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【特別記事】クマのロシア通信

第2号 3月20日朝 クラスノヤルスクホテルにて

 クラスノヤルスクに来ている。いや昨日はハードな一日となった。



3月18日夜10時半モスクワのドモジェワ空港を出発、翌19日朝7時20分にクラスノヤルスク空港に到着。朝7時ということは、モスクワとの時差が4時間あるので、モスクワ時間にすると夜中の3時になる。ほとんど飛行機では寝れらなかったのに、もう朝7時になっているわけだ。市の人と金倉さんが迎えに来てくれた。そのままホテルへチェックイン。ここでおよそ40分ぐらい時間を消費。荷物を入れて、顔を洗っただけで、すぐに隣にある市役所を訪問。この2日間の予定表をもらい、そのまま助役を表敬訪問。そのあとコンペで優勝したというレザーノフ記念碑のデザイナーと会い、作品の完成予定図を見せてもらう。眠くてしかたない。
 11時これも市役所の近くにある郷土博物館へ。ここでアンナ・スールニクさんが待ちかまえていた。アンナさんは、私が訳したレザーノフの日本滞在日記の原文の校閲・編集をした人。今回博物館にある遺品をぜひ調べてもらいたいと手紙をくれたひとでもある。彼女は目に涙を浮かべ、よく来てくれましたと迎えてくれた。
 これからいよいよ博物館にあるレザーノフが持ち帰ったという遺品のチェックに入る。最初に博物館を案内してもらったあと、資料保存室にいき、主任学芸員のリューダさんが取り出す品物を見、写真にとりながら中国製なのか日本製なのかをチェック。この作業を2時ちかくまでやる。途中地元テレビの取材、インタビューを受ける。このあとエニセイ川に浮かぶ船に行き(ここは郷土博物館分室にもなっている)まずは昼食をとる。腹が空いていたということもあるかもしれないが、プロフ(ピラフ)やサラダなどバクバク食べてしまう。コマンドールというウォッカの小瓶を飲まされる。
 食事後、ここにある日本製と思われる品物をチェックする。
 このあとレザーノフの墓を訪問、そしてもうひとつの文学博物館に行き、同じように品物のチェック。もうこのあたりはフラフラだった。結果的に日本製である、あるいはレザーノフが持ち帰ったものであるという品物を断定できたものは数少なく、今後日本でやろうとしているレザーノフ展に出典できるようなものには出会えなかった。この意味では大きく期待を裏切られたことになる。しかしこれも来てみなければわからなかったことであり、しかたがないとしかいいようがない。
 18時すぎにやっとホテルへ戻る。このあとアンナさんと、情報交換。ここでいろいろなことがわかった。レザーノフの辞書のことや、善六について、ティレジウスの写真について、今後の協力関係についてだいぶ突っ込んだ話をした。
 途中からレザーノフフォンドのバブラ氏も合流。
 今回は市役所の招待なのだが、ホテル代や、食事代も全部われわれ持ちということを知って、アンナさんは激怒、レザーノフは6ヶ月間日本で宿舎も食事も無料で与えられたというのに、会う人会う人に怒りをぶちまけていた。
 アンナさん、バブラ氏、金倉さんが帰ったあと、8時簡単な夕食。もう倒れそうだった。ビールを飲み、サラダとスープの夕食。シャワーを浴びてすっきり。ほとんど寝てないのに、2時ぐらいいっかい目が覚める。なかなか身体が火照って寝つかれない。

 とにかくハードな一日だった。そして暖かい。これは予想を越えていた。
 今日もいい天気で、暖かそうだ。
 今回は招待ということで、実質的には全部ホテル代も食事代も自費なのだが、そのスケジュールのことで、いろいろもめているようだ。よくあることではあるが、なによりも今回はレザーノフの遺品の調査、そして今後の研究での交流の基礎をつくるというのが最大の目的であり、それに沿ってあと1日がんばるしかない。
 モスクワでは18日と19日はほとんど寝たきり老人だったが、こっちへ来てからはまさに分刻みの行動を余儀なくされている。体力的にはつらいのだが、まだなにかをやっているというやりがいは感じている。



