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【連載】クラウンを夢見た人たち−クラウンカレッジ卒業生のその後を追う

第2回 劇場クラウンへの道――オープンセサミ

 1回目にとりあげたダメじゃん小出は、ストリートでも活躍しているが、いま舞台にこだわりを持ち、そこを自分の拠点としようとしている。CCJの卒業生で、舞台にこだわりもち続けている人たちがもう一組いる。オープンセサミである。ロネとジージという女性ふたりのこのコンビは、CCJ卒業後すぐに結成されたのだが、終始一貫劇場クラウンとしての道を歩んでいる。
 2回目は、劇場クラウンの道をめざすふたり、オープンセサミをとりあげることにした。オープンセサミとも旧いつき合いになる。インタビューのなかにも出てくるが、彼女たちにとってひとつの岐路となった、モスクワ行きのきっかけは、自分がつくったわけだから、もう10年以上になる。
 とはいうもののこうしてふたりと話をしたのは、実に久し振りのことであった。

CCJに入ったきっかけ

「まずはCCJに入ったきっかけを教えてください」
ジージ 「当時芝居の勉強をしていました。その頃は夢の遊民社とか第三舞台とかが注目されていたのですが、まるでセリフの洪水みたいな芝居で、セリフのない芝居ってどんなもんだろうという興味があったのです。NHKでやっていたチャプリンの短編コメディとかみるのが好きでしたし、マイムを習ったときに、小谷野先生の授業なんかも受けていたので、道化師には興味はありました。それでCCJの広告を見て、応募しようと思ったのです。ミュージカルの劇団に一時所属したのですが、それを辞めたときだったと思います。」
ロネ 「私の場合は、それまでずっと芝居をやっていたのですが、芝居のすじが悪いっていうか・・そんなときに小谷野先生のところでワークショップを受けました。小谷野さんの授業は、とにかく痛いってという印象しか残っていないのです。激しく自分自身のあり方を突き詰めていくので、痛かったのは身体ではなく「心」「精神」の方でした(笑)。ちなみに、自己像の抱き方の著しく違うフランス人が作ったこのシステムの学習方法は、日本人で向いている人は少なく、大抵、苦しすぎて心療内科の世話になるか、心が壊れて役者を辞める人が多いようです。ただこれをやらないと役者として生き残れないのかもという切羽詰った気持ちで取り組みました。芝居をやるんだったら、クラウンが出来ないと、言われましたから。
自分も北京雑技団の公演を実際に見たり、NHKで放映していた世界のサーカスなんかもよく見ていたし、アクロバッティックなことにも興味がありました。CCJの前には、三橋さんの無言劇カンパニーの資料も取り寄せていたのですが、マイム科以外はクローズしていました。それでぴあでCCJの広告見て、入ろうと思ったんです。私は二期生です」
「ふたりは同期じゃないんだ、どこで接点ができたのですか?」
ジージ 「一期が終わってから、CCJに残って、運営の仕事をしていました。」
ロネ 「そうなんですよ、ジージが先生みたいなもので・・」
ジージ 「先生というか、その時は先生と生徒の間の橋渡しみたいなものですけど」
ロネ 「私はダメな生徒で、CCJでは浮いていたような存在でした。ですから仕事もなかなかまわしてもらえず、自分でイベント会社なんかに売り込みとかしていました。そんな時に、花博の仕事があって、そこでふたりでやっていこうみたいな感じにはなっていました」

 ふたりとも小谷野さんの授業を受けていたこと、そしてそこでクラウンについての予備知識を得たというのは、面白い。小谷野先生は、ルコックのマイム術を学び、パントマイムを演劇の現場に取り入れることに熱心であったし、クラウンについても意欲的に授業のなかで紹介につとめておられた。芝居の世界からクラウンに近づいてきた人は、わりと多かったと思うのだが、単に技術を取り入れるだけでなく、小谷野先生の授業を受けるなかで、クラウンの世界を今垣間見ることができたのかもしれない。

