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特 集
国立カザフサーカスと私

国立カザフサーカスの公演は無事終了しました。今回の公演の意義は何だったのだろうか。それを自分なりに整理し、復活を期する国立カザフサーカスの現在を報告します

これまでの国立カザフサーカス関連記事:
クマの公演日誌 2000年9月25日〜10月6日 カザフスタン&韓国編
特集 社会主義国のサーカスの行方
今週のトピックス ツィルカッチがやって来る
クマの観覧雑記帳 国立カザフスタンサーカス「オアシスの妖精たち」

および、クマのお仕事日誌に継続して記述あり。
クマのお仕事日誌過去ログ 2001年3月の15日・18日あたりにもご注目。


 9月28日北九州博覧祭での国立カザフスタンサーカス「オアシスの妖精たち」の公演が終了した。いつものように「ザ・カンチャーニエ」(千秋楽おめでとう)とアーティストひとりひとりと抱擁をかわしながら、公演が無事終わったことを祝う。こんな儀式を自分はどれだけこなしてきたのだろう。でも今回だけは胸にあつくこみあげてくるものがあった。何故なのだろう。それはいくつかの障害を乗り越えてここまできたことの喜び、そしてまだ国立カザフスタンサーカスが、いまもなお自分たちのサーカス場を取り戻すための闘いのなかにいることをアーティストひとりひとりとわかちあっていたからだと思う。
 なぜこんなにもカザフサーカスに入れ込むことになったのか?
 それはいまから一年前この公演の準備と打合せのために、アルマトゥイに行き、そこで国立カザフスタンサーカスが本拠地としていたサーカス場を奪われ、多くのアーティストたちが国立のサーカス団から去って行ったという辛い現状を知り、それでもなお必死になってこの現状に立ち向かおうとしたツィルカッチ(サーカス野郎)がいることを知ったからだと思う。

 あの日ローマの兄貴、ジギドの名手シューリクが、ハーリック(国立カザフスタンサーカス総裁)のために乾杯をしたい、いま彼はサーカス場を奪われ、苦境にたたされている、多くのアーティストは国立のサーカス団を去って行ったが、子どもの頃から世話になった彼のために自分はなにかをしたい、そしてサーカス場を取り戻そうとスピーチした時、不覚にも私は大泣きしてしまった。そして一緒にアルマトゥイに来た今回の博覧祭のプロデューサー吉本興業の田中氏に、このスピーチを訳すことができなくなってしまった。
 金のためでなく、純粋にサーカスを愛する人たちが、自分のボスを助けようとするその心意気に、胸をうたれた。

 自分はサーカスの呼び屋として二十年以上働いてきた。サーカスを飯の種にしている。いろいろなアーティストたちと付き合い、サーカスの本を読み、サーカスのことを書き、も出してきた。サーカスは自分にとっては皮膚と同じ、なくてはならないものだと言ってきた。でもどこかでサーカスの世界に甘えてきた、サーカスを利用してきたところもあったように思える。長年サーカスと付き合ってきたなかで、垢がたまっていた時だったのかもしれない。
 そんな時のシューリクの純な言葉は、胸に滲みた。サーカスを愛する人がそばにいる、そして闘っている、自分になにができるのだろうか。一緒に闘いたい、そんな気持ちが湧いてきた。自分ができること、それは今回の北九州博覧祭、エクスポに派遣されるサーカスは、すべて国立カザフスタンサーカスを通して契約するということを貫くことだった。それは苦境にある、国立サーカスを救うひとつ手だてになるはずだった。

 闘いはすぐに始まった。現在かつての国立サーカスが本拠地としていたサーカス場を経営するスミルノフが、妨害工作をしかけてきた。北九州博覧祭公演のひとつの目玉といってもいい、オリエンタルアクロバットは国立を離れ、スミルノフのもとにあった。私がアルマトゥイから戻ってきてから、一カ月後にオリエンタルアクロバットのリーダーのムィシナから英語でファックスが届いた。(彼女は英語ができない、すべてスミルノフが諮ったことだろう)われわれはスミルノフのもとで働いている、今回の日本での公演はすべてスミルノフを通してやってもらいたいというものだった。こうした妨害があることを予想しなかったわけではない。すぐにすべては国立サーカス、ハーリックを通してやると返事をした。ただ目玉商品だっただけに、躊躇もあった。ハーリックの番頭格で兄弟分のローマにこんなファックスがきたと連絡した。連絡はすべて電話にした。この時国立サーカスはファックスでの交信もできない状況にあったのだ。
 ローマは、大丈夫だ、ムィシナはもうひとつのグループをもっている、それを日本に派遣すると言ってきた。この時ひとつ覚悟をしていた。ムィシナのグループは日本に来ないことも、ありうるかもしれない、ということを。
 実際にこれがはっきりしたのは、今年の4月のことだった。
 これは自分にとってはかなり厳しい事態だった。予想はしていたとはいえ、どう処理するか。田中氏に報告する時に、いくつかの対応策を準備しておかなければならない。

