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文化二年長崎日露会談の裏舞台を見る
−通詞たちから見た日露交渉−

第四回 漂流民引き渡し、そして秘密工作のはじまり

漂流民たちの返還


 日露会談を終えたレザーノフら一行が、長崎を出帆するのは、文化二年三月十九日である。三回にわたる日露会談が終わったあと、日本側は荷積みのために、艀や人足を可能な限り提供し、一刻でも早く出国してもらおうとする。会談のあと10日間で、帰国の準備がすべて整えられる。
 この帰国までの十日間は、ある意味でレザーノフにとって、日露会談よりも、大きな意義を持つことになる。いままでなにかと対立してきた通詞たちが、ロシアとの通商を厳然と拒否した幕府の意向とは別に、再度日本に来るようにレザーノフにもちかけ、そのための具体的な方策を提案してきたのである。この秘密工作ともいえる通詞たちの提案について、レザーノフはつぶさに「滞在日記」の中に書き残している。いままで日本側の史料にはまったく書かれていない、こうした長崎通詞たちによる秘密工作については、レザーノフが書いていたことの真偽をふくめて、多くは謎につつまれたままである。
 何のために通詞たちが、オランダ経由してロシア人を長崎に送り込み、再び日本へ来航するようにレザーノフにもちかけてきたのか、しかも彼らは、幕府内での老中たちの権力闘争の裏側まで、レザーノフに暴露しているのは、何故なのか。こうした謎を解くことは、いまはあまりにも資料が不足している。いまはひとつひとつ資料を読み解くなかで事実を洗い出すしかない。
 いま手にしている通詞日記には、レザーノフが書いているような秘密工作についてはまったく触れられていない。極秘に書かれた日記ならともかく、後に残すことを意識して書かれた通詞たちの公式文書であるから、これは当然のことと言えよう。
 秘密工作を裏付けるものを通詞日記のなかに発見することはできないのだが、興味深い事実がいくつか浮き彫りにされている。
 通詞たちから見た日露交渉の裏舞台の最後の十日間を追いかけてみたい。


漂流民たちの返還

 日露会談が最終的に決着をみた翌日、文化二年三月十日レザーノフは、ロシアから連れ帰ってきた宮城県石巻の若宮丸漂流民四名を日本側に引き渡している。
 目付遠山と共に長崎にやって来た徒目付増田藤四郎以下三人に引き渡すのだが、この時立ち会った通詞は、石橋、中山、名村の大通詞たちである。彼らは、漂流民とレザーノフの別れの模様を次のように書き残している。

 「使節漂流人の側へ行き、逸々に手を握り、暇乞致し、漂流人よりもながながお世話に相成候段、一礼申し述べ、互いに落涙致し引き別れす」

 さらにこのあとレザーノフが、ひき取りにきた検使たちに向かって「彼の邦で12年間よく勤め、年来御国の御仁徳を慕い帰朝を望んだので、国王がそれを許し、今回連れてきたのであり、このためにも四人を一日も早く生国に罷り越し、親族ともへ対面相叶うよう御憐懇の程お願い申し上げ候」と語り、これは昨日目付や奉行らと会ったときに、直に申し上げようと思ったのだが、遅くなり言い忘れたことであるので、くれぐれもご三方様にこの旨を伝えてもらいたいと述べたと、通詞たちは書き残している。
 漂流民たちの引き渡しの場面については、「環海異聞」などにも詳しく書かれてあるが、一刻も早く故郷に帰して欲しいとレザーノフがこの場で願い出ていたという事実を明らかにしたのは、この通詞日記が初めてではないかと思われる。人情に篤いレザーノフの一面をよく伝えるエピソードである。
 漂流民たちが、ロシアから持ち帰ったものが、検使の前に並べられ、検閲を受ける。レザーノフはこの他にも羅紗の上着やロシアのお金もあるが、上着は自分がロシアで与えたものであり、お金も12年間の労賃であることを説明している。
 漂流民引き渡しのあと、検使のひとり上川から、今後の漂流民引き渡しについて幕府の沙汰がレザーノフに伝えられる。
 これは昨日の日露会談でレザーノフから出されていた質問で、今後ロシアに漂着した日本人を帰す場合には、今回と同じように長崎に連れてきたらいいのか確認を求めていた。
 上川は、もしもロシアに漂着した日本人がいた時は、今後オランダかバタビアに送り届けて欲しいと結論を伝える。これに対してレザーノフは、「甚だ不便であり、迷惑なことで、日本のどこかに連れてくるということにしてもらいたい」と反論するが、大通詞の石橋が「おしゃっるのはよくわかるが、それではもしロシア人が日本に漂着したときは、ロシアに送り帰さなければならなくなる。しかしこれは国法で禁じられていることである。だからその場合は日本で保護し、バタビアかオランダに送り届けるといっているのであり、たとえ迷惑かもしれないが、ロシアに漂着した日本人はバタビアかオランダに送り届けて欲しい」と答えた。
 レザーノフは、この回答をオランダ語で翻訳したものを文書でもらいたいと告げた。
 そしてこの日、検使たちはレザーノフに、去年九月ロシア船来航の時に持参してきた皇帝が将軍に宛てた国書を返却している。
 また日露会談で決着をみた、通詞やオランダ商館長ドゥーフへの贈答品が並べられ、同じように検使たちの検閲を受けたのち、日本側に引き渡される。この時レザーノフは、小型地球儀とロシア地図、ロシア人の肖像画を奉行たちに渡してもらいたいと申し出ている。すでに過分すぎる贈り物を受け取っているのに、これ以上品物を受け取るわけにはいかないと、通詞たちは受け取りを拒否する。
 しかしこれらの品々はお土産品とはちがい、海外の事情に誰よりも興味を持つ通詞たちにとっては、格別の意義を持つものであった。「通詞日記」では、検使たちが漂流民たちを連れてこの場を去ったあとであり、もしも受け取れないのであれば、あとで返してもらえばいいというレザーノフの言葉もあり、やむを得ず持ち帰ったと書いている。
 日露会談という一大イベントが終わり、幕府の使者遠山や、奉行たちはほっとしていたはずだ。彼らの関心は、いつロシア船が長崎を出立するかということだけだった。実際この日報告に奉行所に行った通詞たちは、池田から明日から出帆まで何日かかるのか尋ねられ、レザーノフやクルーゼンシュテルンの答えとして、十日あまりで出発できると答えている。
 いまさら二つ三つ贈り物をもらって、これに対して目くじらたてると出発が遅くなりますよ、受け取ってしまいましょうという、通詞たちの暗黙の了解を求める意図が、読み取れるのではないだろうか。
 これに続いて、通詞日記には、さりげなく書かれているが、非常に興味深い記述がある。

