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『虚業成れり −「呼び屋」神彰の生涯』

岩波書店 / 2004年 / 2,800円(税別) / 400P / 四六判 / ISBN:4-00-022531-6 C0023
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目次と訂正
書評


 「週刊新潮」 2004.02.05号
★「石巻かほく新聞」2004.02.13(出版を紹介した記事) ●LINK
★「東京かわら版」 2004.03月号 今月の演芸ブックレビュー
★「週刊新潮」 2004.03.04日号 福田和也の闘う時評
★「朝日新聞」 2004.03.07朝刊(松原隆一郎) ●LINK
★共同通信配信記事 (野地秩嘉) (神戸新聞・四国新聞3/13・河北新聞・神奈川新聞ほか)
★「日刊ゲンダイ」 ●LINK
★「週刊文春」 2004.03.11号 今週の三冊(笹倉明)
★「ダ・カーポ」 533号 2004.03.17日号 書評界の長老 井家上隆幸の閻魔帳
★「北海道新聞」 2004.03.21朝刊(早瀬圭一) ●LINK
★「日本経済新聞」 2004.03.21朝刊(黒田恭一)
「北海道新聞」 2004.03.24朝刊
★「レモンクラブ」 2004.04月号に掲載分に加筆(南陀楼綾繁)
★「月刊文藝春秋」 2004.05月号 読書鼎談(福田和也・鹿島茂・松原隆一郎)
「クラシックジャーナル」 2004.04月発売007号(中川右介)
★「新・調査情報」 2004.5-6月号 no.47(木原毅) [発行:TBSメディア総合研究所

出 版 (転載)

新聞社の記事など、リンク切れが予想されるものを転載しています。

「石巻かほく新聞」
■「赤い呼び屋」評伝を出版
石巻出身の作家 大島幹雄さん
興行で戦後・伝説残した神彰
波乱の生きざま描く/
2004.02.13
 石巻市出身のノンフィクション作家・大島幹雄さん(五〇)=横浜市在住=が五冊目となる本を出した。海外からサーカスを呼んだりするプロモーターを本職とする大島さんにとってあこがれの大先輩であり、「赤い呼び屋」として日本の興行界で一世を風靡(ふうび)した伝説の男・神彰(じん・あきら、一九二二−九八、函館市生まれ)の生きざまを追究した評伝の労作。興行に夢を追った男の生涯が、昭和から平成にかけての激動の時代の中に浮き彫りにされる。

 本のタイトルは「虚業成れり−『呼び屋』神彰の生涯」(四六判、定価二千八百円、税別)。岩波書店から単行本として出版された。

 大島さんは「直接本人から話を聞く前に亡くなってしまった」ことを悔いるが、一緒に仕事をした仲間や友人らの証言、当時の資料、週刊誌記事などをかき集める一方、神自身が書き残した原稿などを基に構成、興行を通して”戦後”を演出した男の生きざま、人間像を浮かび上がらせる。

 ソ連と交流がなかった時代にボリショイサーカス、ボリショイバレエ、レニングラードフィルの日本公演を実現させ、マスコミから「赤い呼び屋」と称せられた呼び屋としての絶頂期から、作家・有吉佐和子との電撃結婚と離婚、倒産、居酒屋「北の家族」のオーナーとして復活に至るまでの人生を、大島さんは同じ「呼び屋」としての視点で温かく描写。栄光からどん底へ、どん底から栄光へと、不屈の精神で昭和・平成を駆け抜けた一人の日本男児の生きざまをつづっている。

 大島さんは「ゼロから出発し、『幻』を実現するために挑戦し続けた神彰の生き方は多くの人に勇気を与えるのでは」と話している。

 大島さんは石巻若宮丸漂流民の会事務局長も務めており、これまで著した本には「魯西亜(ロシア)から来た日本人−漂流民善六物語」(廣済堂出版)、訳書「日本滞在日記一八〇四−一八〇五」(レザーノフ著、岩波文庫)など若宮丸関連も多数ある。

 

『東京かわら版』
今月の演芸ブックレビュー
2004年3月号
 戦後、ロシアから「ドン・コザック合唱団」を呼び、全国縦断を決行、芸術に飢えていた国民を熱狂させた呼び屋・神彰の波瀾万丈の熱い人生。ボリショイ・バレエ、ボリショイサーカス、アート・ブレイキーとジャズメッセンジャーズ等々を招聘し、栄光も破綻も味わいつくす。その後の居酒屋「北の家族」経営の成功や、有吉佐和子との結婚、伝説の雑誌『血と薔薇』の発行など、彼のデイープなエピソードには枚挙にいとまがない。

 