 実はローマもそれ以上に大変な状況にあった。参加するメンバーから反発をくらっていたのだ。日本での仕事は、たった一カ月の仕事、アーティストのもとには一年契約のオファーも来ていた。日本での仕事をキャンセルしたいという声も出始めていた。
 ローマと私の闘いのピークは、この時だったのかもしれない。
 ローマは日本公演を、北九州博覧祭での公演を、大事した。それはもちろん私との友誼があったと思う。そしてもうひとつはエクスポに参加できるのは、国立サーカスだけだということをカザフの関係省庁に訴え、サーカス場を取り戻すひとつの手だてにという思惑もあった。
 私は私で北九州以外での仕事を探しはじめた。そしてギャラも当初約束していた金額よりあげることを提案した。

 この時ローマは大事な友人のひとり、日本にも来たことがある空中アクロバットのペーチャを事故で亡くしている。そして自分もストレスと胃痛のため入院するハメになる。
 ローマはムィシナのオリエンタルアクロバットの代わりに、キルギスの4人のオリエンタルアクロバットを提案してきた。そのビデオが届いた。アクト自体はなんの問題もなかった。問題はムィシナたちのセカンドアクト、縄跳びアクロバットをどうするかだった。ローマはムィシナの教え子で、今回コントーションと空中アクロバットで参加するオリガとオクサーナと、このキルギスの4人を特訓して、縄跳びの番組をつくるといってきた。
 賭けるしかなかった。ローマの提案を飲んだうえ、田中氏と相談のうえ、北九州博覧祭の事務局にいき、経緯を説明し、番組変更の了解を得る。そして田中さんの強力なプッシュで、ローマたちの北九州博覧祭のあと大阪のNGKでの仕事も決まる。


 打ち上げの時、私はこう言った。国立カザフスタンサーカスと私の関係は、インペリサリオ(呼び屋)とサーカス団の関係ではない、もう私は、あなたたち、国立カザフスタンサーカスの一員なのだと。ほんとうにそうだと思っている。

 サーカス場を取り戻すための闘いはまだ続いている。
 もともと文化省が管理している国立カザフスタンサーカスは、経済が自由化されてからほとんど資金的な援助を得ていない。ただ第3セクターのような機関『アスコナフォーディング』を通じて1997年から20年間サーカス場を国立カザフスタンサーカスが使用することを文化省は命じている。しかし当時の文化大臣とアスコナフォールディングは、この決定を無視して、スミルノフにサーカス場を売却してしまったのだ。

 サーカス場を失ったことは、国立サーカスにとっては決定的なダメージとなった。多くのアーティスト(およそ160人)のほとんどは、スミルノフと契約を交わし、ハーリックのもとに残ったアーティストはわずか10数名だった。サーカス場を失うことによって、ハーリックたちは定期的な収入源を失い、映画館や劇場をかりながら細々と公演を続けるしかなかった。
 ただハーリックは自分たちの正当な権利、サーカス場は自分たちが20年間使用できるという決定を無視したものだと、関係省庁に訴える。彼は諦めなかったのだ。幸い文化大臣がかわり、ハーリックの主張が正しいことを認めた。これは今回のメンバーが来日する直前のことだった。ハーリックはこの会見で、私たちの正しい権利が奪われ、国立カザフスタンサーカスは壊滅の危機に面したが、幸いなことに日本の古くからの友人が、日本で開かれるエクスポの仕事を依頼してきて、我々を支えてくれたと言ったという。これに対して文化大臣は、国が何も援助できなかったことを恥ずかしく思うと語ったという。

 国立サーカス側にとって、事態は好転しはじめている。しかしいまサーカス場を経営するスミルノフは、多額の金をつぎ込んでいる。彼がそう簡単に引き下がるとは思えない。最終的にはお金がものをいうことになると思う。一番厳しい闘いがまだ残っている。ハーリックは、かつて私をタシケントからアルマトゥイまで運んでくれたベンツをはじめ、自分の財産を売りつなぎながら、懸命な闘いをしている。
 いつ決着がつくかはわからない。私ができることは微々たることだ。でもツィルカッチたちの側に立って、できる限りのことはしたい。
 サーカスは、決して自分のためだけにやっているのではない、人を喜ばすためにやっているのである、そのために命を賭けている男たち、女たちがいる、そんな人たちが愛しているもの、大事にしているもの、それを守ること、それがほんとうのツィルカッチではないだろうか。
 私にとっては、人ごとではないのだ。自分もツィルカッチのひとりであることを確かめるためにも・・・


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