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文化二年長崎日露会談の裏舞台を見る
−通詞たちから見た日露交渉−

第六回 日露交渉とオランダ商館長ドゥーフ

レザーノフとドゥーフ
ドゥーフの秘密文書
ドゥーフの立場
秘密のやりとり

レザーノフとドゥーフ

 レザーノフの『日本滞在日記』を読むと、彼が出島に商館を開いていたオランダの動向を、常に気にしていたことがわかる。レザーノフはペテルブルグのオランダ大使が、滞在中に協力をするように、商館長に宛てた手紙を持参していた。日本が唯一通商を結んでいる国オランダに、邪魔をさせないように牽制する意味もあってのことだと思う。しかし長年日本に住み、長崎奉行、あるいは長崎通詞とも通じていたオランダが、どんな動きをするか、ロシアの進出をくいとめるために、日本を陰で操る仕掛けをするとも限らない。レザーノフは、日本側と同様にもうひとつの国オランダと、心理戦を戦っていたことになる。
 レザーノフ来航時の商館長は、ヘンドリック・ドゥーフ(1777−1835)、28才の青年であった。
 ドゥーフが商館付の書記として来日したのは、寛政11年(1799)、商館の財政が逼迫していたことにともない、その再建のため、一旦バタビアに戻るが、再び長崎に戻り、享和3年(1803)レザーノフが来航する一年前に、商館長に就任していた。ドゥーフが出島に在職していた期間(1799−1817)は、オランダがバタビア共和国(1795−1815)として事実上フランスの属国となっていた時代であり、またイギリスと戦争状態であった時期と重なっている。オランダの植民地であったジャワは1811年までフランスの支配下にあった。
 このため出島貿易はアメリカなどの傭船にたよらずを得ず、出島で厳しい困窮生活を強いられていた時でもあった。
 レザーノフは、長崎に来航してから、すぐにドゥーフと面会している。この時ドゥーフは、日本側の申し出にしたがい、通訳も兼ねてレザーノフと会見している。ふたりは2回面会しているが、そのあとは一度もあいまみえることがなかった。しかしその後もふたりは、頻繁に手紙のやりとりをするほか、嗜好品や贈り物の交換もしていた。
 今回は、ドゥーフが日露交渉をどのように見ていたのかをみていきたい。ドゥーフにとっても、北の大国ロシアが、日本に通商を求め来航してきたことを、ただならぬ事態としてとらえていたはずだ。

ドゥーフの秘密文書

 文化元年七月バタビアから出航したオランダ商船二隻が、相次いで長崎に到着した。ドゥーフはこの船から、同年五月にアミアン和平条約が決裂し、英仏戦争が再開されること、そしてロシア船が、近々長崎に来航するという情報を入手する。英仏戦争の再開は、アジアにあるオランダ植民地が、英国海軍の攻撃にさらされることを意味するわけで、ドゥーフにとっては憂鬱な知らせだったにちがいない。しかしドゥーフは、これについてはまったく触れず、ロシア船来航の知らせだけを秘密文書にして、長崎奉行所に報告する。

 「ヲロシア国王府ヘートルベルゲ(ペテルブルグ)において、諸臣に命令し万国を周回して諸国に交易の道を開き、かつまた衆技諸芸を試すため、暦数一八〇三年八月一日(享和三年六月二四日にあたる)同国ブウツモウの地より船二艘仕出し、和蘭国アンケリア・イギリス国の中間を乗り、カナリア嶋アメリカ州のブラジリアに到り、案か南海の諸嶋を周り、日本東南の海を乗り、暦数一八〇五年(文化二年にあたる)までにカムシカツテカ(カムチャッツトカ)に到り、それより日本朝鮮の間を乗り通し、唐国広東州・ジャワ・シュマタラホ(スマトラ)の諸嶋、アメリカの諸州を周りもとのごとく欧羅巴を経てヲロシアへ帰国仕り候由、なおまた右二艘に乗り組みのうち頭分の者、御当国へ使者の趣をも承り罷り在り候段、相聞き申し候」

 このドゥーフの報せにより、長崎奉行所も、そして江戸幕府も、まもなくロシアから使節が来航してくることを事前に知ることとなる。
 興味深いのは、この秘密文書の内容が、長崎の警護にあたっていた佐賀藩の長崎聞役(奉行所との連絡係)関伝之充に、通詞の中山作三郎、本木庄左衛門のふたりが、七月五日に極秘に知らせていることである。