『週刊新潮』
福田和也の闘う時評
2004年3月4日号
 どなたも、新しい世界に足を踏み入れた時に道案内をしてくれる人に恵まれる、というような出会いの経験を持っているのではないのでしょうか。特にその世界が特殊というか、強い傾きがある、一般常識の世界から離れていれば、余計にその道案内の印象は強烈なものであると思いまいます。
 私が、物書きの世界に入った時の案内をしてくれた人は、とてつもなく贅沢な人でした。異界に来た、という興奮を味わわせてくれました。その人は、康芳夫さん。この道の人はみんな知っている斯界の有名人。安倍譲二や竹熊熊太郎、野地秩嘉ら各氏が小伝を書いていますが、モハメッド・アリの試合を日本で興行し、コルトレーンやマイルス・デイビスを来日させる「呼び屋」としての正統的な大仕事から、オリバー君とエリマキトカゲをブームにし、ネッシー探索隊を組織するというフリーキーなファンタジイを演出する怪人物」して知られています。
 昔は、イロイロあったと仄聞しておりますが、私にとっては、ひたすらに鷹揚な人です。鷹揚といっても桁が違う。あの人に会いたい、とふと漏らせば、会わせてくれる。どこにでも連れて行ってくれる。磯崎新さんも、野見山暁治さんも、沼正三さんもみんな康さんに会わせてもちいました。魔法のランプの怪人みたいな方で、未だにお世語になりっぱなしです。常に椿事を待ち、時に自ら引き起こす、艶隠者の如き人物。磯崎さんはさる教団の教祖に康さんを紹介する時、「何か不思議な事件が起きると常にこの人がいる」と云っていました。かの麻原彰晃も康さんの食客だったとか。
 康さんの師匠格で、元祖呼び屋といわれる伝説的な人物神彰の評伝が、アフタークラウデイカンパニーでおなじく呼び屋稼業にいそしむ大島幹雄氏の手で上梓されました。『虚業成れり』は、かのレセップスが、スエズ運河の工事資金として、オランダのイザベル女王からエメラルドの首飾りをせしめた時に、「わが虚業、今成る」と叫んだことに由来。元祖呼び屋氏も、その初仕事である、昭和二十九年、ドン・コザック合唱団の来日公演のために、三和銀行から五百万を融資された時に、「わが虚業、今成る」と叫んだとか。
 虚業を名乗るわけですから、アウトローではないにしても、やはり堅気ではありません。折角銀行が貸してくれた金――歌声ブームにのり、ひらめいて直接指揮者のセルゲイ・ジャーロフに国際電話をして口説き落とし、毎日新聞の共催を獲得して、戦後の荒廃を癒すには、コザックの歌声が必要だ、口説きに口説いたあげくに借りた五百万円で、マッカーサー元帥と同じクライスラー・ニューヨーカーを買い、「大社長」を装って資金を集めるというのですから。しかも、ドン・コザック合唱団が、地方公演の未清算などがあったにしろ、大成功をおさめて多額の興行収入を得ると、三和銀行以下、並み居る債権者たちを晦まして――何しろ、銀行の車に毎日尾行されていたというのだから凄まじい――帝国ホテルに立てこもる。とい.って、別に儲けた金を抱えこむというのではなく、次なる興行の資金として使うためなのでした。
 もともと神の仲間は、満州国時代の知り合いで、満州国治安部の岩崎篤と、牧逸馬の弟で、長谷川四郎の兄であり、満映で甘粕正彦の自決に立ち会った長谷川濬。ジャーロフに電話をしてくれたのも長谷川でした。神もまた満州で旅行会社に勤めていて、満州帰り、ラーゲリ帰りの男たちが、夢よもう一度と創めた稼業が成功し、そこにまた働き口がなくなったロシア語使いたちが集まり、ソビエトからの大物タレントをつぎつぎに呼び寄せて、「赤い呼び屋」の名をほしいままにする。ドストエフスキーの翻訳で高名な工藤精一郎氏も一時スタッフだったとか。「赤い呼び屋」としての神は、伝説的なもので、間違いなく戦後文化史最大の演出者の一人でした。一流の公演にほとんど接することのできなかった当時、ポリショイ・バレエやロストロポーヴイチやレオニード・コーガンなどを招聘したのですから、その衝撃は大変なものだったのでしょう。なかでも耳目を集めたのが、レニングラード・フイル。ソビエトから、ツポレフ旅客機で羽田に乗り込むソビエト機の飛来許可を、在日米軍の司令官とかけあって、神はとってきたとか――という大演出で、肝心のムラビンスキイは病気で来日できなかったものの、、ヨーロッパの本格的オーケストラの来日は全国のクラシック・ファンに感涙を流させました。
 たいしたものだな、と思ったのは、ボリショイ・サーカス。もともとは国立ソビエト連邦サーカス団という名前だったのが、こんな名前では客が入らないと、スタッフが勝手にボリショイ・サーカスという名前にしてしまった。サーカス側は、そんな名前ではない、と抗議したそうですが、今では、彼らもそう名乗っているとか。まさしく呼び屋の面目躍如というところでしょう。
 ボリショイ・サーカスは、ドル箱となり、神の興行界での地位は不動になります。この頃が、神の得意の絶項で、売り出し中の有吉佐和子と結婚したのもこの頃。しかし以降、呼び屋としての神は下降線を描きます。ウェスタン・ショーを企画して早撃ちの名人を呼んだのに、発砲を禁じられて大コケにコケたり、切符を売ったのにイブ・モンタンは来なかったり。ついに倒産し、一度自動車レースで再起をしますが、再び倒産に追いこまれる。すでに神のような、個人のリスクとアイデアで興行を当てようとする呼び屋の時代ではなくなり、厳しいコスト管理と、組織だっ.たマーケティングで運営される代理店やマスコミの時代を迎えていたのです。
 再婚した神は、妻の義子に支えられ、「心の居酒屋北の家族」で再起をする。もともとは多人数の仲間との歓談に際しての、奥さんのもてなしが出発点だったのですが、廉価に北海道の魚や野菜、地酒を昧わえる居酒屋チェーンに発展し、ついに店頭上場をなしとげる。時代の先を読むセンスが、見事図にあたったということでしょうし、過剰な遊び心で装飾された店内は魅力的でした。
 上場といえば、企業家ならば誰もがあこがれる成功の証明なわけですが、上場してからも神は、オレは虚業家だ、と云いはっていたというのがおかしい。義子夫人に手ほどきされて、神は老子に帰依していたそうですが、この虚であることのこだわりは、やはり老荘の本質に根ざしたものなのか。今度是非、康さんに訊いてみたいと思います。

 

「朝日新聞」
虚業成れり―「呼び屋」神彰の生涯 大島幹雄著
時代を先取りした「一か八か」の奔走
本紙掲載2004年03月07日
 興行の真似(まね)事をしたことがある。表現の場に飢えていた若手フリージャズ奏者たちと夜を徹してのコンサートを催したのだが、韓国から出演者をタダ同然で招聘(しょうへい)したり、会場を無料で借り受けたりとずいぶん無茶(むちゃ)をした。だが出演者たちは皆、現在では世界に名を知られるようになり、意気込みが間違っていなかったと独り合点している。

