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クマの観覧日誌

『山本光洋マイム・ライブ』

場所 新潟市民芸術文化会館スタジオB
日時 2000年11月30日 午後7時からおよそ100分
出演 山本光洋・ゲスト・サンキュー手塚


 日本のマイミストの中で、一番買っているひとりが山本光洋である。光洋はマイミストというよりは、クラウンだと思っている。マイムの技術もかなりのレベルにあると思うが、それ以上にひとつひとつの作品の作り方、基本的には笑いをとる方向でつくっている作品の構成、じっくりと練りに練ったネタの作り方には、いつも感心させられている。今回は、プラコメを共同でプロデュースしているplanBの齋藤氏の企画だったこともあって、一緒について新潟までライブを見に行った。

 前半30分は、ゲストのサンキュー手塚の大道芸インシアター。手塚もプラコメの常連のひとり、昨年静岡の大道芸ワールドカップでチャンピオンになり、いまや大道芸のスターになった感がある。手塚自身は、大道芸が自分の天職と思っているようだが、ステージのネタにもいいものがたくさんある。ただ今回は大道芸のネタを中心に番組をつくってきた。

 手塚のネタの特徴は、アイディアの斬新さ、さらにはそれを音楽とうまく組み合わせることによって、そのインパクトを倍増させるところにある。光洋がネタを思いつき、それを丹念にオチにもっていくまで、きっちりと構成していくのに対して、手塚は思いついたアィディアを深化させていくというよりは、増幅させていくテクニックをもっているといえるかもしれない。

 例えばこの公演でやっていたネタのひとつ、「たそがれの舞」では、五木ひろしの「よこはまたそがれ」の音楽にのって、ソフトクリーム、ウェットティッシュや落ちたコンタクトレンズに扮し、溶けてしまうところ、捨てられてしまうところ、踏んでつぶされてしまうところを「あの人は行って行ってしまった、もう帰らない」という歌にかぶせあわせている。

 また恐怖シリーズと題されたネタでは、火曜サスペンス劇場のテーマ音楽にのって、水撒きのホースが突如、反乱をおこしたり、ルーズソックスが、伸びようとしたり、回転寿司のテーブルが急回転するなど、「ものの反乱」をテーマにしている。

 こうした斬新なアイディアを畳みかけるよう作品にするところは、手塚の才能だと言っていいだろう。このアイディアの閃きを枯渇することなく、生み出すこと、それが手塚に課せられたテーマだと思う。先日静岡の大道芸フェスティバルのプレイベントでも劇場で公演していたが、出来自体は、今回のほうが数段よかった。

 山本光洋は、毎年渋谷のジャンジャンで新作を発表してきたが、ジャンジャンがなくなり、本人もこれからどんなかたちで作品をつくり、発表していくか、迷っているところだと思う。今回のステージは、いままでつくってきたネタを組み合わせての公演になった。プログラムを紹介しておく。

1.「オープニング」 2.「世の中そんなもの・・・」 3.「幸せなら手をたたこう」 4.「映画音楽にのせて−『風と共にさりぬ』,『カサブランカ』,『雨に唄えば』」 5.「愛(ハートマーク)」 6.「マイムライブ!!−『綱引き』,『糸ひき』,『客ひき』,『夏のバター』,『史上最強の男』,『史上最弱の男』,『手ちゃん」 7.「手袋の物語」 8.「ミクロの決死圏内(1・2)→ベイビー→キネンサツエイ」 9.「ハダカの王様」

 「ハダカの王様」以外は、すべて見たことのあるネタばかりだった。どれも光洋の作品の特徴、練りに練った構成でできており、見応えのあるものばかりだった。特に8の作品は、大げさに言うと人間の生の誕生から死までを描いた傑作といえる。

 レース前の状況が演じられ、スタートと共に一挙に飛び出した男は、ぶっちぎりでゴールらしきところに到着するが、壁で遮られてしまう。この時男女の声のアテレコで、これがコンドームであることがわかる。つまりこの男は精子だったわけだ。「ちゃーんとつけてる」、「大丈夫だよ」「ああ、良かった」ということでこのシーンは終わる。再びレースのシーン。今度は大幅に遅れているようだが、自転車をつかってゴール付近に、到着。また壁が道を閉ざすのだが、この精子君かなり要領が良く、ハサミでこれを切ってしまう。また男女のアテレコ。「ちゃんとつけている?」「大丈夫、あれ、破れたみたい」「キャー」という悲鳴の中、この精子君が卵子と抱擁するところで暗転。