3月20日
 朝8時目が覚める。朝飯を食べて、9時50分すぎにホテルを出る。郷土博物館へ。今日は今回の調査結果についての記者会見が開かれることになっている。10時すぎにテレビカメラが五台ぐらい前に並び、自分と金倉さんは中央の会見席に座らせられる。博物館側からの説明、アンナさんの解説のあと、自分が話すことに。下手なロシア語で今回の訪問のきっかけ、レザーノフと日本についてなどをしゃべる。途中から何を言っているかわからなくなる。会見自体は20分ぐらいで終わり、あとは個々の取材に答えることに。
 驚いたのは、あるテレビ局からアメリカがイラクへの攻撃をはじめたが、と感想を聞かれたこと。何度も本当のことなのかと聞いたが、10時に攻撃が開始されたという。同じ質問を金倉さんも受けていた。とうとう始まったのかという感じだ。アメリカがやりたくて始めた戦争だし、情けないのは日本がこれを支持していることだというようなことを話したと思う。
 会見が終わりキャビネットで早い昼食を食べながら歓談。持って来た資料を全部寄贈する。博物館の人たちに別れをつげ、スリコフ美術館へ。レザーノフ記念碑のコンペで優勝したコースチャのアトリエもある。そこを見学したあと、美術館を館長の案内で見て回る。ここでアンナさんと別れる。アンナさんからは貴重なティレジウスの写真のネガを預かる。今後いろいろな意味で関係は続くはずだ。
 14時クラスノヤルスク教育大学へ。ここの学長は露日協会の会長をしている。40分ほど歓談。これは市のセット。帰りがけにここで歴史を教えている先生が、突然お前は歴史家かと聞いてくる。日露関係を調べているようだ。うさんくさい奴だと思ったのだが、榎本武揚の資料や、サーカス芸人の資料がアルヒーフにあると聞いてちょっとびっくり。名刺を交換しておく。サーカス芸人のことについてはあまり知らないようだが、大事なことはここに資料があるということだ。
 15時国立クラスノヤルスク大学のインターネットセンターへ。これも市のセット。レザーノフのサイトを開くので協力して欲しいということなのだが、インターネットの世界で交流は簡単なことなのだが、どうもそんな簡単な協力ではないらしい。インターネット会議のデモテープなどを見せられる。なにが目的なのかよくわからない。
 16時児童教育センターへ。アンナさんから最初にメールをもらったのは、ここを通じてだった。ここでも子ども向けにレザーノフのサイトを開設したらしい。それで協力して欲しいということなのだが、これはたやすいこと。こちらがもっている情報をメールで送ればすむ話だ。喜んで協力を約す。このあとセンター内を見学。
 17時すぎにいったんホテルに戻り、ビデオをもって、芸術学校へ。18時からここの所属のアマチュアの民族アンサンブル団の演奏を聞く。素朴でなかなかいい演奏だった。スコモローヒでほぼ決まりなのだが、なにかあったとき、また次のチャンスがあったときに是非紹介したい。
 会社から金倉さん宛てにメール。ペキーノフの査証の件で、モスクワで書類を入手しなければならなくなった。モスクワのペーチャに電話。ペーチャにもファックスが来ていたようだ。明日まで書類を手に入れてくれることになった。19時すぎのニュースで、今日の記者会見の模様が流される。
 レザーノフフォンドのバウラから電話。昨日断わったはずだったのだが、どうしても民族アンサンブルを見てもらいたいとのこと。今日の予定は終わったことだし、見に行くことに。20時すぎにホテルを出て、リハーサル会場へ。本格的な公演を見せてもらう。さっき見たのとはちがって、プロの本格的なアンサンブル。見ごたえはあった。
 近所のアンサンブルのメンバーの家に呼ばれる。なんでも引っ越し祝いを兼ねての歓迎会という感じ。美味しい料理をふるまってもらった。音楽をしている人たちの集まりなので、唄がいろいろ飛び出す。さくらを歌わされることに。
 23時半、ひとあし先に引き上げられる。しかし今日もハードな一日だった。これでまたガンガン飲んでいたら、えらいことになっていただろう。
 これでとにかく短かったが、なかみの濃いクラスノヤルスク訪問の全予定は終了した。
 レザーノフの遺品調査に関しては、成果はほとんどなかった。200年という歴史を越えて、なにかを探す旅がはじまったばかりなのだし、すぐに成果を求めるというのは無理な話だ。なにかを探すためには、ないものはないということを認識するところから、始まるのかもしれない。そのためにはやはり現場に来なければなにもわからないということだろう。200年前の歴史的事実を確認することはそんな簡単なことではない。
 レザーノフを縁にいろんな人と会えたこそ、一番大きな収穫だった。日本とクラスノヤルスクで一緒になにかをやれることはわかった。
 これはあくまでも最初の一歩ということだろう。



3月21日1時
 モスクワではつながったネットは結局クラスノヤルスクではうまく設定できず。しかたがない。とにかく終わった。疲れた。ただ心地よい疲れだった。
 クラスノヤルスクでもモスクワでも、あまり街を歩くことはできなかった。モスクワではとにかく体調不良ということもあった、クラスノヤルスクではまさ分刻みのスケジュール、とてものんびりと街を歩く余裕などなかった。それに酒を飲むことも少なかった。飲みすぎれは自分の身体がしんどいということで、ブレーキがかかったのだろう。
 明日は長い旅になる。せっかく日本と時差が2時間しかないところにいるのに、また時差6時間のモスクワに戻り、それから日本へ向かうことになる。
 あともどりするというのが、今回の旅を象徴しているのかもしれない。ヤマサキのこと、そしてレザーノフ遺品探し、自分にとっては決して前進にはならなかった。でもあと戻りりしながらも前に進むという意志だけは、確認できた。
 旅はまだ終わっていないのである。

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