 それゆえ高度成長期に彗星(すいせい)のごとく現れた「赤い呼び屋」、神彰(じんあきら)のこの評伝には、血湧(わ)き肉躍る思いがした。うたごえ運動が頂点に達したころ、ロシア通の友人たちと語り合い、故郷を離れ本物のロシア民謡を歌うドン・コザック合唱団を呼んで、世間をあっと言わせた。それを皮切りに、当時国交すらなかったソ連からボリショイバレエ、ボリショイサーカスをも呼ぶ。神彰35歳の離れ業である。

 こう要約すれば、世評高い芸術家を公式の窓口から招いたと思われるかもしれない。だが実情は一か八かで、招聘は私人ルート。外貨支払いに制限の課された頃、神は闇ドルを求めて奔走する。融資を募るためはったりでクライスラーを乗り回しもした。

 宣伝文句も熟考し、「炸裂(さくれつ)するブラックファンキー」(アート・ブレイキー)、「世界の恋人」(イブ・モンタン)など傑作コピーを残す。ところが有吉佐和子との結婚を機に会社に内紛が生じて倒産、離婚。インディ・カーレースで復活するが、マイルス・デイビスが麻薬歴から入国できず、再び倒産。それでいて居酒屋チェーン「北の家族」の大成功で再復活。波瀾(はらん)万丈の人生と言うしかない。

 本書は結論として、大企業でしか外国人タレントがよべない時代になったのだ、としている。けれども昨今では、個人で起業し、失敗しても再起できる社会への転換が良しとされている。また経営目標の社会性が要請されてもいる。芸術招聘を戦争で荒廃した精神を復興するための社会事業とみなしたことも含め、むしろ神の生涯は時代を先取りしているように読めた。まさに「虚業成れり」、である。

 評者・松原隆一郎(東京大教授)

   *

 岩波書店・378ページ/おおしま・みきお 53年生まれ。プロモーター。著書に『サーカスと革命』など。

 

共同通信配信
評者・野地秩嘉(ルポライター)
(神戸新聞・四国新聞・河北新聞・神奈川新聞ほか)
 「呼び屋」とは戦後、海外からタレントを呼び、公演を手がけた興行師を言う。神彰は呼び屋の先駆けであリ、最大の存在だった。ボリショイサーカス、レニングラード・バレエといった、旧ソ運ものに強く「赤い呼び屋」の異名もあった。
 私生活でも人気作家、有吉佐和子と結婚、離婚し、世間を騒がせたが、その後、興行で失敗し、呼び屋稼業からは引退、雌伏の時に入る。彼がマスコミに再登場したのは、創業した居酒屋チェーン「北の家族」の株式を店頭公開した一九九二年。虚業で名を上げた神彰は、実業の世界で成功者となったのである。
 本書は、浮き沈みの激しい人生を送った神彰の伝記であり、変わリ種のビジネスノンフィクションと言える。ビジネスものと言えばヒー口―が勝ちあがる過程が読みどころだが、この本はそうではない。神彰が興行師として立ち行かなくなる、いわば墜落してゆく過程が胸に染み込んでくる。
 娯楽のない当時、神彰が日本に呼ぼうとしたのはホンモノのタレントだった。ところが大西部サーカスというお粗末なカウボーイショーをつかまされ、自信喪失。彼は興行失敗よリ、ニセモノを舞台に上げた自分自身を許せなかったようだ。
 神彰が日本の芸能界に彼ならではの業績を残したかといえば、私は何もないと思う。呼び屋はあの時代が作リ出した職業であリ、彼がいなくともほかの誰かが代わリを務めたに違いない。しかし、私は彼が好きだ。
 晩年の神彰に招かれ、自宅で話したことがある。高級住宅地の大邸宅には高価な美術品をたくさん置いていた。彼の自慢に辟易した私は、からかうつもリで「神さん、これホンモノですか」と尋ねてみた。彼は苦笑しながら、こう言い返してきた。「何にもわかっとらんなあ、おまえは。いいか、この家にあるものはオレ以外、全部ホンモノだ」
 戦後の風景など、著者の調査は行き届いているが、できれば光の部分だけでなく、影も知リたかった。神彰という人は事跡よリも本人に魅力があったからだ。

 

「日刊ゲンダイ」
BOOK REVIEW
『虚業成れり―「呼び屋」神彰の生涯』
日刊ゲンダイに掲載された書評です
 海外からアーティストを招聘し、興行する人を「プロモーター」と称するが、かつては「呼び屋」といわれた。
 その呼び屋の代表的人物は神彰(じんあきら)だろう。
 彼は日本人が本物の芸術に飢えていた昭和30年代、ソ連から大物アーティストを次々と招き、「赤い呼び屋」と評された。
 また新進作家・有吉佐和子と電撃結婚をして一躍マスコミ界の寵児となった。
 本書は同じ稼業の著者が幻を追いかけ虚業に生きた怪物・神彰が活躍した時代を描く傑作評伝。

【読みどころ】
 神彰は1922年(大正11年)に函館の海産物問屋の四男に生まれた。
 函館商業卒業後、絵かきをめざして上京。
 一時文化学院に通った後、満州へ。戦時中はハルビンの交通公社で働いていたという。
 敗戦後、ドン・コザック合唱団を呼ぶため友人らとアート・フレンド・アソシエーション(AFA)を設立。
 当時は国際電話の料金も払えないくらいの文無しだったが、新聞社、放送局、銀行を口説き落として金をつくると、マッカーサー元帥が乗っていたのと同じクライスラーを500万円で買い、それに乗って企業や団体を回り、夢を説き、協力要請をした。著者いわく、
「無から有をつくり出すこと、それが興行師の真骨頂である」
 ドン・コザック合唱団は1956年3月来日、全国で31回も公演し、その圧倒的な声量で聴衆を魅了した。
 このとき神彰は33歳。全く無名だった。
 以後、日ソ国交回復の波に乗り、ボリショイバレエ、レニングラード・フィル、ボリショイサーカスなどで大当たり。
 だが、興行は水物。イブ・モンタン公演の中止やアメリカン大西部サーカスの失敗などで莫大な負債を抱えてAFAは倒産する。
 その後、有吉佐和子と離婚、ドン底からの再婚。老子への傾倒。居酒屋チェーン「北の家族」の経営で復活と波乱万丈の生涯を送り1998年3月死去。75歳だった。

