2002.11.14
クラスノヤルスクから届いた一通のメール
『通航一覧』のレザーノフへの贈呈品リスト
送られてきた13点の写真
写真の反応
ドゥーフからの贈り物
漆のタバコ入れ
クラスノヤルスクに行こう
今年6月に届いたこの一通のメールが、今回のドラマの第一幕となった。
レザーノフ長崎来航のときに日本からもらった贈物が、クラスノヤルスクに残っていたのだ。200年という時代を越え、レザーノフ来航秘話を裏付けるものが存在すること、このことに私すっかり興奮してしまった。
すぐに私は、「喜んで協力させてもらいます、ますは日本の記録からレザーノフがもらった品物のリストを作成します」という返事を書き、一週間後に『通航一覧』に記載されているレザーノフへ献上された品物のリストをロシア語に訳し、メールで送った。
『通航一覧』のレザーノフ来航関係の記事のなかにあるレザーノフに贈られた品物のリストは以下の通りである。
通詞からの贈呈品 | ||
1. 絹糸 50目 2.紋八丈 一端 3.八丈縞 二端 4.八丈縞 一端 5.奥丹後縞 一端 6.加賀皿紗形 二疋 7.郡内縞 一疋 8.縮緬紅飛紋 一丈 9.桔梗紋縮緬 一丈 10.縮緬黄紋 一丈、 |
11.桔梗紋縮緬 一丈 12.蒔黄形付 一丈 13.蒔板締形付 一丈 14.紅加賀絹 一丈 15.切れタバコ入れ 60 16.キセル 60本 17.キセル筒 18.水晶扇子 100本 19.紙扇子 50本 20.蒔絵骨扇子 15本 |
|
カピタンドゥーフからの贈呈品 | ||
1. 紙タバコ入れ 15 2.紙入れ 10 3.紙タバコ入れ 4.水晶扇子(蒔絵骨)30本 5.キセル 4本 6.茶台 2 7.家造りもの 1 8.小寝巻(上帯共) 1 9.ボートル(瓶のことか?)1壺 10.蒔絵盆 2枚 |
11.サボン入れ(シャボン−石鹸か?)2 12.蒔絵文庫 1 13.手遊鳥獣造り物 26品 14.茶碗 10 15.コーヒー豆 20斤 |
大島さん、あなたが送ってくれたリストのおかげで、私たちはクラスノヤルスク地方郷土博物館のなかで、以下の品物を発見することができました。 キセル(このなかには、水煙草用のものもあります)、扇子、紙製品、煙草ケース、お茶台、タバコケース、織物、日本製の家屋、漆塗りのお盆、磁器やほかの茶碗。 169点の写真を撮りましたが、そのなかの一部をここに添付します。 |
私がリストを送ってからおよそ2ヶ月後の9月、クラスノヤルスクからこんな返事と共に、写真が13点送られてきた。写真が実際に届いたことによって、レザーノフがもちかえった贈呈品の存在が、たしかな手応えをもちはじめたといえよう。写真はなにかを語りはじめた。
最初に写真を目にしたときはかなり興奮したのだが、よくよく見ると、日本製というよりは、中国でつくられたものではないかという疑問を抱いたのも事実である。最初の手紙にあったように、クラスノヤルスク郷土博物館でも、日本製のものなのか、中国製のものなのか、判断に苦しんでいた事情がよくわかった。
江戸期に出回っていたこれらの品物について専門家でもない私が、この情報をひとりで抱えていてもしようがないし、なによりもいま求められているのは、これらの品物が果たしてレザーノフが日本から贈られたものかどうかを特定することだった。私は広く情報を公開し、さまざまな分野の人から、意見を求めるべきだと思った。私は自分のホームページ『デラシネ通信』でこれらの写真を公開すると共に、メールアドレスをもっている会員の方や、日露交流史の専門の先生に、写真を送ることにした。
反応はすぐにあった。日露交流史研究の第一人者でもある中村喜和先生からは、これはたいへんな発見ですというお便りがすぐに届いたし、会員のかたから、さまざまな情報が寄せられた。
本間英一氏からは、陶器に詳しい人にさっそくこの写真を見せたところ、この写真にある陶器はレザーノフが日本に来たときからかなりあとの時代に作られたものではないかという疑問が提示された。また長崎県図書館郷土課に勤務する本馬貞雄氏からは、いろいろな人に聞いてみた結果、写真にある茶碗や皿などの陶磁器は、中国で作られたものだろうという意見が寄せられた。ただ本馬氏は、当時中国の品々は長崎でかなり出回っていたので、これらの品物がレザーノフに贈くられたものと考えても、なんの不思議はないとも書き添えてくれた。
いずれも貴重な情報であった。こうした情報も参考にしながら、私の見解を明らかにしたい。
いま大事なことは、これらが日本製なのか、中国製であるかということではなく、レザーノフが日本から贈呈されたものかどうかということにある。
その見地に立てば、これらの品物は、レザーノフが日本側から受け取った贈呈品と言っていいと思う。
それを確信させたのは、喫茶用小机(『通航一覧』のリストにある)の写真である。リストに出てくる茶碗とか、織物とか、キセルに関しては、あまりにも漠然としていて特定しずらい(もしかしたら織物などは、専門家が見れば特定できるように思えるが…)が、この喫茶用小机に関しては、かなり特殊なものであり、送られた写真と『通航一覧』のリストと照合できる品だといっていいのではないだろうか。
これは当時長崎に駐在していたオランダ商館長ドゥーフからの贈り物である。
ここで紹介している写真の多くは、実は通詞を窓口に日本側が贈った品物ではなく、ドゥーフからのものであったということに注目したい。
もう一度、『通航一覧』のリストと、クラスノヤルスク郷土博物館が見つけたというレザーノフの受け取った贈呈品のリストを照合してもらいたい。