 「文化元年子七月五日立ち、宿継を以て長崎関伝之充より(中略)、御立ち入り阿蘭陀通詞中山作三郎、本木庄左衛門より異国船来着の儀について、極密申し聞き候儀これ有り」(『魯西亜渡来録』)

 中山、本木という長崎通詞のふたりが、極秘で佐賀藩にレザーノフ来航の秘密を洩らしているのは、どんな理由からだったのだろう。通詞たちが、一筋縄では括れないしたたかな存在であったことが伺われるのではないだろうか。
 この『魯西亜渡来録』という資料は、レザーノフ来航の年に長崎警備の任にあたっていた佐賀藩が、ロシア船来航に関する対策記録を記したもので、1994年諫早郷土史料刊行会が刊行したものである。レザーノフ来航を警備という側面から捉えた貴重な史料である。

ドゥーフの立場

 レザーノフが持参した在ペテルブルクオランダ大使の手紙は、レザーノフを親切に待遇することと、その計画、つまり日本との通商交渉を幇助することを要請したものであった。ドゥーフは回想録(翻訳は『ヅーフ日本回想録』として1928年に刊行されている)で、この手紙を読んで熟考した結果、レザーノフに対してはロシアの使節としてできる限り親愛の情を示すが、レザーノフを助けるという点については、一線を画すこと、つまり中立の立場をとることにしたと、こう書いている。

 「予は日本に在留を許されたる唯一の欧州国家の商館長なり。然して予はその法度及び古来の慣例が、他の欧州国民の入国を厳禁することを知る。今若し我らが露国人の為に仲介の労を執らば、日本人は我ら和蘭人に対して如何なる感想を作すべきか。此事が疑い深き日本人をして我らに対して疑念を抱かしめざるべきか。恐らく彼らは露国人を拒絶する他の理由をも考出せん。即ち彼らは蘭露両国が日本帝国に対し、共同して陰謀を企つるが為に、我らが露国人の請願を援助すくものと確信するに至るべし。此故に予は日露間の一切の交渉及び後者の企図につきては、全然関係せざることに決心せり」

 こうした大国ロシアに対して、一線を画した対応を選択したドゥーフに対して、ロシア船ナジェージダ号の船長クルーゼンシュテルンや、ラングスドルフらは、のちに帰国して書いた世界一周航海記のなかで、厳しく非難している。つまり日本にたらし込まれ、日本のいいなりになっていたというものなのだが、ドゥーフは、回想録でこれらの非難に反論している。
 ロシア使節のレザーノフはどうかというと、『日本滞在日記』の中で、最初の対面の時に、日本の役人にへりくだっている様子を書いてはいるものの、面と向かって非難しているというわけではない。むしろ一国を代表するもの同士として、紳士的に礼儀に則って付き合っていたように書いている。
 たしかに弾薬を渡す渡さないという議論がもちあがった時に、激しくやりやっている様子も書かれているが、レザーノフにすれば、この時ドゥーフは日本側の意向を説明しなければならない立場にあったことは、理解していたはずだ。

秘密のやりとり

 レザーノフとドゥーフは、二回しか面会していなかったが、かなり自由に手紙のやりとりをしていたことは、レザーノフの『日本滞在日記』にも書かれてある通りである。最初は奉行所の許可を求めながらのやりとりであったが、あまり頻繁になると、国法に触れるということで、ふたりは役人の目にふれないところで秘密裡にやりとりをしていた。
 オランダ船が、長崎を離れる時に、ロシア側からの挨拶に対して、答礼しないという事件があった。これは奉行からの直々の指示であったのだが、この欧州の国では常識であった答礼の儀を出来なかったのは、奉行所からの指示であったことをわびる書面をドゥーフはレザーノフに、送っている。そのあとドゥーフの回想録にはこんなことが書かれてある。

 「使節は懇切なる答書を予に送り、此時より我らは窃に仏文にて互に文通し、通詞も之を内密にせり。斯くて此年バタビィアより受け取りたる新聞紙を其許に送りしこともありたり」