 

『週刊文春』
今週の三冊
『呼び屋』神彰の生きざまと、昭和という時代   笹倉明
2004年3月11日号
 「虚業」なる語は、意味を付すのがむずかしい。広辞苑には、「竪実でない事業。実を伴わない事業」とある。およそマイナスのイメージであるが、この書の作者はむろんそのようなものと考えていない。みずから夢み、人に希望を与える業として、肯定的な意味を「虚」に込めたことが最後にわかる仕掛けになっている。
 まず、時代背景に息吹を感じる。戦前、大陸へ雄飛した多数の日本人は、引き揚げ後その体験を根として新たな出発をするわけだが、多くが戦後の荒廃の中で、生きる道に苦慮したことはよく知られている。「呼び屋」という業が大きく成り立ったのは、時代の波がどんな花をも咲かせ得る、膨大な許容量を有していたからであり、ひとりの人間が失敗や挫折からみごとに立ち上がり、志を新たに出発し、成功を勝ちとる可能性もまた大いに用意してくれる時代でもあったことが、この一冊からまざまざと読みとれる。
 帝国日本の功罪はともかく、大陸雄飛組の逞しさはたいしたものだ。作家、有吉佐和子をはじめ三人三様の特色ある女性を妻とした男の意気もハルビンの風に鍛えられた人間にしかもち得ないものだろう。ほかならぬ私自身、映画に手を出してつくった借金にため息をつく小粒さに苦笑したものだが、狭く小さくなった現代人を啓発し自省を促す意味でも価値ある書といえる。
 人は青春時代を一生涯ひきずる、と私はかねがね思っているが、神彰の生きざまもまたその典型である。画家を志して燃えていた大陸時代が心に焼き付けた記憶は、「幻」のドン・コザック合唱団を呼んだAFA(アート・フレンド・アソシエーション)草創期から、みずからを「呼び屋」ではなく「芸術交流師」と呼び、幾多の成功と挫折を繰り返しながら、最後は居酒屋「北の家族」チェーンを展開して上場企業にのしあげる晩年まで、決して消えることなく生きつづけたその魂の遍歴は圧巻というに値するが、同時に、昭和という怒濤の時代を一種独特の角度からうつし出す鏡ともなっている。
 特筆すべきは、神彰の人生が必然的に仲間や同僚を必要とするものであったがために、彼らとの関係もまた見過ごせないものとしてキチンと描かれている点だろう。妻となる女性たちとの出会いと別離はむろん核となる部分だが、満州時代の仲間との蜜月と決別の経緯が、紐余曲折、浮沈に決定的な関わりをもつものとして、それぞれの立場から描かれる。これは著者自身が神彰と同業の身にあって、いわばルーツを辿る旅であったゆえになし得た仕事であり、その並々ならぬ共感の度が伝わってくる。
 そして、「虚業成れり」とその人生を結論づけるにいたる根拠を解き明かすことが、この書の最終の目的であったろうか。妻の感化にはじまり、無と有、虚と実の宇宙における相関を説く老子の思想によって一つの境地に達したとき、穏やかな余生もまた保証されたのだ。実があって虚がある、その逆もまた真。幻を追い夢を売る仕事、虚業は実業と同等の意義をもつ、との悟りは、著者自身の思いとも共鳴して、最終章を締めくくる。とくに、天が与えた最後のご褒美という、唯一の愛娘、有吉玉青との再会と、その後の物語は感動的である。久しぶりに重厚なノンフィクションを読んだという気がする。

 

『ダ・カーポ』
書評界の長老 井家上隆幸の閻魔帳
2004年3月17日号
 海外からアーティストを招聘する商売、いまはプロモーターといい工ージェントといい、顔のないビジネスマンになっているが、かつては夢を追って勝負に挑み、ときには一攫千金、ときには一文なしというやくざな商売、ジャーナリズムは「呼ぴや虚業」といった。
 満州から引き揚げて、戦後の混乱期を生きて鬱屈を酒で晴らすしかなかった男三人、治安部の軍人だった岩崎篤、元満映社員で詩人作家の長谷川濬、画家志望の神彰が「ドン・コザック合唱団を日本に呼ぼう」と思い立ち、無一文で無手勝流、56年3月、みごとに実現させた。勢いにのって神彰は、国交のなかったソ連から、モスクワ・ボリシヨイ・バレエ、レニングラードフィル、ボリショイ・サーカスなどを呼んで大成功。「赤い呼び屋」とはやされた神彰はその大成功に乗じて、共産圏以外の国のタレントに招聘の手をのばし呼べるだけのものを呼びまくった。
 フランスからイヴェット・ジロ、イタリアからニコロとナポリ・クインテット、アメリカからアート・ブレイキ、ホレス・シルバー、クリス・コナー、ソニー・ロリンズ。ピカソ展、シャガール展。私生活では作家有吉佐和子と電撃結婚、高度成長期の日本でもひときわ輝いた男だったが栄光の時は短い。シャンソンのジャクリーヌ・フランソワで大赤字、アメリカ大西部サーカスで決定的な欠損をして"赤い呼び屋"は消えていった。
 自身「呼ぴ屋」を名乗る大島幹雄は、神彰の生涯を歩いて、彼の挑んだ「幻」に理会しようとする。
 竹中労はいった。「神がはじめて『ボリショイ・バレエ団』を招いて公演を行ったとき、開幕前に舞台から客席に大演説をブチ、大向こうの顰蹙を買ったことがある。彼には゛日本における最大最高のプロモーターたらんとする夢があった。世界の芸術家を一手に引き受ける独占興行資本の確立という夢があった」と。
 その〈夢〉は「虚業成れり」とうそぶくものにはかなわぬ幻。興行師の魂とビジネスマンのそれのはざまでゆれた神彰の再起が、若者相手の居酒屋チェーンの先駆、「北の家族」であったのは、実に象徴的に思える。〈興行師魂〉をたった8年に燃焼しつくして神彰、1998年5月、心不全で死去、享年75歳。
 このルポルタージュ、神彰のライパル、永鳥達司を追った野地秩嘉『ヤァーヤァーヤァ―ビートルズがやって来た』、竹中労『呼び屋』『ビートルズ・レポート』と併読すれば、樋口玖、康芳夫らを含めて、強烈な〈呼び屋魂〉の冒険に羨望すら感じるだろう。そう、60年代カウンター・カルチャーとはこういうものであったのだ。