扇子とキセルの一部、織物以外は、ドゥーフからの贈り物だったのである。
はっきりと断定はできないが、クラスノヤルスクから送られてきた写真のほとんどは、ドゥーフからの贈り物であり、そのほとんどが中国製であることが、ひとつポイントになっているように思える。
彼は何故、日本のものを贈らなかったのだろうか、なにか含みがあったのだろうか?気になるところである。
これは、いまクラスノヤルスク郷土博物館を困らせていることになっているのだが、見かたを変えれば、日本製、中国製に関わらず、レザーノフが持ち帰ったものが、日本から贈られたものかどうか、それを判断するとき、ドゥーフの贈り物は大きなヒントを与えているともいえる。
私がレザーノフの日本滞在日記を訳したときに、一番に気になったのは、オランダ通詞がこっそりレザーノフに贈ったある品物のことだった。
レザーノフは、長崎を出航する前日文化二年三月一八日の日記にこんなことを書き留めている。(『日本滞在日記』P.365−6)
「作三郎(オランダ大通詞中山作三郎)は通りすがりに、『あなたになにか記念に差し上げたい』と告げた。こうして私たちは別れた。
彼らが退出したあとで、フリードリッヒが漆の煙草入れを差し出した。作三郎が帰り際彼にこっそりと渡したという。中を開けてみると、金の蓋に私の紋章が描かれていた、それは私の印判を糊ではったものだった」
レザーノフとの交渉の窓口になったオランダ通詞たちが、わざわざレザーノフの紋章をかたどったものを、秘密に贈ったというこの品物が見つかれば、レザーノフが日記に事細かに書きとめていた、通詞たちの秘密工作を裏付けることになるかもしれないし、さらに公式的記録に残っていない、日本とロシアの交流を裏付けることにもなるのではないかと、思ったからにほかならない。
これはクラスノヤルスク郷土博物館に残っていないだろうか、もし残っていれば、たいへんな発見になるはずだ。これが残っていないかどうかを問い合わせていた。
これに対して私が訳した『日本滞在日記』の本文の編集、校訂を担当していたアンナさんから、こんな返事が届いた。
「レザーノフの金紋章がついた漆の煙草ケースを私は、10年間探し続けてきました。ペテルブルグにはありません。クラスノヤルスク地方郷土博物館には、日本製の古い漆の煙草ケースがいくつかあります。しかしこれらの蓋には紋章はついていないのです。おそらくは紋章は古くなって、なくなってしまったと思います。もう200年も経っているのですから」
残念な知らせではあったが、ひとりこのように10年間もこの品物の行方を追っていた人がいたということに、感銘を受けた。時はたしかに冷酷に、ものそのものを失わせてしまう。しかしその意義を知った人がこうして存在していたことを知ったことでで、もしかしたら失われた時をこえて、日本とロシアの間に架けられようとした橋を、共同で探し出すことができるかもしれない、そんな手応えを感じたのも事実である。クラスノヤルスクに行かねばという思いはしだいにふくらんできた。
秋は、本業の方がたてこんで、レザーノフの贈呈品のことになかなか頭がまわらなかったし、クラスノヤルスクからの便りも途絶えたままになっていた。仕事が一段落した10月26日クラスノヤルスクから、今度は9点の写真が送られてきた。写真はキセルと、水煙草キセルをうつしたもので、全形だけでなく、文字が彫られている部分の拡大写真も含まれていた。これらのうちキセル数点は日本の品物で、通詞たちから贈られたもので、水煙草のセットは先に引用したリストのうち、ドゥーフから贈られたものの5番目にある「キセル4点」だと思われる。
このメールには、「これらの品物がたしかにレザーノフのものであることを証明するなにか文書のようなものが存在するか」という私の問い合わせに対する回答も添えられていた。
「クラスノヤルスク地方郷土博物館には、これらの品物がレザーノフのものであったことを証明する文書はありません。博物館はおよそ100年前に創立されていますが、レザーノフは200年前に亡くなっています。レザーノフの死後品物は、クラスノヤルスクにいた彼の親戚のところに残されました。これらのものが博物館に寄贈されたと思われます。ただこれはあくまでも推定です。レザーノフの死後、彼の文書類(手紙、日記、レポート)はペテルブルグに送られました。これらは現在アルヒーフに保管されています。しかしペテルブルグに品物は、いっさいないのです。そのため私たちは、レザーノフが持ってきた品物は、クラスノヤルスクで探す必要があると思っているのです」
これ以上メールのやりとりをしても埒があかないと思ったし、実際に自分の目でみないことにははじまらないということはもうはっきりした。私は、クラスノヤルスクに行くことを決心し、12月に訪問する用意があることをすぐに、連絡した。
11月6日に返事が届き、クラスノヤルスク地方郷土博物館が正式に私を招待する用意があること、さらにはできればこうした品物を鑑定できる専門家を一緒に同行してもらいたいということが知らされた。12月ではなく、1月に来てもらいたいとも書かれてあった。
どうやら時は熟したようである。私はこの誘いに応じようと思っている。なによりも、自分の目でレザーノフが持ち帰ったといわれるモノを見るところから、このドラマの第二幕ははじまるはずだ。
レザーノフが持ち帰った日本からの贈り物は、200年という時を越えて、なにかを語りはじめるちがいない。
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