 すぐに赤ちゃんの泣き声が聞こえてきて、光洋が赤ちゃんをあやすシーンが始まる。この赤ちゃんを膨らませて大きくなってしまう、こういった馬鹿馬鹿しい変身が自在にできるところはマイムの魅力でもある。この赤ちゃんが巨大になるというような変身ものは、光洋が得意とするところだ。「映画音楽にのせて」の中のカサブランカでも、女が突如モンスターになって男を食べるというシーンが出てくる。

 もとの大きさに戻った赤ちゃんを、白い大きなフレームの中に置かれたイスの上に乗せ、「カシャッ」とシャッターの音が聞こえるところから、キネンサツエイという別なネタに展開していく。本来はそれぞれ独立した3つの作品を、このようにつなげていくところは見事だ。

 キネンサツエイは、それぞれ人生の区切りに、大きなフレームの中で、記念写真を撮るという状況を綴ったなかなか味わいのある作品だ。カメラの前で緊張する小学生、少しグレた感じの高校生、ネクタイと格闘する初々しい社会人一年生、結婚、子どもの誕生、親の死と人生の一コマ一コマが、ペーソスやユーモアを交えて描かれる。そして老人となった男がフレームにおさまっているとき、なんどもカシャッ、カシャッと音がするなか、静かにフレームから去っていく。そして誰もいなくなったフレームだけが舞台に残り、もう一度静かにシャッターが切られて、暗転。

 叙情さえ漂ってくる完成度の高い作品だ。今回は精子のエピソードからうまくつなげることができたので、その完成度がさらに高くなったように思える。外国でも十分に通用する作品だと思う。

 場内もこのエンディングで、おそらく公演自体が終わったのだと思う。拍手がしばらくなりやまなかった。しかしここで終わりではなく、パンツ一丁の光洋が出てきて、なにやらものを運ぶ作業を演じはじめる。最初はひとりで、次は相方と一緒にものを運び、すぐに「キュウーケイ」と言って、煙草を吸いはじめる。この時光洋は「しかしパントマイムちゅうのは、なんだよな」と一人つぶやき、姿の見えない相方に同意を求める。また作業を開始、そして休憩、また「しかしパントマイムちゅうのは、なんだよな」と相方に同意を求めるのだが、今度は相手がいないことに気づく、そして自分がパンツ一丁のハダカであることにも気づく。そしてまた『パントマイムちゅうのは、なんだよな」と言いながら立ち上がり、「仕事、仕事」と言い、淡々と作業を開始する。

 これは初めて見る作品だが、パントマイムという何も物が存在しない世界で、何かものをつくり演じて、見せるというこの芸の本質を、ちょっと斜に構えて描いてるところに、不思議なおかしさが生れている。自分がハダカだとわかって、おそらくはものが実際には存在しないことも、また相方などいないこともわかったうえで、「仕事、仕事」と言いながら、淡々と何も存在しないなにかを運び続ける姿は、それでも自分はパントマイムを相手にやっていくんだという、光洋のひとつの意志表示のように見えた。ここには悲壮感も気負いもない、ただ淡々と、なにもないものを運ぶ作業、つまりパントマイムを続けていこう姿勢が、うかがわれる。好きな作品だ。

 120席の会場もほぼ満員。客層としては、20代後半から60代ぐらいまでかなり幅広かったが、反応もよかった。身構えてパントマイムを見にきた人もいたかもしれないが、実はこうしたパフォーマンスが気を楽にして見れば、十分に楽しめることを知った人も多いのではないだろうか。

 手塚も山本も、タイプはちがうが才能をもったパフォーマーだ。こうした場を通じ、互いに刺激し合うことはとても大事だと思う。こんな場を増やしていくことも、これからの私たちの仕事なのかもしれない。


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