 

「北海道新聞」
虚業成れり
2004/03/21の「ほん」のページから
<略歴> おおしま・みきお 1953年生まれ。呼び屋(プロモーター)。

 一九五六(昭和三十一)年三月二十四日、ドン・コザック合唱団一行二十五人が羽田空港に降り立った。一行は同二十七日から四十余日の間に全国で三十一日の公演をこなし、「日本列島を熱狂と感動の渦に巻き込んだ」。主催は毎日新聞社とアートフレンド・アソシエーションとなっているが、実際に合唱団を呼んだのは、三十三歳の神彰とその仲間である。アートフレンドは神がつくった会社だった。

 神は国交のなかった旧ソ連から、ボリショイ劇場バレエ団、レニングラード交響楽団、モスクワ国立ボリショイサーカスなど、人気アーティストを次々来日させることに成功。大宅壮一に「戦後の奇跡」と称される。今ならさしずめ新聞社や広告代理店、PR会社のやることを当時は個人やほんの数人のグループが実現させた。彼らのことを「呼び屋」といった。ほかに「呼び屋」といえば、同じく旧ソ連からヴァイオリニストのオイストラフを招いた小谷正一(井上靖「闘牛」のモデル)を思い出す。

 本書は、「呼び屋」として「いつも自分が行う興行に命を賭け、ときに莫大(ばくだい)な利益を得、そしてときに一文なしになった」神彰の生涯を克明に綴(つづ)る。

興行に命賭けた呼び屋

 著者は、神と同じ「呼び屋」を現職としていてもの書きが本業ではない。五十歳になったのを一区切りとし、先輩・神のたどった足跡をたどることで、自身の今後の生き方を探ろうと、この伝記を自分のホームページ「デラシネ通信」に連載したという。

 一九二二(大正十一)年六月二十八日、函館末広町に海産物問屋の四男として生まれた神は、名門函館商業学校(現函館商高)を出て上京、一年足らずで満州に渡る。その後の人生はまさに波瀾(はらん)万丈、居酒屋チェーン「北の家族」創業まで息つく間もない。その間、神は作家有吉佐和子と電撃結婚、あっという間の離婚、元農林大臣平野力三の娘義子との再婚と死別、そして銀座ホステスと三度目の結婚をした。終章近くにわが子有吉玉青との再会、和解がある。

 ごつごつした文体や著者の距離を置かぬ思い入れがかえって効果をあげて迫真力がある。

評・早瀬圭一(ノンフィクション作家)

 

日本経済新聞
興行界の風雲児、成功と挫折  黒田恭一
2004年3月21日 朝刊
 ドン・コザック合唱団の初来日公演こそきいていないが、レペシンスカヤのボリショイ・バレエは見ている。ガウクのレニングラード・フィルもきいているし、アート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズもきいている。「呼び屋」神彰のおこなっていた、公演というより興行といいたくなるような、その頃、大きな話題になった海外のアーティストの招聘事業は、国際的なエンターテインメントに飢えた人たちによってむさぼるように楽しまれた。一九五〇年代後半から一九六〇年代の前半にかけてのことである。
 本書では、戦後の日本の、混乱の時代にあって一攫千金を夢見て、それを実現させた風雲児の成功と挫折の一生が生き生きと語られている。当時の流行作家有吉佐和子との結婚と離婚、居酒屋チェーン北の家族の起業といった、文字通り波乱万丈の一生を送った神彰を俎上にのせて、著者はその達意の文章によって、戦後の日本の一断面を鮮明に浮かび上がらせることに成功している。
 やがて時代が安定するにしたがい、海外から日本を訪れるアーティストの数もふえていって、それにともない、「呼び屋」ということばも死語となった。招聘事業が文化事業的な色調を濃くしていったことによって、一発勝負に挑む興行には情熱的でありえたものの音楽を愛していたとは考えにくい神彰のような才覚と野心で大きな仕事をやりとげようとする男が上手に生き残れるはずもなかった。神の破綻は時代の裁きの結果だった、と考えるべきであろう。
 しかし、今また、アーティストのあたえてくれる感動より、そこからえられる収益を重く考える興行主義が招聘事業の主流になっている。とはいっても、この時代に「呼び屋」神彰はいない。おまけに、今は、興行師の勘ではなく、マーケティングと呼ばれる、そろばん勘定だけが得意なサラリーマン化した「呼び屋」が業界で幅をきかせている。そのような事情が背景にあるからであろう、本書はロマンティックな冒険談とも読めるし、音楽への愛と情熱を忘れた招聘事業への警鐘とも読めて、興味つきない。

 

