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クマのコスモポリタン紀行

第1回 ツバメと秋葉原

ツバメが舞う季節

 季節の感覚が徐々に失われつつあるなか、低空飛行でツバメが飛び交うのを見て、初夏を感じる人は多いのではないだろうか。私が住んでいる街にも、毎年この初夏の使いがやって来る。その数は数年前からくらべたらずいぶんと減ったような気がするのだが・・・
 出勤の行き帰り、駅前の軒先でツバメたちが雛たちに餌を与える姿を見るのが、いつの間にか日課になっていた。
 ツバメは渡り鳥、コスモポリタンの仲間である。「旅の燕(つばくろ)、さみしいじゃないか」という出だしで始まるのは、「サーカスの唄」。ツバメは、日本人にとっては渡り鳥の象徴といえるかもしれない。ただ実際のツバメは、小林旭の「渡り鳥」とか、「旅の燕」と唄われる流れ者ではなく、子どもが巣立つまで面倒みるしっかりものである。
 ある夜、親鳥が餌を雛たちに分け与えている時、もう一羽の親鳥(父親だと勝手に思っているのだが)が近くの軒下で羽根を休めているのが気になって、ずっと見ていた。父鳥が何かをじっと見ているような気になって、その視線を追ってみると、駅の階段の下にいつの間にか集まってきた賑やかな集団を捉えていた。七、八人のこの集団は、片手に缶ビールを持ちながら、輪になり日本語ではない言葉を大声で交わしていた。近くに住むブラジル人だった。何を言っているのかわからないが、みんな楽しそうに語り合っている。
 近くに工業団地があり、たくさんのブラジルの人たちが働いている。どんな理由かは知らないが、生まれた国を離れ、異国で働いている彼らも、コスモポリタンの仲間である。
 ツバメは、もしかしたら彼らに同じコスモポリタンの匂いを感じ、じっと見ていたのかもしれない。
 勤めから帰ってきた日本人たちは、この輪を避けるようにして、家路を急いでいた。あまり関わりをもちたくない、そんな感じだ。群れをなして集まるコスモポリタンたちは、日本ではあまり歓迎されないかもしれない。コスモポリタンたちは、こうした冷たい視線にさらされながら生きていくことをひとつの宿命としているともいえる。

秋葉原のラオックス

 この光景を目にしてから数日後、ウクライナから来た若い三人を連れて、秋葉原を訪れる機会があった。秋葉原の駅に降りた時から、彼らはカルチャーショックを受けていた。人出の多さ、電気製品、通信機器が山のように陳列しているのを見て、しばし呆然としていた。
 最初に入ったのは、駅前の雑居ビルの免税店だった。この店の入り口に、免税品をあらわすロシア語の看板がかけられていたのだ。モノをいろいろ見ていて、私が説明しているのを、じっと見ていた店員のインド人が、ロシア語で話しかけてきた。三人は口をあけて、しばらく返事もできないぐらい驚いていた。スラブ系の人間ならともかくも、色の浅黒いインド人が、ロシア語をしゃべっている、このことに衝撃を受けたようだ。しかも彼は、ウクライナのキエフで、三年間コンピューターの技術を学ぶために留学していたという。自分たちもキエフからやって来たと彼らが答えたら、この店員、たしかこんにちは、こんな風に言うのですよねとウクライナ語で、しゃべりはじめた。これには三人もびっくりしていた。
 ふだんは縁のない秋葉原であったが、面白くなってきた。
 ウクライナで学んだインド人が、日本で外人相手の店の店員をしていて、ウクライナ人とロシア語で応対している。なんともコスモポリタンな光景ではないか。日本でありながら、日本人がいなくてもエトランゼたちが交流ができる場があったのだ。
 この出会いに三人は、すっかり興奮していた。
 そして次に入ったラオックスで、彼らは今度はモノの多さと人の多さに興奮することになる。そこは、雑多なモノと人と混じり合う、バザールだったのだから。

 JR秋葉原駅電気街口の改札を出て、大きな通りを渡ったすぐのところにラオックスがある。ここの4階から8階までが、免税店になっている。家電、時計、カメラ、お土産品、雑貨など、ほとんどの品物がここで購入できるといっていいだろう。
 彼らは、店に入るなり、目が点になっていた。あまりの物の多さに目眩がしたという。このあとアメ横にも連れて行ったのだが、ラオックスに入った時の衝撃はなかった。アメ横もたくさんのモノがあるのだが、選ぶのに困るのである。ラオックス免税店は、異国の人々たちが求めているものがすべて陳列されている、そこが大きな違いなのかもしれない。いろいろな言葉が飛び交い、先を争って品物を追い求める熱気が漂っている店内は、バザールを思わせる。
 店員も、日本人より外国人の方が多い。韓国語、中国語、ポルトガル語のネームカードをつけた店員さんが、応対していた。さすがにロシア人はいなかったが、いずれそんな店員さんが現れるのではないだろうか。
 黒人も、白人も、アジア系の人も、欧米系の人も、モノを買う目的だけのために、眼を血ばらせながら、日本人ではない店員とやりとりしている。それも真剣勝負。ものを買う時は、人は真剣になる、そこからこの熱気が生れてくるのだろう。
 人と人の交わりは、商いを前提にすると、ずいぶんと気安い、フランクなものになるかもしれない。
 歴史をふりかえっても、最初から国と国の交流があったわけではない、まず人と人の交流があったはずであり、その前にはモノを交換するという大きな目的があった。
 英語だけでなく、韓国語、中国語、ロシア語、ポルトガル語で書かれた看板が立ち並ぶ秋葉原という街は、コスモポリタンたちが自由に集える、日本でも数少ないところなのかもしれない。

 それから数週間後のことだった。駅前に集まるブラジル人たちを見かけた。ビール缶を片手に大声で話し合っているのは、前と同じ光景であったが、ただ違うのは、この宴を眺めていたツバメたちの姿がなかったことだ。一週間ほど前に彼らは巣立っていたのだ。軒下には誰もいない巣だけが、ぼつんと所在なげにあるだけだった。
 コスモポリタンたちが交じりあえた、数少ない場所のひとつだったこの駅から、ツバメたちは旅立っていた。
 旅立つ人、居残る人、コトバを介さなくても、そんな人々が交われるところ、そこがコスモポリタンたちの本当のオアシスとなるのかもしれない。


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