劇場クラウンとしての出発点――少年院での公演

「花博が終わってからふたりで、一緒にやっていこうと思ったわけ?」
ロネ 「そうですね。結構気も合ったし・・」
ジージ 「ただその時は、お互いにいつか芝居の世界に戻ろうかという気持ちはあったと思います、ですから芝居の方で一緒にやろうかという気持ちでいたと思います」
ロネ 「それがクラウンでやっていこうと思うようになったのは、やはりモスクワのシアタークラウンフェスティバルに行ってからだよね」
「あれはいつだっけ?」
ロネ 「1991年の秋です」
ジージ 「300組のクラウンの公演を目のあたりにしたわけです。それも全部劇場でやっているクラウンです。衝撃でしたね。この時の体験が、私たちの原点になっていると思います。」
ロネ 「落ち込んで帰って来たよね。理由は、クラウンだけでなく劇場文化全体が生活に浸透しているのを目の当たりにして、自分達が日本で劇場でのクラウンという分野で果たしてやっていけるのだろうか、という日本の劇場文化にたいしての漠然とした不安感だったように思います。劇場専門のクラウンがあれだけの数いるというのも衝撃でした。ただ、クォリティーに関しては、行く前は、彼の地のクラウンは雲の上の人たちでみんなミミクリーチのレベルと思い込んでいたのですが、いざ行ってみると、レベルはいろいろで当時の自分たちから見てもひどいものがあったりして、同じ「人間なんだ」と妙に安心した部分はありました。」
ジージ 「その年の暮れに、多摩の少年院で公演したこと、それが決定的だったですね」
ロネ 「14才から18才の子たちが収容されていた少年院だったのですけど、IQの高い子が多かったらしいんです。だから結構やる前プレッシャーを感じましたよ。そんなにネタがあるわけじゃないじゃないですか、バルーンとか、ジャグリングとかでショーをつくったのですけど、とにかくみんな喜んでくれて、なにやっても笑ってくれたんです。どっちへ行こうか迷っている時だったのですが、あの笑い声が、クラウンをやりなさいと後押ししてくれたような気がします。感動したっていう感想文をあとで読ませてもらいましたけど。あれで「クラウン」として、やっていける自信がついたと思います」
ジージ 「なにか人の役にも立つんだっていうのもあったし・・」
「それで、もう芝居には戻らないって、ということになったわけだ。でも劇場になぜそんなこだわっているの?」
ジージ 「クラウンというとやはりサーカスですよね。サーカスのクラウンじゃないもの、劇場クラウンの道はないかなって、それを見つけようとしている、最中だと思うんですね。自分たちは、芝居をやってきているじゃないですか。なんか閉鎖的な感じがするんですよね。エネルギーが外に出ていかないっていうか・・。大道芸だと逆ですよね。ただ劇場っていうのは密な世界でもあって、緊張感もあるわけです。そうした微妙なものが伝えられるのも劇場なわけで、サーカスのクラウンとは別の方法論があるんじゃないかと思うようになったのです。もちろんゴールは同じなのかもしれないけど。クラウンって自由ですよね、そんな自由さのなかで、芝居のなかでつくられるドラマをつなぎ合わせるというところ、そんな緊張感を楽しんでいるのかもしれません。」
ロネ 「自分の場合は、ジージと少し違います。昨年あたりが、芸能生活40周年だったのですが(笑)、自分は生まれてすぐから建て変わる前の新橋演舞場の楽屋で育ち、初舞台が6歳だったんですね。なので、劇場の舞台も楽屋もが保育園だったような感じで。家族の縁が薄かったり、実際に生まれ育った場所が消えているということもあり、私にとって、故郷と感じる唯一の場所が劇場なんです。絵に描いたような根無し草稼業で、だから、そのとき自分の目の前にいるお客さんが家族、劇場の自分の立っている場所がホーム、という感じなので、「こだわる」というより「そこにいるのが一番自然」という感覚のほうが近いです。」
「いままでふたりでどのくらいの作品をつくっているの?」
ジージ 「国内の劇場公演が22本、海外12本、軍資金が底を尽き劇場でできなかったときにライブハウスで細々60分くらいの作品を継続した分が5本くらい、合計すると39本くらいになるみたいです。オムニバスの場合は1公演がだいたい10個弱くらい。道具や衣装まで作った後に没にしたネタはおそらく軽く100は越えていると思います(苦笑)」

