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【連載】ツィルカッチたち−アリーナの片隅で

第2回 ロシアサーカス物語その2
『ドゥーロフの豚』

 ニキーチンサーカスでも大活躍する、道化師のドゥーロフは、風刺を武器に観客から圧倒的な支持を受けていた。映画『レスラーと道化師』のモデルにもなったドゥーロフの生涯を追う。


 モスクワのさしずめ武道館にあたるコンサートホール『オリンピックスタジアム』の近くに、ドゥーロフ通りと呼ばれる小さな横町がある。この通りは、ロシアサーカスのお家芸のひとつ、動物ショーの基礎をつくったウラジーミル・ドゥーロフを記念して命名されたものだ。動物たちを意のままに操り、芸をさせるだけでなく、動物のキャラクターを生かした道化芝居を演じ、権力を笑いとばしたドゥーロフは、ロシア・ソビエト時代を通して、庶民から圧倒的な支持を受けていた。
 またドゥーロフは、チェーホフやゴーリキイなど、多くの作家たちとも交流を結び、彼らの作品にも少なからず影響を与えていた。今回はロシアで初めて国民的英雄となったサーカス芸人ドゥーロフをとりあげてみたい。


 ウラジーミル・ドゥーロフが生まれたのは一八六三年、当時の芸人としてはめずらしく貴族の家に生まれた。のちにやはり道化師として一世を風靡する一歳ちがいの弟のアナトーリイと共に士官予備学校で学んでいたが、たまたま街の定期市でみたサーカスにすっかり心を奪われ、弟と一緒に親の反対を押し切って学校を退学、見世物小屋や旅回りの一座を転々としながら、さまざまなジャンルの芸を学んでいくことになる。弟のアナトーリイとは、一緒にステージに立つこともあったが、プロの芸人としてデビューする頃から、ふたりは別々に行動をとり、のちには同じような芸風からか、互いに強烈なライバル意識をもち、しのぎをけずる関係となる。
 十六歳になってプロの芸人となったウラジーミルは、最初は力技や動物の物真似、手品、似顔絵かきなどを演じていたが、一八八七年から調教した動物を自在に操り、さまざまなコントを演じるという新しいタイプの芸をつくり、これにより大スターへの道を歩むことになる。ドゥーロフのファンのひとりチェーホフは、彼の十八番の豚の芸について、こんな回想を残している。

 「指図に従って踊ったり、ブウブウ鳴いたり、ピストルを撃ったり、モスクワのどの豚も真似のできないことに、新聞を読んだりするのだ。」

 チェーホフが見たこの芸では、豚はただ新聞を読むだけでなく、目の前にさしだされたいろいろな種類の新聞を次々に気に入らないとでもいうように読むのを拒否するような仕草をするが、最後に出された『モスクワ報知』にだけは興味を示し、うれしそうに尻尾をふりながら、ブウブウ鳴いたという。
 このドゥーロフの豚は、ロシア国内だけでなく、ヨーロッパ各地で人気を集める。サーカスの人気者であった馬や象ではなく、豚という家畜をつかったところにドゥーロフのユニークさがあったのだが、彼の芸の真骨頂は、豚を社会諷刺の道具にしたところにあった。その諷刺もなまやさしいものではなかった。そこには反権力の激しい刃が秘められていた。そのために彼は何度となく、当局からにらまれ逮捕されることになる。ドゥーロフの反権力の姿勢は、国内だけにとどまらなかった。

 一九○七年ドイツを巡業中に、ドゥーロフは、よりによって時の皇帝ウィルヘルム二世を侮辱した罪で逮捕されている。
 ドゥーロフはドイツ将校の帽子(彼はこれをヘルム[ドイツ語でヘルメットの意]と呼んだ)をサーカスのリングの真ん中に置いた。すると豚が出てきて、それを取ろうと走ってくる。腹話術をつかって、ドゥーロフは豚が登場するとき「私はヘルメットが欲しい」とドイツ語で言っているように見せた。これをドゥーロフは、ドイツ語でゆっくりと「イッヒ・ウィル・ヘルム」といった。観客の耳には、「イッヒ・ウィルヘルム」(私はウィルヘルムだ)と聞こえる。これはもちろん当時の皇帝ウィルヘルム二世のことを指して言っていることは誰にでもわかった。観客はヤンヤヤンヤの大喝采を送った。ドイツの官憲もドゥーロフのいわんとしたことがわかった。ドゥーロフは不敬罪で逮捕され、直ちに国外追放されている。
 こうしたドゥーロフの反権力をばねとした社会諷刺は、のちにラザレンコ、ビム−ボム、カランダーシュといったソビエト時代に活躍する道化師たちに受け継がれていくことになる。

 ドゥーロフの芸にはやくから注目していたチェーホフが、ドゥーロフから聞いた話をもとに小説を書いていたことは、あまり知られていない。チェーホフの初期の傑作短編『カシュタンカ』にまつわるエピソードをここで紹介しておこう。
 『カシュタンカ』は、主人からはぐれた一匹の犬が、サーカスの調教師に拾われ、さまざまな芸を仕込まれて、初めてサーカスに出されたところで元の主人にみつかるという話なのだが、ドゥーロフによれば、彼がチェーホフに話したひとつのエピソードが、この話の下敷きになったという。
 ドゥーロフは『私の動物たち』という回想録のなかで、こう語っている。

 「カシュタンカは、栗色をした子犬でした。私が最初に芸を仕込んだ犬です。この犬を飼っていたのは家具職人でした。カシュタンカは迷い、主人を失い、最後に私のところに転がりこんできたのです。この犬の話が、チェーホフの『カシュタンカ』のもとになっているのです。私はこの話をチェーホフに教えてあげたのです。」

 一九三四年に亡くなったウラジーミル・ドゥーロフの亡骸はゴーゴリやチェーホフのような著名な文化人が眠るノヴォセビィチ修道院の共同墓地に納められ、墓には、生前を偲ぶように、肩に猿をのせた三メートルほどの立派な銅像がたてられている。
 いまから四十年近くまえに、たまたまモスクワを訪れた演劇評論家の尾崎宏次氏は、チェーホフやゴーゴリの墓を訪ねた時に、偶然みたこのドゥーロフの墓に大きな感銘を受ける。そしてこの出会いから、日本で最初のサーカス研究書といってもいい『日本のサーカス』が生まれることになる。尾崎氏は、『日本のサーカス』のあとがきで、こう書いている。

「日本のサーカスのことを調べてみたい、という気持ちがおきたのは、正直なところ、一昨年六月モスコーにいたときであった。というとすこし妙に聞こえるかもしれないが、じつは、芸術家の共同墓地に、りっぱな動物調教師デューロフの墓がたっているのをみたときからである。・・・私はそのとき、チェーホフやゴーゴリといっしょにこの土地に埋まっているモスコーサーカスの創始者のことを想って、胸があつくなった。―これが、こういう本をまとめてみたいと思った私の直接の動機である。」

 いまでもドゥーロフ横町の角には、生前彼が住んでいた館を改築した彼の記念館がある。またドゥーロフが一九一二年に開園した動物園のあとには、彼の孫娘ナターリア・ドゥーロヴァが主宰するドゥーロフ動物劇場があり、いまでも多くの人たちが訪れるモスクワの名所のひとつとなっている。


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