『レモンクラブ』
南陀楼綾繁
2004年4月号
 自分が平凡な人間であるせいか、どうも強烈な(いわゆる「ショッパイ」)人物を描いた本に手がのびる。最近も、柳下毅一郎『興行師たちの映画史 エクスプロイテーション・フィルム全史』(青土社)がオモシロかった。
「エクスプロイテーション」は搾取という意味、つまり観衆からカネをふんだくる「きわもの」映画のことだ。映画を発明したリュミエール、メリエスからはじまって、『世界残酷物語』のヤコペッティ、魔術師フーディーニ、『フリークス』のトッド・ブラウニング、そしてエド・ウッド、ラス・メイヤー、ウィリアム・キャッスル、新東宝の大蔵貢……。よくもコレだけ多くの怪しい人物が映画界に参入してたもんだと、ヨダレを流しながら読む。ついでに、同書にも出てくるロジャー・コーマン(名前からしていかがわしい)の自伝『私はいかにしてハリウッドで100本の映画をつくり、しかも10セントも損をしなかったか』(早川書房)まで再読してしまった。
 興行師は映画界だけにいるのではない。日本でも、音楽、演劇、サーカス、漫才などさまざまな演芸・見世物を仕切っている。中でも一九五〇年代に、世界を流浪するドン・コザック合唱団を呼んできたのをはじめ、まだ国交のなかったソ連のボリショイバレエ団、レニングラード交響楽団、ボリショイサーカスなどの日本公演を実現し、「赤い呼び屋」といわれた神彰は有名だ。その神の評伝である、大島幹雄『虚業成れり――「呼び屋」神彰の生涯』が出た。
 ボリショイバレエもレニングラード交響楽団も立派な芸術じゃないか、ドコが「きわもの」なんだと云われそうだ。たしかに、「荒廃した日本人の心に希望の息吹を与える」という熱意が、神や仲間たちを動かしていた。しかし、銀行からカネを借り新聞社の協力を取り付け、公演が成功したあと、神は「雲隠れ」してしまい、諸経費を踏み倒すのだ。「文化」を啓蒙しながら、カネは払わない。まるでドコかの出版社みたいだな。やっぱり、神も「搾取」する側のヒトだったのだ。
 カリスマ性と計算高さが同居する神にかかっては、仲間も「搾取」の対象となってしまう。神と一緒にドン・コザック合唱団を呼んだ長谷川濬(神と同郷で、兄弟に『丹下左膳』の林不忘や作家の長谷川四郎がいる)は、追い出されるようにして神の元を去り、生活のためにソ連への貨物船に通訳として乗り込む。やはり仲間だった「将軍」こと岩崎篤も神と袂を分かつ。
 神は自分の手足となるスタッフを集め、「アート・フレンド・アソシエーション」(AFA)をつくる。そこには、キャッチコピーの名手・木原啓允(ぼくの好きな詩人・菅原克己の紹介で入社したという)や、神と同じく大陸育ちの若者たちが揃っていた。のちに「オリバー君」を呼んだりした典型的な「きわもの」興行師・康芳夫(竹熊健太郎が『箆棒な人々』太田出版、でその人物像を描いた)も、石原慎太郎の紹介でAFAに入社している。まるで、ジャック・ニコルスンやフランシス・コッポラ、ジョー・ダンテらが集まった「コーマン・スクール」みたいである。
 著者が云うように、AFAは若さのあふれる「梁山泊」だった。神はスタッフの提案に対して「思うようにやってみろ」と云う、決断の早いトップだったようだ(これもコーマンと同じだ)。しかし、一方では気まぐれであり、自分以外を信用してないトコロがあった。だから、続けざまに興行が失敗したとき、神は誰にも頼ることができず、AFAのスタッフは神の元から去っていく。それとともに、作家・有吉佐和子との短い結婚生活も終わりを告げる。
 成功を続けた神の企画が失敗するようになったワケを、著者はこう書く。
「いままで神を突き動かしてきたもの、それは幻を追うことだった。幻があったから、それを実現しようとして彼は必死になっていた。(略)誰もできないものを神は呼ぶことに生きがいを感じていた。それは自分の心の底から求めていた幻であったはずだ。それが呼び屋として名声を勝ち得るなか、自分ではなく、世間が求めるもの、それを幻として追いかけてしまった、そこに転落の道が待っていたといえる」
 幻を幻のまま追い続けるのは、難しい。とくにいったん成功を味わってしまったあとでは。自身も興行師である著者の大島幹雄は、そのことをよく知っている。大島は、同業の大先輩である神彰に敬意を払いつつも、生前の神に会っていないせいもあってか、つかず離れず冷静に神の人生をたどっている。その距離感がなかなかイイ。
 本書は、四年にわたる取材を経て、サイト「デラシネ通信」(http://homepage2.nifty.com/deracine/)で連載したものがもとになっている。芸能を軸に、日本と海外の知られざる交流史を追っている著者の仕事は、もう少し高く評価されてもイイのでは。
 余談だが、本書には映画のチョイ役的に、多くの興味深い人物が顔を出す。ドン・コザック合唱団に協力した毎日新聞の小野七郎は、戦前の東京日日新聞(毎日の前身)のイタリア特派員で、木村毅の依頼で日本最初の女流洋画家、ラグーザ・玉を取材している。ボリショイサーカスのマジックを見破る企画を「週刊文春」が立てたときに推理を試みたのは、松本清張、戸板康二、円谷英二らだった。
 読み終わって、自分の本棚を見ると、平岡正明『スラップスティック快人伝』(白川書院)と木村東介『不忍界隈』(大西書店)が並んでいる。平岡は、神が資金を出した伝説の雑誌『血と薔薇』を、澁澤龍彦が投げ出したあとで引き受けていて、同書には神彰の小伝が収められている。また、木村は湯島の骨董屋の店主で、神の友人。神の書いた『幻談義』にも登場している。
 神に関わる二冊の本が、隣り合わせにあるなんて。こんな偶然めかした必然もある。
●『虚業成れり』岩波書店、本体2800円。

