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今月のトピックス
文化二年長崎日露会談の裏舞台を見る
−通詞たちから見た日露交渉−

第五回 秘密工作のはじまり

秘密工作のはじまり
返書翻訳をめぐって
ドゥーフの添削

秘密工作のはじまり

 文化二年3月11日ロシアは、陸揚げされた荷物を船積みする作業を開始する。この日荷積みに立ち会った通詞は、馬場だった。レザーノフの日記には、馬場が、オランダ商館長ドゥーフからの伝言として、今回の交渉が実らなかったことを遺憾に思うということを伝えたことが、記されている。
 翌日荷積みに立ち会うために梅が崎にやってきた本木から、最初の具体的な秘密工作の企みを打ち明けられたことを、レザーノフは日記に書き残している。つまりオランダを媒介に手紙のやりとりをしながら、日本側に状況の変化がおきた時に、再び日本に来航するよう提案してきたのだ。通詞たちの日記には、もちろんこのことは何も触れられておらず、出島で終日レザーノフに渡す文書のオランダ語翻訳をしていたとあるだけだ。
 3月13日再び梅が崎に現れた本木と、レザーノフは「通商を興すための新しい計画について話し合う」ことになる(レザーノフの日記)。ここで本木は、レザーノフに対して「あと六年すればまたロシア人と会えるでしょう。十年後だったら確実です」と謎めいた予言をしている。
 夕刻大通詞の石橋が、ドウーフからと、通詞たちからの贈り物を携えて梅が崎を訪れている。この際、石橋もレザーノフに対してオランダ人が、ロシアと日本の通商を望んでいることは、時が教えてくれるでしょうとレザーノフに告げている(レザーノフの日記)。 14日には、通詞目付の三島、大通詞の名村と石橋がレザーノフのもとを訪れ、繰り返しオランダに手紙を書くよう助言する。
 15日の『通詞日記』には、荷積みの立ち会いに馬場が罷り出ると簡単に書かれているが、この日のレザーノフの日記を読むと、ここで馬場はレザーノフに十年前大黒屋光太夫を根室に連れてきたラクスマン来航以来の幕府の権力闘争について、いわば国家秘密ともいうべき事実を暴露している。
 このあとレザーノフは馬場に、皇帝に提出する返書の翻訳がどうなっているか尋ねているが、馬場は「もう翻訳は終わってます。いま書き写しているところです。明後日には届けられるでしょう」と答えている。
 『通詞日記』によると、この日御教諭書の翻訳が終わり、本木の家に石橋、中山、名村の大通詞が集まり、四人の他に梅が崎から戻った馬場も加わって翻訳の清書をしたとある。
 レザーノフの日記を読むと、荷積みの立ち会いに梅が崎に来た通詞たちからオランダに手紙を書き、情報交換しながら、次の来航のチャンスを待っていて欲しいという提案を連日のように持ちかけられている。その中心人物は本木と馬場である。返書の翻訳の清書のために、本木の自宅で、秘密工作をしかけてきた通詞たちが集まっているのは、単なる偶然なのだろうか。しかも重大な幕府の内情を暴露したばかりの馬場も、本木の家に立ち寄っているのも、なにかきな臭いものを感じる。レザーノフの応対について五人で意見を交換していたとはいえないだろうか。

返書翻訳をめぐって

 この日本木の家で清書を終えた通詞たちは、目付の三島と一緒にこのあと奉行所に出頭し、横山文平にそれを提出している。これは、レザーノフが日露会談の最終日に質問してきたこと、つまりロシア船が日本近海で難破したときのために、保護を約束する手形を要求してきたこと、さらに今後ロシアに漂流した日本人をどこに連れ戻したらいいかについて、口頭で長崎奉行が回答したことを訳したものであった。
 通詞たちが提出した日本語の文書を見た横山は、ロシア船が難破したときの処置について「修覆相加へ出帆致させ候」というところに異議を唱える。これについては幕府に正式に許可を得たものではないので、横文字にするのは絶対にまずいというのだ。通詞たちからすれば、レザーノフに沙汰については、口頭ではなく、文書で欲しいと言われ、訳したものだっただけに、またもめる火種ができたことに憂鬱になったに違いない。
 実際に、3月18日返書の翻訳をレザーノフに提出したときに、難破した際の保護を約束する文面がないことに対して、通詞たちは、レザーノフから、はっきりと保護を約束するように書き加えるように要求されている。これに対し通詞たちは、「奉行所が江戸から命令書を受け取っており、レザーノフの要求がいかに正当なものであると分かっていても、一字たりとも書き足すことができない」と釈明している。帰国を間近に控えていたレザーノフは、あえてこの件で言い争うことはしなかった。
 横山に翻訳を提出した翌日、三島、石橋、中山、名村、本木、馬場の6名は、奉行所に出頭するよう高島四郎から命じられる。奉行所の書院で、肥田豊後守と面会した通詞たちは、奉行所に提出された横文字の文書は江戸にも届けられることになるので、くれぐれも翻訳もれなどないようにしてもらいたいと念をおされる。以前江戸に提出した翻訳文書が、間違っていたことを指摘され、処分を受けた通詞もいるので、この点だけは間違いないようにして欲しいという豊後守の話を受けて、石橋が、かなり厳しく吟味しながら訳した文書ではあるが、再度点検したいので、出島のカピタンに見てもらい「熟覧致させ、なるだけ書法通り書き取り、オランダの意に叶うように書きつづり、彼邦に解違いないようにしたい」と、ドゥーフに翻訳を見てもらいたいと願い出る。これに対して豊後守は、「カピタンに見せ候儀は不苦」と承諾したので、いったん提出した訳文を持ちかえることになった。
 6人はいったん通詞会所に集まり、さらに見直したうえ、出島に向い、ドゥーフに添削をしてもらう。
 通詞日記には、「カピタンに見せ、彼邦之文意ニ相叶候様添削させ」、夜ハツ時出島を引き上げると書いてある。これを読むと、ドゥーフがちょっと目を通した程度のように思うのだが、ドゥーフ自身の回想を読むと、いささか事情はちがっていたようだ。次にドゥーフの残した回想から、この間の事情を探ってみたい。

