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【特別記事】続・クマのロシア通信

クラスノヤルスクで出会った人々 1

 クラスノヤルスク空港に到着したのは、3月19日朝7時半。空港に着いてから、21日午後出発するまで、慌ただしくあちこち引き回されながら、たくさんの人たちと会うことになった。およそ60時間という短い滞在で、ずんぶんとたくさんの人たちと会った。これはあとで思い出すときに、便利なように書きとめたメモのようなものである。

1.市役所の人たち
2.彫刻家たち
3.郷土博物館の人たち
4.大学の人たち

1.市役所の人たち

 今回は市の招待ということで、クラスノヤルスクを訪問した。通常は食事やホテル代は招待した側が負担してくれるものだと思うのだが、これについては自費負担ということになった。いずこも財政は厳しいのだろう。ということで空港には、市の対外経済・国際関係部の部長のFalaleev氏と、秘書のSurkova女史が迎えに来てくれた。クラスノヤルスクホテルに慌ただしくチェックインしたあと、すぐ隣にある市役所を訪れることになった。Falaleev氏の執務室で、この2日間のスケジュールについて打合せをした。まさに一時間ごとに組まれているさまざまな人たちとの面会スケジュールを見て、クラクラしてきた。今回はあくまでも郷土博物館にあるレザーノフが持ち帰ったとされる品物を見るのが目的なので、それをなによりも先行したいと言い、やんわりと日程の変更を申し出た。自費負担なので遠慮は無用ということだ。
 クラスノヤルスク市と日本との関係はそれほど深いというわけではなく、何年か前に、名古屋市に代表団を送ったということだったが、亡くなった抑留されていた日本人の墓参団がやってくるぐらいで、本格的な交流はないという話をSurkovaがしていた。むしろ中国と活発に交流しているらしい。彼女自身も中国語が専門だと言っていた。
 この打合せのあと、副市長のKurimov氏を表敬訪問する。表敬訪問なんてどうでもいいのだが、せっかく時間をとってくれているので、無下に断わるのも大人げない。Kurimov氏は、官僚臭さのない人で、なかなか好感がもてた。なんでも大学の先生をしているとのことだった。今回はレザーノフが縁での訪問になったので、レザーノフについていろいろ話をすると、氏ものってきて、市としても積極的にレザーノフを顕彰を進めて行きたいと熱を込めて話していたのが印象に残った。岩波の拙訳本『日本滞在日記』を差し上げる。クラスノヤルスク市の紋章(何故かライオンがデザインされている)が入った置物をいただく。
 市役所には、小一時間いたかと思うのだが、このあとこの人たちと会うことはなかった。

2.彫刻家たち

 副市長を表敬訪問したあと、市役所のロビーに案内され、そこでふたりの彫刻家と会うことになった。市の主催で、建設が予定されているレザーノフ記念公園に立てられるレザーノフ記念碑のコンペがあり、そこで一位と二位になった人たちだった。ふたりは、応募作品のデザインと模型を前にして、いろいろ説明してくれた。なかなか立派なデザインなのだが、いつ建てられるかまだわからないということだった。もしかしてこの記念碑を建てるための資金援助をあてにしてのセッティングだったのかもしれない。一位になったZinich氏は、クラスノヤルスクでは有名な彫刻家らしく、市の目抜き通りには彼の彫刻が何点か飾られてあった。Zinich氏は、翌日郷土博物館で記者会見があったときも、顔を出した。是非自分のアトリエにも来てもらいたいといわれ、スリコフ美術館の敷地にある彼のアトリエを訪問することにもなった。そういえばこの記者会見の時に、コンペに応募したもうひとりの彫刻家が来て、是非自分の作品を見てもらいたいと写真を持ってきた。表情は真剣そのものだった。自分の作品をなんとしてでも建てたいということなのだろう。
 この記者会見に、もうひとりの画家が、自分の描いた絵の写真を持って現れた。これはレザーノフの最期を描いたものだった。三人の彫刻家と画家は、なんのためにこんなにまで真剣に自分の作品を見てくれとやってきたのだろう。あてにされていたのかなあ。

