朝10時に奉行所に来るよう言い渡した。
 これによって日露会談の行方は、ほぼ決着がついたことになる。

第三回日露会談

 3月9日朝10時奉行所に通詞たちが集まった。レザーノフを出迎える検使として矢部次郎太夫と菊沢左兵衛のふたりが、梅ケ崎に向かった。小通詞の本木と馬場らがこれに同行する。
 昼過ぎにレザーノフたちは、宿舎を出発した。大波戸に着くと、全員が乗れるように駕籠が用意されてあった。
 奉行所に到着したレザーノフは、控室でお茶とタバコのもてなしを受けた。この時大通詞は、奉行と大名は幕府と連絡がとれないので、レザーノフが出している要求については、何の決定権を持っていないし、便宜もはかれないことを、あらかじめ説明している。
 いつものように池田が奥から現れ、会見の場へ行くことを促した。
 レザーノフと2人の副官が、肥田豊後守、成瀬因幡守、遠山景晋の前の席につく。
 おもむろにまずは肥田豊後守が、綿二千把を与えることを告げ、これを石橋が通訳、レザーノフも受けとることに同意する。ついで成瀬因幡守が、米百俵と塩二千俵を贈呈すると申し渡し、これを中山が通訳して、レザーノフが「ありがたく承ります」と謝辞を述べた。
 次いで豊後守が、昨日通詞たちから聞いている一件、もしも日本のどこかに漂着した場合、それを保護するのを保証する「御書付」を渡してもらいたいというレザーノフの申し出に対して次のように答えている。

 「日本のどこかに漂着したとき、そこで取り調べなどのため、引き留めるようなことはない。もしも拘引されそうな事態がおきたときは、今回奉行所からもらった書面を見せれば問題ないだろう。
 「御書付」を江戸に伺いをたてずに、外国の方に渡すことは禁じられており、もし使節がこれを強く要求すれば、また長い間お待たせすることになり、出帆する機会を失い、数カ月ここに滞在することを余儀なくされます」(「通詞日記」より大意)

 これを石橋が通訳する
 このあと「通詞日記」では書かれていないが、レザーノフの日記によると、彼は通訳を通さない話し合いを要求している。

 「これはとても重要なことなのです。重臣の皆さんに、私が理解できるように、わかりやすく日本語で話すようお願いします。言っていることが私にもわかれば、わたしも日本語で答えます」

 こうしたレザーノフの発言に一番驚いたのは、石橋ら大通詞の面々であろう。
 レザーノフにすれば、最後の会談となるこの席で、通訳をまじえたまどろこしいやりとりではなく、直に話し合いたいという気持ちがあったのかもしれない。「それはできない相談です。外国人は通常私たちを通して話すのです」と反論する通詞たちに、レザーノフはいま自分が言ったことを訳すように促した。
 おそらくここで通詞たちは、レザーノフのこの時の言葉をそのまま訳すことはしなかったはずだ。「通詞日記」には、豊後守の話を聞いたあと、レザーノフが「日本に漂着したロシア船の扱いについては、一昨日も尋ねたことであり、通詞たちから「御教諭」の趣旨は聞いているのだが、今日は奉行から直にお答えを伺いたい」と言ったことになっている。
 石橋にすれば冷汗ものの通訳ではなかったか。
 これに対して豊後守は、「通詞日記」では次のように語っていたことになっている。

「ロシア船に限らず、どこの国の船でも日本に漂着したときは、そこで修理させ、そこから出帆できるようにさせる。もしも修理が不可能な時は、船員たちの世話をして、国に帰させます。ロシア人の場合は、もし修理がそこでできなければ、そこで世話をして、オランダ船に乗せて、バタヴィアまで連れていきます」(大意)

 これに対してレザーノフは「あり難く承知つかまつり候」と答えたとあるが、レザーノフの日記では、彼が日本語で謝辞を述べたことになっている。

 レザーノフが最後の最後まで、漂着したばあいの特別保護許可書をもらうことにこだわったのは、カムチャッカまで戻るとき、万が一台風にでも遭遇し、日本の港に漂着する時の身の安全を前もって保証してもらいたいということもあったのかもしれないが、実際は日本に来る口実として、なにか日本側が発行する公式文書をもらって帰国しないと、まったく何の成果もないまま無駄な半年を長崎で過ごしたことにになってしまう、これでは国王へ面目が立たないということがあったのではないだろうか。

 このやりとりのあとレザーノフは、日本滞在中にお世話になった人々への贈り物を、わずかばかりなのだが、さしあげたいと申し出る。

 「去年の秋以来滞在中に親切にしていただいたお礼として、国王からの献上品のなかからわずかばかりの贈り物をさしあげたい。通詞たちの話では、お奉行さまたちは、受けとることが難しいというので、検使たちや、船中にとどまっていたときや、陸にあがったとき警護してくれた人たちにほんとうわずかな品物を贈りたい」

 これをうけて、豊後守は「自分たちは過分の贈り物については、江戸に伺いをたてなければならないが、通詞たちは外国からの贈り物を受け取れるので、彼らに渡してください」と答えた。レザーノフは、贈り物を受けとることに同意してくれたことに礼を述べ、その場を去った。
 これで三回にわたる日露会談は終了した。レザーノフにすればほとんどなんの成果も得られなかった交渉だった。遠山や長崎奉行からすれば、過程ではいろいろあったが、日本側の目論見はほぼ達成できた満足すべき結果となったと言っていいだろう。
 レザーノフは明らかに敗者であり、遠山たちは勝者であった。このようにはっきりと、敗者と勝者を生み出したことが、のちのち日露間で大きな問題になり、武力衝突をもたらすことになったといえるのではないだろうか。
 ある意味でこの会談を仕切ったともいえる通詞たちは、この結果をどう思っていたのであろう。彼らが残した「通詞日記」には、なにも書かれていないのだが、レザーノフの日記で詳細に記録されているように、この会談の翌日から本木、馬場を中心に通詞たちが、再び日本に来航するように、一種の秘密工作を仕掛けることになる。ロシアという大国の存在をあらためて知り、鎖国を楯に、その場しのぎで対外交渉を乗り越えようという幕府の政策に、これでいいのかという疑問をふくらませていたのではないだろうか。

 会談のあと、控室でレザーノフは、会談で言い残したことがあった、今後日本の船がロシアに漂着したときは、どこに連れてきたらいいのかと、応対した家老の西尾に問いただす。西尾は、これについては明日漂流民を受けとるときに、その沙汰を言い渡すと答えた。また再三願い出た蒔絵細工品などは、時間がなく間に合わないということだったので、これについては、ドゥーフに購入するためのお金を渡し、今秋オランダ船でもってきてもらうことにしたと報告もしている。
 一方通詞たちは、レザーノフが帰ったあと、西尾に呼ばれ、レザーノフから要求のあった「御教諭書」をオランダ語に翻訳するよう命じられた。このためいつもならレザーノフに付き添い梅ケ崎に行く、本木と馬場も残り、翻訳の仕事をすることになった。
 三日間にわたった日露会談は終わった。
 レザーノフらは、帰国の準備に、通詞たちは、ロシア側に渡す回答書のためほぼ缶詰状態で、オランダ語の翻訳にとりかかる。
 レザーノフが長崎を出帆するまで、残されたおよそ十日間、水面下でまたもうひとつのドラマが演じられることになる。ここでも主人公は通詞たちであった。


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