 

『月刊文藝春秋』
読書鼎談(福田和也・鹿島茂・松原隆一郎)
 昭和から平成へ、栄光と転落を繰り返した伝説の興行師
2004年5月号
松原  『虚業成れり-「呼ぴ屋」神彰の生涯』は、高度経済成長期にソ連からポリショイパレエやレニングラードフィル、ポリショイサーカスを日本に呼んで一大センセーションを巻き起こし、「赤い呼び屋」と呼ばれた神彰の伝記です。海外からアーティストを呼ぶ興行は、今は広告代理店など大企業のプロモーターが行っているけれども、一九七〇年代頃までは個人の才覚でとんでもない大物を連れてくる「呼び屋」がいたんですね。
鹿島  僕の記憶でも、神彰という人は生前からある種の神話でしたよ。ポリショイサーカスがやってきたのは僕が小学四年生の頃で、熊がオートパイや自転車に乗る姿が強烈に印象に残っています。さらに一九六二年に、神彰は作家の有吉佐和子と結婚したものだから、週刊誌でも大変な騒ぎだった。
福田  ポリショイサーカスは正式には「国立ソ連邦サーカス団」という名前だったのに、「こんな長ったらしい名前ではダメだ。もっと日本人の感覚に訴えるように」と、神彰の会社AFA(アート一フレンド・アソシェーション)が勝手に名前を変えてしまった。
 先方は文句を言っていたのに、興行が大成功すると、自らポリショイサーカスと名乗るようになったエピソードには笑いました。
 この本にも出てくる、神彰の下で働いていた康芳雄さんという人に、僕はずっとお世話になっているんです。この人は東大出なんですが、初めてお会いした時、こんなにいかがわしい人がこの世にいるのかと思ってびっくりしました。
「京都に一歩入ったら、一銭も払わないでいいんだ」と豪語していた(笑)。
松原  神彰が「赤い呼び屋」と呼ばれたとおり朝日新聞的な呼び屋だとすると、康芳雄は東スポ的ですよね。「人食い大統領アミン対アントニオ猪木」とか、「謎の類人猿オリバー君」とか、石原慎太郎都知事とは東大の五月祭で講演を頼んだときに知り合ったらしい。その後、石原さんは康さんが仕掛けた「ネッシー探検隊」の総隊長を務めていますが。
鹿島  共産圏からビッグネームを呼ぷという、日本人には不可能だと思われていたことを可能にしたのは、初期のAFAが、神の出身地である函館のコネクションと、満州のロシア語専門学校ハルビン学院の卒業生のコネクションを軸にしていたからなんですね。一九三〇年代の函館には亡命ロシア人が多くいて、函館出身者はロシア人への親近感と大陸への憧れを共有していたし、神が戦前の交通公社の満州支店で働いていた頃に知り合ったハルビン学院の卒業生は、ロシア語での交渉にはうってつけだった。ロシア語遣いは日本からは共産主義シンパ、ソ連からは日本のスパイとして二重に疑われて、非常に辛酸を舐めた人達です。しかし彼らが、戦後の日本人の文化的な飢えを癒す役割を果たしていたんですね。
福田  戦後は特に、ロシア語遣いは潰しがきかなかった。フランス語も同じですが、学んだのに何もいいことがないと、みんなロクでもないことをはじめる。作家の長谷川四郎の、兄の長谷川濬とか、文学者くずれの貧乏なロシア語遣いが集まって、何とか食おうとして呼び屋稼業を始めるくだりには、なかなか興奮させられましたね。
松原  しかし、お金の工面はほとんど詐欺師ですよね。初めてドン・コザック合唱団を呼んだときは、銀行から五百万円借りて、当時マッカーサー元帥が乗っていた高級車クライスラーを買って乗り回し、「大社長」というハッタリをかまして大企業から三千万円を引っ張る。ギャラをドルで用意するために外為法違反を侵して闇ドル交換もする。文化を大衆に普及させる裏では、そういうやり繰りをしていた。まさに「虚業」というダイナミックさです。
福田  当時、ソ連関係の興行は文化使節だから報酬は払っていないと称していたけど、それは外為法違反をくぐり抜けるための方便だったんですね。実際にはソ連大使館からかなりキビシク金を請求されていたんですねえ。
鹿島  ただ、興行の裏にはもっとヤクザとのつながりがあるはずなんですよ。ポリショイサーカスの時に興行先の地元の親分にいちゃもんを付けられて、二百万円払ったということ以外、ヤクザとのやり取りについてはほとんど触れられていません。神彰の本当の凄さ、彼のブラックな部分が描き切れてないんじゃないかな。
福田  確かに、呼び屋にはそういうコネクションが必要でしょうね。康さんがモハメッド・アリと某大組長に挟まれて写ってる写真を拝見した時には驚いたけど。
 ある時期からAFAは財団法人となり、自民党宏池会代表だった田村敏雄をはじめとする錚々たるメンバーが理事や顧問に就いたようですが、政治家との交際の実態についても、肝心なことが書かれていないのは残念。
松原  著者の大島幹雄氏が、今も現役で呼び屋をやっているせいかな。しかし、著者の元上司の大川弘という人物がもともと神彰の下で働いていたので、大川人脈を辿って出会った、当時の呼び屋関係者から取材した話は充実しています。
「炸裂するブラックファンキー」というキャッチコピーで黒人ドラマーのアート・ブレイキーを呼んだら、舞台の袖で小便を振りまいていたとか、「世界の恋人がやってくる」と大変話題になったイヴ.モンタンにドタキャンされた時の打撃とか。興行者にとって公演のキャンセルがいかに大変かがわかる。それでもアメリカに押しかけて、ちゃんと賠償金を取ってくるんだから凄いんだけど。
鹿島  レニングラードバレエやポリショイバレエを観るために、アメリカから大勢の人が日本に来ていたという話も初耳でしたね。冷戦の真っ只中だから、ソ連の団体の、アメリカ公演など考えられなかった。神彰は、世界的に意義のある興行を実現したわけです。
 だけど、有吉佐和子と結婚した頃から、神彰の独断的な経営への不信が高まってAFA幹部が脱退し、三九年にAFAは破産するんですね。同時期に、有吉佐和子ともわずか二年あまりで離婚してしまう。その後、神彰は世間から忘れられていたんです。一九六六年にインディのカーレースを富士スピードウェイで再現する興行で復活したのは知らなかったけれど、この二度目の呼び屋稼業も失敗して、再ぴ転落する。ところがその後、居酒屋チェーン店を起こします。あの『北の家族』の創業者が神彰だったとは・・・・。
福田  二回潰れて二回蘇るというのはとんでもない偉業ですね。前に康さんが「僕は逃げるタイミングと帰るタイミングが分かっているから生き残っている」と話していたんですよ。興行に失敗して逃げないと殺される。でもそのままでは忘れられちゃうから、許されるタイミングで帰ってくるわけですね。呼び屋に必要なこの二つの才能を、やはり神彰も持っていたんでしょう。
しかも、居酒屋チェーンになっても「俺は虚業だ」とあくまでも言い張るのだから、立派です。
松原  『北の家族』での復活の要となった二度目の妻の平野義子という人は、農林大臣を務めた平野力三の娘なんだけど、漢籍の教養と霊感を持っていて、料理が抜群に上手という、かなり特殊な能力を持った女性です。神彰は彼女と出会った日にいきなり老荘思想を説かれて、書を始める。「ふる里を今夜は誰とくみかわす」という『北の家族』の著名な広告のヘタウマのような墨字も、神彰が書いていたというから驚いた。
鹿島  そういう女房と巡り合うというのも、一つの才能なんだろうなあ(笑)。
福田  有吉佐和子と結婚したのもまた運命だったのでしょうね。晩年に一粒種の有吉玉青さんと二十四年ぶりに再会するくだりは泣かせます。