3.郷土博物館の人たち

 市役所の表敬訪問を終えたあと、エニセイ川沿いにある郷土博物館を訪ねる。今回の訪問の最大の目的であるレザーノフが持ち帰ったと思われる品物を実際に見るためである。玄関では今回の仕掛け人Surunik女史が待ち構えていた。彼女については、詳しくあとで書くことにする。なによりも驚いたのは、この博物館で働いている人のほとんどが女性であったことである。館長も、館内をずっと案内してくれた歴史部長のSisoevaも、別館の館長も、広報担当もすべて女性。見かけた男性は施設のメンテをしているわずか数人だけだった。この町に長年住んでいる金倉さんの話によると、この町の多くの職場では女性が実権を握っているということだったが、なるほどと思った次第。
 このアマゾネス軍団はみな愛すべき人たちであった。学芸員としてはちょっと慎重さにかけるアバウトなところもあるが、それがまた私なんかとは波長があうところかもしれない。
 エニセイ川に浮かぶ船が、この博物館の分室なのだが、ここの学芸員のおばちゃんたちもみな愉快な人たちだった。皆で昼食を一緒にとったのだが、お決まりのウォッカやコニャクも用意してくれての楽しい会食となった。男の集まりにはない、なごやかさがあった。
 ホテルをチェックアウトする時に、わざわざ「コマンドール・レザーノフ」という銘柄のウォッカをお土産に持ってきてくれ、見送りに来てくれた。これからも長い付き合いになる、そんな予感がしている。

4.大学の人たち

 ここでふたつの大学を訪ねることになった。最初に訪ねたのは、国立クラスノヤルスク教育大学。ここの学長Drozdov氏は、露日協会の会長をしていることでの会談となった。氏の専門は考古学で、日本にも数多くの友人がいるとのことだった。贋物を次々に発掘し、考古学界を混乱させた例のゴッドハンドの後見人になっていたK教授とは特に親しい関係らしい。一緒にクラスノヤルスクを訪ねた加藤さんが、仙台に住んでいると知って、どうしても渡してもらいたいものがあるといって、机の上に飾られていた自分の写真を渡して寄こした。いつも一緒だという意味をこめてのことらしい。あとで加藤さんは、これをK教授に届けることになる。
 玄関を出る時に、突然中年の男が現れ、「お前は歴史を専門にしているのか」と聞いてきた。彼はここの大学の歴史の先生で、Datsyshenという。立ち話程度だったのだが、面白い話が聞けた。なんでもこの大学のアルヒーフには、榎本武揚や日本人芸人についての資料があるというのだ。榎本武揚はペテルブルグで駐ロ大使を務めたあと、帰路シベリアを横断している。彼の書いた『シベリア日記』を見ると、彼はクラスノヤルスクに寄り、レザーノフの墓を詣でている。どんな資料が残っているのだろう。さらにサーカス芸人に関する話も興味深いものがある。どんなグループだったのか、ロシアを巡業した「ヤマダ」か「ヤマサキ」と思い、聞いてみたが詳しく知らないようだった。時間もなかったので、彼の住所と電話番号を聞いて、あとで連絡することにした。こんな出会いがあるから面白い。
 次に訪れたのは、国立クラスノヤルスク大学。ここにはインターネットセンターがあり、関係者が7〜8人に我々を待っていた。Oleinikov氏がこのセンターの責任者で、センターについてながながと説明を聞かされた。要はこのセンターのなかに、レザーノフのサイトを立ち上げる計画があり、レザーノフと関係のあるアメリカと日本をネットでつないで、情報を公開していきたいということらしい。今年の8月にはオープンさせたいということだったが、日本サイドにどんなことを期待しているのか、いまひとつわからなかった。情報交換だけだったら、たとえばデラシネのレザーノフに関係するとことリンクさせればいいだけの話だと思うのだが、そんな簡単なことではないらしい。インターネット会議を開きたいようなことも言っていた。このミーティングには、『カステリーナの薔薇を、レザーノフに』という本の著者も出席し、私となにやら話をしたがっている様子だったのだが、次のアポの時間が迫っていたので、サイン入りのこの本をもらうだけになった。俺こそがレザーノフの専門家だという態度が節々に見え、感じが悪かった。この大学には日本センターというのもあったのだが、見学することはできなかった。

(続く)


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