「明十一日より荷積仰せつけられ候については、船出役之儀に掛かる者、末席、稽古通詞出役仕度、さらに小通詞一人ずつ見回り、その他の大小通詞は、御諭書オランダ文に綴り清書にとりかかり申さず候にては、自然出帆の儀も相なり候儀もなりがたく存じる次第につき、池田正兵衛を以て御伺申し上げ候ところ、その通り致すべく旨仰せられ候」

 この日レザーノフは日記に、漂流民引き渡しがおわったあと、大通詞の三人が初めてレザーノフに対して、日露通商のためにどんな協力も惜しまないと明言し、レザーノフも、今まで本木がいろいろもちかけてきた相談は、本木個人の見解ではなく、通詞たちの総意であったと納得したと書いている。日露会談が終わり、漂流民引き渡しという日露にとっての公式行事が完了したこの日以降、通詞たちが積極的にレザーノフに接近をこころみ、秘密工作をもちかけることになっている。
 通詞たちは、レザーノフに渡す文書の翻訳を口実に、自由に動ける時間を確保したといえないだろうか。
 通詞たちは梅が崎のロシア使節屋敷に決して自由に行き来できたわけではなかった。奉行や、その窓口であった池田の了解を得ながら、または彼らの命を受けて梅が崎に行っていた。彼らの日記を読むと、梅が崎の管理については、高島がすべての権限をもち、通訳たちも彼から依頼されるかたちで、梅が崎に顔を出していることがわかる。
 荷積みが始まる三月十一日以降、立ち会いに下級通詞ふたりと小通詞ひとりが立ち会うこと、そしてロシア使節に渡す文書の翻訳のため、奉行所には出勤せずにそれに専念するというこの記述を裏読みするならば、通詞たちが自由に動ける大義名分をつくり、この機会を利用して、彼らはレザーノフに積極的に働きかけることになったといえるかもしれない。
 荷積の立会いのための通訳に、小通詞をひとりつけたことは、いままでレザーノフに積極的に接近をしてきた、小通詞馬場や本木を連絡係としてレザーノフの側におきながら、説得にあたらせるという意味があったともとれる。
 さらに大・小通詞たちが、幕府の回答書をオランダ語に訳すために専念させて欲しいというのも、雑事から解放され、レザーノフをどう説得するか意見を交わす時間を確保したいという意図があったともとれる。さらには通詞たちの秘密工作を実現するために、なくてはならないオランダの協力を得るためには、ドゥーフと連絡をとる必要もあった。次回詳しく紹介するが、翻訳をさらに完璧にするために通詞たちは、ドゥーフにチェックしてもらいたいという願い出を出し、認められている。
 こうして通詞たちは、自由にレザーノフと接触する時間と、秘密工作を練り上げる時間を手にしていった、『通詞日記』をそんな風に読み取ることも可能なような気がしてならない。


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