 演劇に戻ろうと思っていたふたりが、少年院の公演で自信をつけ、そこでクラウンの道を進むことを決め、さらには劇場クラウンという、まだ誰もやっていない方向でやろうと決めたこと、この潔さはたいしたものだと思う。しかも劇場作品をつくるのに、ふたりはとんでもないエルネギーをつかい果たすことになるのである。

ロネ 「去年あたり、まじに死ぬことを考えたことがありますよ。劇場作品をつくるとお金がかかるじゃないですか、それでいて収入はあまり期待できないわけで、借金がずいぶんかさんじゃって・・、それこそ街金融に走ったりとか、支払いで追いまくられていました。『借金の踏み倒しかた』なんて本を買ったりとか、結構たいへんな思いをしました」
ジージ 「劇団だと年に何本か新作をかけるわけですよね、そういう風につくっていたのですが、それでもたいへんなのに、あちこちのフェスティバルから声をかけてもらった、多いときなんか、1年に6本かけたこともあります。」
ロネ 「そうすると、もう制作のことだけで頭が一杯で、この先なにをやりたいのか展望がなくなってきちゃうんですよね。いまですか? まだ借金はありますけど、だいぶ身軽にはなりました」
「作品はどんな感じでつくるわけ?」
ジージ 「最初の頃はふたりでつくっていたのですけど、やはり制作のことなんかもあるので、私が本を書いて、演出して、ロネが制作を担当ということになってます」
ロネ 「ほんとうはふたりでつくるのがいいとは思うのですけど、制作を手伝ってくれるようなイベント会社もないし、しかたないですよね」
「でも劇場ものでは食えないでしょ、なんで食っていたの?」
ロネ 「最初の頃は結構仕事があったんですよ、バブルも終わったころだったんですけど、それこそバイトしなくてもふたりで営業の仕事だけで、食べていけました」
ジージ 「でもだんだん仕事がなくなってきて、それで94年頃から教えることを始めたんです。CCJでやっていたことを、塾のような感じで、教えようということになりました。」
ロネ 「多いときは10人ぐらいの生徒が集まったときもありますけど、2人とかいう時もあって、結局バイト始めたんだよね。」
ジージ 「4−5年やったよね」
ロネ 「ただ劇場での作品を舞台にかけていくなかで、クラウンやっている人たちからは、クラウンじゃないんじゃないと言われ、芝居やっている人から、芝居じゃないじゃないって、迷った時もありました。」
ジージ 「そんな時に、ノーラ・レイとサリー・オーウェンの『難破船』を見たんです。あれは衝撃でした。ふたりともクラウンのメイクしているわけじゃないし、ジャクリングやアクロバットをするわけでもない、ふたつのキャラクターのやりとりから、クラウン的なものが見えてくるわけでしょう。こんなクラウンもあるんだと勇気を与えてもらいました」
ロネ 「いつも迷っているとき、ノーラに相談して、なんか力を与えてもらっている、そんな感じがします」
「ノーラと会ったのは、いつ?」
ロネ 「日本で『アッパーカット』を見たあと、アメリカでノーラと会いました。97年だったと思います。」
ジージ 「続けていくなかで、日常にあるクラウン的なもの、ごくごくあたりまえの、身の回りにあるような世界のクラウン的なものを表現したいと思っていたんですね。日常のなかにある、クラウン的な身振り、ニュアンス、そんなものが作品のなかで、でてきたら成功かなって。だから『難破船』を見て、衝撃を受けたわけですよ。」
ロネ 「ジャグリングとかアクロバットができなくでもいい、芝居に逃げるんじゃなくて、それこそ自分たちの引き出しにあるありったけなものを出して、つくれるわけですよね。だからノーラにはとにかく自信もってやれよという感じで後押しされています。
 それとこれはモスクワで出会ったモスクワ芸術座の演出家・俳優オレグ・タバコフが言っていたことなのですが、「優れた俳優だけがクラウンになることができる。だからこのモスクワ芸術座にはクラウンになりたかったけどなれなくて俳優になったり演出家になった人がたくさんいる」という言葉が忘れることができません。日本ではあまり浸透していないのですが、演技しているように見えない芝居の技術という、「芝居の技術の高さ」がクラウンの必須条件であることはこのときに学んだ気がします。「芝居に逃げる」という言い方もされますが、「芝居は逃げられるほど簡単にはできない」と今でもその難しさに苦労しています。」

