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【特別記事】続・クマのロシア通信

 いささか時間があきすぎて、クマ自身もテンションがさがってしまっているので、ある新聞に掲載予定だった記事『クラスノヤルスク訪問記』をそのまま転載します。


『クラスノヤルスク訪問記』

 3月19日から21日までシベリアのクラスノヤルスクを訪問してきた。目的は、クラスノヤルスク郷土博物館にある、レザーノフが持ち帰ったと思われる日本からの贈呈品をこの目で見ることであった。
 昨年末に、レザーノフ研究家で、私が翻訳した『日本滞在日記』の原書を校訂したアンナ・スールニク女史から、博物館に保管してある日本製と思われる品物が、本当にレザーノフが持ち帰ったものかどうか、クラスノヤルスクに来て、鑑定してもらいたいという依頼が、10数点のこれらの写真を添えて、私のもとに届いた。レザーノフが持ち帰った品物が実際に残っているのなら、これは大きな発見になるはずで、この知らせは私を驚かせた。日本側の資料をもとに、レザーノフに渡された品物のリストをロシア語に翻訳して送ったり、他の写真を送ってもらったりというやりとりをしながら、これは実際に現地に行って見るしかないと思うようになった。とはいうものの、シベリアは遠い、横浜から石巻に行くのとはわけがちがう。どうしようか迷っていた時に、モスクワにいく仕事が舞い込んできた。この機会を逃す手はない。

 ホテル代も交通費も自費だったが、クラスノヤルスク市国際局から正式招待を受けての訪問となった。空港に降り立ってから、休むまもなく副市長のクリモフ氏との会談がセットされていた。市の中央部に建立を予定しているレザーノフ記念碑のデザインをコンペで選んだり、国立クラスノヤルスク大学が中心となって、レザーノフサイトを開設する準備が進むなど、市がレザーノフ顕彰に積極的に取り組んでいるということが明らかになった。

 この会談のあと、すぐに郷土博物館に向かった。前日ほとんど寝ていなかったので、ホテルで少し休むという手もあったのだが、一刻も早く品物を見たかった。
 博物館では副館長、学芸主任と一緒に、今回の旅に誘ったアンナさんが待ち構えていた。アンナさんは、本当によく来てくれましたと目に涙を浮かべながら、私を歓迎してくれた。博物館を案内してもらったあと、所蔵品が保管されている特別室で、用意されていた品物を見ることになった。
 長年夢見た恋人と初めて会うような心境だったが、ひとつひとつ触れ、見ていくなかで、軽い失望感を抱くことになった。レザーノフが持ち帰ったと想定していた品物のほとんどは中国製で、しかも年代がわりと新しいものばかりだったのだ。これらの品物は100年前にこの博物館が創設される以前からあったもので、創立時に寄贈されたものであるということが、レザーノフが持ち帰ったとものだという根拠になっていた。しかし九谷の陶器もあるが、それはコーヒーカップで江戸時代につくられたものではなかったり、ぽっくり型の雪駄など日本製と思われても、リストには含まれていないものだったりなど、レザーノフが日本から持ち帰ったと断定できるものはなかった。確かにリストにある日本製の扇子や煙管もあり、年代が特定できればレザーノフが持ち帰ったものといえるものもあった。ただそれを鑑定できるだけの能力は私にはない。写真とビデオに撮ってきたので、これを専門家の人たちに見てもらうことが必要となるだろう。

 このようにまだ見ぬ恋人にふられたような失望感はあったものの、新しい恋人たちに会えたことも事実である。アンナさんとは、これからも共同でレザーノフや漂流民について研究を進めていくことになるだろうし、郷土博物館とは来年予定している『レザーノフと日本展』のための展示物について、貸し出してもらうことも了解してもらった。インターネットを通じて、レザーノフや若宮丸漂流民について情報を双方で公開していくことにもなった。レザーノフの辞書も、長崎でつくられた改訂版があり、そこには日本のことわざも数多く集められているとのことだし、そこでは太十郎が協力していたこともわかった。

 日本に帰る日、市内を一望できる小高い丘に立った。眼下にはシベリアを代表する大河エニセイがゆったりと流れている。どことなく日和山から北上川を眺めている錯覚に陥った。シベリアと、石巻は案外そんな遠くない関係にあるのかもしれない。漂流民を日本に連れ帰ったレザーノフを顕彰する街クラスノヤルスクと共同で、レザーノフ、漂流民研究にあたる可能性は広がったともいえる。やはりその意味でも行った甲斐はあったと思う。いま立っているこの丘も、クラスノヤルスクの日和山と呼んでもいいかもしれない。


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