ドゥーフの添削

 ドゥーフはこの翻訳の添削を簡単に承諾したわけではなかった。ドゥーフの回想録(『ヅーフ日本回想録』)では、この間の事情を次のように書いている。

「長崎奉行は露国朝廷をして能く其の趣旨を了解せしめんため、予が通詞と協同して、露国使節が幕府より受けたる答書を、日本語より和蘭語に翻訳することを所望せり。
 予は勿論此の断乎たる拒絶を翻訳すくことを辞退せんと欲したれども、其の委嘱は到底謝絶しが難し。因て予は其事成りし後、予の助力したる訳文は、全く正確にして、日本の原文と一致する旨を証明せる一札を、予に渡すことを確約するに非ざれば、此の任務を引き受けざることとせり。然るに此の条件容れられしを以て、予は通詞と共に之が翻訳に従事せしが、成るべく一語毎に訳出せしが故に、之が為に二日を費せり。又此の訳文は江戸に送らるるが故に、決して和蘭文体に依らず、固く日本文体を保存すべしと請求せられたり。故に予は適切に意義を表現するに必要なる助動詞をも捨て、唯通詞に満足を与え、又総ての希望を容れて、只管江戸にて納得するようここに答書の奇怪なる訳文を作成せざるを得ざりき」

 『通詞日記』では、3月16日の夕刻に出島にドゥーフのもとを訪ね、この日の内に添削をしてもらったとあるが、ドゥーフは一語一語訳したため二日かかっていると語っていること、しかもあとで責任を追求されるのは叶わないということで、通詞たちから一札をもらっていること、しかもこの訳文が、レザーノフに見せるためというよりは、あくまでも日本語の文章にそったものだったことなど、興味深い事実を明らかにしている。
 おそらく通詞たちからすれば、江戸に提出する文書となるので、くれぐれも間違いがないようにと長崎奉行から念を押されたこともあって、日本語の文体にそくした訳文にするよう、ドゥーフに強く求めたのであろう。であれば、添削はそう簡単に済むはずもなく、実際はドゥーフが書いているように二日がかりでおこなわれた可能性が強い。
 『ヅーフ回想録』の訳注によれば、三島、石橋、中山、名村、本木、馬場の6人の連名で「カピタンの訂正は一同の満足する所にして、且つ日本原文と全く一致する旨」を書いた一札があるという。
 3月16日通詞たちは、早朝から集まり、ドゥーフに添削してもらった横文字を日本語と照らしあわせ、確認したうえ、本木と馬場が清書し、七つ時奉行所に行き、池田に見せる。池田はこれを遠山目付が滞在している岩原屋敷に持って行き、正式に了解をもらったうえ、四部清書して提出するように命じた。
 夕方立山奉行所をひきあげた通詞たちのうち、本木と馬場が徹夜で、三通の文書を四部清書し、他のものたちはその確認作業にあたった。
 三通とは、日露会談で日本語で渡された「江戸より御教諭御書付横文字」と「御奉行所御教諭横文字」と、口頭で申し渡された「御目付様御口達被仰渡候横文字」の文書であり、江戸へ一通、奉行所控え一通、ロシア人に一通、通詞会所に一通の合計四通りが提出されることになる。

 「江戸より御教諭御書付横文字」と「御奉行所御教諭横文字」は、レザーノフの『日本滞在日記』の付録にのせたものとほぼ同じ文面になっているので、ここであえて紹介はしないが、三島、石橋、中山、名村、本木、馬場の連名で書かれた「御目付様御口達被仰渡候横文字」の日本語文だけは短いのでここに引用しておく。

「去秋以来久々の間滞留たいぎに候。願の趣、懇切申し出候こと故、再三厚く群儀有之被仰出候条、自然より時日も及延引に候ことに候。
 此節ヲロシア使節の者へ従い、御目付様御口達にて被、仰渡候御主意一統評議の上、オランダ文意に書綴候、書面右の通相違ない御座候。    以上」

 レザーノフが要求した回答がまったく書かれておらず、レザーノフが日本にながらく滞在したのはやむを得ない事情からだったという弁明にもならない書簡をもらっても、何の意味がない、レザーノフが怒るのも無理はない。
 17日、通詞たちは終日会所で翻訳の詰めの作業を行っていたようだ。レザーノフの日記でも、この日のことはわずか数行だけしか書かれていない。ただ本木だけは梅が崎を訪れ、荷積みに立ち会っていたことだけが記してある。
 いずれにせよ、ロシアへの返書の翻訳という通詞たちにとっては、ある意味で会談での通訳より重い仕事をやっとのことで片づけたことになる。
 この17日の通詞日記には、ドゥーフがレザーノフに預けて、オランダに届けてもらいたいと、提出した手紙の翻訳が書きとめられている。
 これについては次回日露会談でドゥーフが果たした役割を再検討するので、その時に紹介したい。通詞たちのレザーノフに対する働きかけは、あくまでもオランダを仲介したものであった。オランダを代表するドゥーフと、通詞たちの間に、この働きかけについて話し合いがもたれたのだろうか。これについては、当然のことだが、通詞日記にも、ドゥーフの回想にも何も語られていない。ただドゥーフが今回の日露会談どう見ていたのかを一応確認しておいた方がいいだろう。


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