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【連載】サーカス漂流

最終回 『ボリショイサーカスを最初に呼んだ男−神彰』

 来年1月私の5冊目の本が岩波書店から刊行されることになった。タイトルは、「虚業成れり−「呼び屋」神彰の生涯(仮題)」、呼び屋の大先輩にあたる神彰(ジン・アキラ)の評伝である。中年以上の人だったら、どこかで名前を聞いたことがあるかもしれないが、若い人たちにはほとんどなじみがない人物だろう。神彰こそ日本に最初にボリショイサーカスを呼んできた男なのである。
 1958年来日したボリショイサーカスは、クマのショーが人気を呼び、大ヒットする。ソ連と交流のなかった時代に、赤い壁を乗りこえて、ボリショイサーカス、ボリショイバレエ、レニングラードフィルなどを呼び、興行界に旋風を巻き起こした神彰は、「赤い呼び屋」として、一躍マスコミの寵児となる。評論家大宅壮一は、まったく無手勝流で数々の興行を当てたこの若者のことを「戦後の奇跡」と称してさえいる。彼はもともと興行のプロだったわけではない。画家を目指していた神彰が、呼び屋に生まれ変わるきっかけをつくったのは、一曲のロシア民謡だった。

 函館で生まれた神彰は、高校を卒業したあと満州に渡る。終戦後帰国した神は、高校時代からの夢であった絵描きの道を歩むべく上京する。画家として芽をだせないままくすぶっていたころ、唯一の慰めとなっていたのは、満州帰りの仲間たちと酒を飲み交わすことだった。ある日ロシア語が達者な仲間のひとり長谷川濬(しゅん)が歌う「バイカル湖の畔」を耳にし、神は心を揺さぶられる。漂白する魂のこだまが胸にしみた。静かに目を閉じ、聞き入っていた神は、突然立ち上がり「誰がこの歌を歌っているか」と尋ねる。長谷川は、「この歌の真情を一番よく知っているのは、革命後故国を追われ、流浪の旅を続けるドン・コザック合唱団しかない」と答える。神は、「それだよ、シュンさん! ドン・コザック合唱団を日本に呼ぼう」と叫ぶ。
 神は、ニューヨークに住むこの合唱団の指揮者セルゲイ・ジャーロフに手紙を書く。戦後の荒廃のなか、うちひしがれている日本人に勇気を与えるのはあなたたちの歌しかないという神の訴えは、ジャーロフの胸に届く。ジャーロフはすぐに契約書を送くるようにと返事してきたのだ。これはまさに奇跡といっていいだろう。さらに神はこの契約書を持って、銀行から多額の資金を融資してもらい、さらには新聞社と主催契約を交わすことになる。興行のイロハもしらない男は、とうとうドン・コザック合唱団を日本に呼ぶことに成功する。1956年来日したドン・コザック合唱団は、日本人の心をとらえる。全国にドン・コザックブームが広がるなど、社会的な現象にまでなった。神彰32歳の時である。
 呼び屋に生まれ変わった神が次のターゲットとして狙いを定めたのは、まだ国交のなかったソ連だった。ソ連には、バレエ、オーケストラ、サーカスなど海外にまだ出ていない「幻」のアートがたくさんあった。「幻」を実現するために、神がまずしたことは、大使館(当時は領事部)に日参することだった。毎朝9時に車で乗り付け、文化交流の話をしたいという神の申し出に対して、受付の女性の答えはいつも「ニェート(ノー)」だった。しかし3週間後突然鉄のカーテンが開く。こうして神は、ボリショイバレエ、レニングラードフィル、ボリショイサーカス、レオニード・コーガンを日本に招聘する権利を手にする。誰も不可能だと思っていた奇跡がおきたのである。神彰は、「赤い呼び屋」として、興行界の頂点にたつことになった。
 神彰こそ、「呼び屋」の中の「呼び屋」であった。チェコフィル、チェコサーカス、アート・ブレイキー、イベット・ジロー、北京京劇団、北京雑芸団、シャガール展、ピカソ展など、さまざまなジャンルのアートを日本に立て続けに紹介し、話題を集めることになる。私生活でも、売れっ子の女流作家有吉佐和子との電撃結婚など、マスコミをにぎわせていた。昭和30年代高度経済成長時代を突っ走っていた日本のなかでも、ひときわ輝いていた男だったといえよう。
 しかし神彰が呼び屋として栄光を手にした時代は、長くはなかった。離婚、会社の倒産、莫大な借財を抱えて、新たに別会社を興すものの、何年ももたず、再び倒産、「呼び屋」神彰は忘れられた存在になっていく。
 しかし神彰の伝説はこれで終わらなかったのである。彼は、「飲み屋」として蘇る。「北の家族」という居酒屋チェーン店を興し、居酒屋ブームの火付け人となり、莫大な財をなすのである。
 彼の人生は、栄光からどん底へ、どん底から栄光の繰り返しだった。

 二足のワラジでもの書きをはじめたころから、「呼び屋」の大先輩である神彰のことをいつか書きたいと思っていた。いつか話を聞きに行こうと思っているうちに、神彰は1998年5月亡くなってしまう。本人の話を直接聞かずに、評伝を書くのはどうかという気もしたのだが、神彰という「幻」は私の心から消え去ることはなかった。そして亡くなった翌年、かつての同僚や部下を回って話を聞くことから取材がはじまった。函館に行き、同級生や親戚の人たちから話を聞いた。自分のなかで、神彰の人間像が確かなものになった時、執筆をはじめた。取材してから3年の時が経っていた。問題は、出版業界が厳しさを増すなか、これが果たして本になるかということだった。いままで4冊の本を出しているが、正直言ってどれも売れないものばかり、いまではすべて絶版になっている。こんな著者の本を出す出版社はないだろうと思った。出版社に相談するよりは、まずは発表する場をつくることが先決だろうということで、自分のホームページ『デラシネ通信』を開設し、ここで連載をはじめることにした。
 これが予想を越える反響をもたらしてくれた。読者からさまざまな情報が寄せられたのだ。「北の家族」で神の側近として働いていた人、呼び屋時代に神が出演した番組を担当していたテレビ局のプロデューサー、さらには生死さえわからなかった神のかつての同僚の所在を教えてくれた人などが次々に現れた。これが大きな励みになった。さらにこの連載を読んでくれた出版社の人が、本にすべく企画を立ててくれ、ついに一冊の本になることが決まったのだ。
 今回の一冊はホームページから生まれたと言ってもいいかもしれない。
 函館の少年時代、満州での青春時代、そして昭和の時代を席巻させた呼び屋時代、倒産、離婚と続くどん底時代、不屈の精神で蘇り、『北の家族』を立ち上げてから、晩年までと、昭和という時代を駆け抜けるように生きた神の生きざまは、きっと多くの人に勇気を与えてくれるはずだ。
 出版されたあかつきには、ぜひ読んでもらいたい。来年1月下旬には本屋さんに並ぶ予定になっている。


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