 レザーノフの『日本滞在日記』を読むと、この仲介をしていた通詞が、馬場為八郎だったことがわかる。
 レザーノフとドゥーフの文通が秘密裡にできたのは、通詞たちがいたからこそである。
 ここでもう一度通詞たちのレザーノフへの秘密工作のことを思い起こしたい。彼らが意図した策略は、オランダを通じ、手紙のやりとりをして、その中で幕府で変化があった時に、ロシア人をオランダ船に送りこむこと、そして長崎の出島で待機してもらい、そこで計画を打ち明けること、最後にチャンスを見て、もう一度来航すること、であった。
 本木がこの計画をレザーノフに打ち明けた時、彼は謎めいた言葉「北方のことを忘れずに」、「北から書かないでください」と繰り返し、レザーノフはその真意を計りかねていた。
 これを、レザーノフとドゥーフを仲介していた通詞たちの立場を重ねてみると、少しはなぞときが可能になるのではないだろうか。
 北からの日本のルートは、オランダ経由よりも数倍早い。この工作を仕掛けた通詞たち、もしくはこの企てに加わっていたかもしれないドゥーフにとっても、この直進ルートをとられると困るなにかの事情があったのではないだろうか。
 それはあまりにも北のルートが早いということ、そして警備が薄いということも考えられる。
 つまり欧州経由、バタビア経由にすれば、時間稼ぎができる、通詞たちにとっては、もしかしてドゥーフにとっても、時間稼ぎする必要があったということではないだろうか。では何のための時間稼ぎだったのか?
 大国ロシアの存在を、通詞たちは知った。ドゥーフもロシアの大きさを知っていた。それをいま全部まともに受け入れるだけの準備が日本にはない。オランダもいまは、フランスの属国であり、イギリスの攻撃に晒されている立場にある。ロシアを敵に回したくない、そうした共通の利害関係のもと、通詞とドゥーフはスクラムを組んだ結果が、このレザーノフに対する秘密工作のひとつの大きな理由だったのではないだろうか。北からもう一度真っ直ぐに日本に来てもらっては困るのである、時間を稼ぐために、バタビィア経由の方法があることをレザーノフに暗示すること、それが真意だったと思うのだが、どうだろう。
 ドゥーフは回想録の中で、レザーノフが帰国する時、「予が欧州に帰りたる上は、貴下を我が陛下へ上奏することを忘れざるべし」、さらには「失敗に終わりたれども決して我が親交国オランダ人の罪に帰せざるべし」という書簡をドゥーフに送ったとことを明らかにしている。このオリジナルを積んだ船が難破した際に失われてしまったので、あえてここでこの書簡を添付したとも書いている。
 もしもレザーノフが本当にこれを書いたとするなら、通詞たちの秘密工作は半ば、実ったといえるかもしれない。もしかしたらこの時レザーノフの頭の中には、オランダを経由して再度日本と通商をはかろうということが思い浮かんだのかもしれない。
 しかししばしば歴史はそうした思いとは別に動く場合もある。レザーノフは、フヴォストフとダビッドフという海賊まがいの男たちに、北から攻めるように指令を出してしまう。そしてドゥーフは、文化五年オランダ船捕獲のため、長崎港に突如乱入する英国船フェートン号事件に巻き込まれることになる。こうして別のドラマを歴史は誘導することになるのだ。
 しかし何故通詞たちは、時間稼ぎをする必要があったのだろう。
 ひとつ考えられるのは、オランダ語通訳としての利権を守るためである。いままでオランダ語を窓口に交渉していたのに、ちがう時代がやってくる、それに対する危機感があったのではないか。もしかしたらロシア語を勉強するということも頭の中にはあったのかもしれない。
 もうひとつは、真剣に国の危機を感じていたことである。いまの体制ではダメだという危機感、それを真先に感じていたのではないか。レザーノフに対して、いまの幕府の指導者の中で、老中の戸田が、日露交渉を妨げている張本人だと暴露していたことが、『日本滞在日記』に出てくるが、こうしたことを通詞たちは、ほんとうに言っていたことは間違いないだろう。現体制に対する強烈な不満が通詞たちの腹の中にあったのだろう。
 このふたつのことを理由に、時間稼ぎをしていたと見るのは、あまりにも飛躍した見方であろうか・・・・


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