 

「新・調査情報」 TBSメディア総合研究所
「幻を追った」昭和の申し子  木原毅
2004年5-6月号 no.47
 『砂の器』『白い巨塔」のTVリメイクを機に、何十年かぶりに原作を読み返してみた。ディテールに久しぶりに接して、ああまだこんな時代だったんだなと実感したのは日本と海外の距離、である。和賀英良には渡米が重要なメルクマールとして描かれ、盛大な見送りの後、空港で拘束されるエンディングになっているし、財前教授が渡欧する時は、伊丹で壮行会を挙行し万歳三唱。こんな大時代的イベントは当時の空港□ビーでは結構当たり前に繰り広げられていた光景だったのだ。外国は遠かった。だからこそ「外タレ」が価値を持ち「呼び屋」という職業が成立していたのである。
 ライブはおろかコンサートという言葉すら一般的ではなく「実演」なんて呼ばれていた頃でもある。「実演」の「荷」を外国に求めるから「呼び屋」、その草分け的存在である神彰のはそんな毀誉褒貶に満ちた人生を追いかけたノンフィクションが『虚業成れり」である。
 若い人にはこんな戦後もあったことを知っていてほしい。
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 1956年にアメリカからドン・コザック合唱団を呼んで成功するや、今度はソ連からボリショイバレエやレニングラード・フィルを招聘、「赤い呼び屋」と言われ得意の絶頂のなか、有吉佐和子と結婚、2年後に離婚、事業も失敗していったんは表舞台から姿を消す。
 ところが70年代に居酒屋「北の家族」チェーンの経営者として復活。そして98年に亡くなるまで九天九地。全盛期の神と彼をとりまく状況は五木寛之の初期の短編『梟雄たち』を読むのがてっとり早い。著者の大島幹雄も、モデルとなった人物たちを本書の中で列証しながら詳しく解説している。
 神の最も成功した興行はボリショイサーカスだったが、なんとこの「ボリショイ」(ロシア語でグレートの意味)の名付け親は神の仲間たちだったというのには驚いた。国立ソ連邦サーカス団を、ネーミングが大切だと言ってボリショイと書き換えてしまう大胆さ。結果それが本国でも正式名称になったというのだから傑作である。
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 また神の経済活動が顕著だったせいか、これまでほとんど語られてこなかった雑誌『血と薔薇』の創刊と廃刊の顛末にも丁寧に触れているのがうれしい。
 68年から69年にかけて「エロティシズムと残酷の綜合研究誌」として発行、いまでも神田や早稲田の古書店では相当高価な額で取引されているはずであるが(とここまで書いて試しにウェブで検索したらなんと去年復刻されていることが分かった。全3冊で11000円、たぶん原版では1冊がそれくらいだろう)、澁澤龍彦責任編集、執筆陣は埴谷雄高に野坂昭如、稲垣足穂、土方巽、種村季弘という垂涎のオールスターズで、篠山紀信が撮った三島由紀夫のヌード「聖セバスチアンの殉教」が自決を予感させるものとして話題になったりした。この版元が神だったのは知る人ぞ知る事実である。知識や人脈を独り占めしない神の一面がうかがい知れよう。
 晩年、有吉との間に生まれた愛娘・玉青との再会のエピソードは、玉青本人に語らせているだけに貴重な証言である。しかもいい話だ。昭和のさまざまな局面と深く関わった神彰、「青い」とか「幻を追う」という言葉がこぼれるような輝きを持っていた時代の申し子だったんだなと感じずにはいられない。ところで本書に何度も名前が出てくる神の片腕・木原啓充という人と僕とは何の関係もありません。為念。

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