 私が勤務するACCは、1990年から世界のクラウンを紹介しようということで、ディミトリー、ミミクリーチ、デュオ・アリンガを呼んで公演したのだが、女性クラウンをやってみようということで、ディミトリーの紹介され、呼んだのが、イギリスのノーラ・レイ。最初に演じてもらったのは、卓越したマイムの技術、そしてイギリス的なブラックユーモアと、皮肉、諷刺のエッセンスがつめこまれた「アッパーカット」だった。オープンセサミのふたりが衝撃を受けたという『難破船』が上演されたのは、1998年の秋。この公演は確かに、世界のクラウンシリーズでは異質のものだった。たまたま船で同じ部屋になった二人の女性の葛藤が、濃密な空間で演じられたもので、芝居にとても近いクラウン劇だった。演劇関係者からは高い評価を得ることになった。確かにオープンセサミにとって勇気を与えるたとになったというのはよくわかる。
 さてオープンセサミは、舞台での活動の他に、これからクラウンになりたい、あるいはクラウンの技術を学びたいという人たちのために、教室を始める。この教えるというのもふたりにとっては、大きな意義をもつことになったようだ。

「さっき教室をやっているといっていたけど、いまも続いているの?」
ロネ 「はい、続けています。クラスがふたつあってプロコース、これは大道芸や芝居、クラウンになろうと思っている人たちのためのコースで、その他にホビーコースというのがあります。これは主婦とか、介護医療に携わっている人とか、趣味としてクラウンニングを学びたいという人のためのコースです」
ジージ 「このホビーコースというのが、面白いんだよね。さっき日常的なクラウンを表現したいといいましたけど、このコースで、いろいろやっているのを見ると発見があります。同じテーマを与えているはずなのに、実際やってみるとどこかすれ違いがあったりとか、そんなことがよくあります。クラウンって誰にでもなれると思うのですが、それはこのコースをやっていてよくわかります」
「これからの抱負っていうか、やりたいことってなんなんだろう?」
ジージ 「『銀河鉄道の夜』とかありますよね。ああいう日本発のものをやってみたいなあと思います。大人が読む童話、そんなものができたらいいですね」
ロネ 「いまやっている劇場公演を自立させたいですね。それが結局クラウンの良さを広めることになると思うですよ」
ジージ「そうですね、自分が思うに、クラウンって応援団だと思うです。いまがんばっている人たちに、明日もがんばろうってそんな気持ちにさせる、そんな人たちに自分たちのやっていることを見せたいです。だからいまやれること、それは自分がやりたいこと好きなことをつくって、それを見て共感してくれる人を増やしていくことかなあって、思っています」

 女性ふたりで、クラウンの劇団をつくり、莫大な借財を背負いながら、作品を発表し続け、さらにはクラウン塾もつくり、今年から会社組織にしと、ほんとうによくがんばっていると思う。それも劇場クラウンという、まだ誰もやっていないところで、ある意味で頑にその道を進もうというその意気はたいしたものである。演劇とクラウンを結びつけるという作業は、日本では未開拓の分野のことであり、ふたりの模索はまだまだ続くのだと思う。3月にはモスクワのサーカス学校でクラウンを学んだYAMA、そしてキエフのサーカス学校でマイムを学んだMiccha、そしていつか取材したいと思っているCCJ卒業生のビリと一緒に「クラウンタイム」の公演をするという。ロネとジージは、自分たちの原点はモスクワにあるという。ロシアやウクライナというテーストになじんだクラウンたちが、つくるこんどのショー、ぜひみてみたいと思っている。
 これはインタビューのとき、ふたりには言わなかったことなのだが、ボケのロネ、そしてつっこみのジージというコンビは、いい味だしていると思う。もちろん劇場クラウンというなかで、舞台をつくりたいという気持ちはよくわかるのだが、このふたりのコンビでの、シンプルなクラウンコントをもっともっと見たいような気がする。女性だけのデュオのクラウンというのは、なかなかないだけに、いろんな可能性があるような気がするのだが・・・。

 なお3月の公演は、18日から3日間、中目黒のウッディシアターで行われる。詳しくは、オープンセサミの公式HPを!


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