月刊デラシネ通信 > その他の記事 > クマの観覧雑記帳

クマの観覧日誌

『アクワリウム公演』

場所 千代田公会堂
日時 2000年12月17日(日) 14時開演(2時間15分公演)
出演 アクワリウム


 不思議なコンサートであった。客の三分の二はロシア人、受付やもぎりもロシア人、客への応対も不親切きわまりない。開演五分前どころか開演のベルがなるわけでもなく、15分遅れでアーティストがなんとなく舞台に現れ、演奏をはじめる。フラッシュがあちこちでたかれて写真が撮られ、ビデオカメラを持った人たちも何の遠慮もなく、撮影している。通路では何人かが酒を回し飲みしている。日本のコンサート会場ではとても見られない、一種無法地帯にちかいものがここにはあった。まるでここはロシアであった。
 この公演の仕組みがどうなっていたのかは知る由もないが、これは日本人のために開かれたコンサートではない、日本にいるロシア人のためのコンサートだったと思えばいいのかもしれない。

 チケットと一緒に送られてきたチラシらしきものには、5000万枚のアルバムセールス!ロシアのビートルズと称されたカリスマバンド『アクワリウム』初来日コンサートとあった。
 確かに、ボリス・グレベンシコフというこのグループのリーダーの名前は、よく目にするし、アクワリウムというバンドの存在もかなり以前から知っていた。現に自分も一枚のLPレコードと一枚のCDを持っている。70年代はじめにデビューし、ソ連時代からマシーナ・ブレメニと並ぶ伝説的なロックバンドであることは間違いない。
 かねてからソ連・ロシアのロックを日本に呼んだらどうなるのだろうと興味を持っていただけに、こんな老舗バンドが初来日するということは、いよいよ本格的に日本でのデビューでも考えているのだろうかと思って、切符を購入したのだが、どうもそうではないらしい。あくまでも日本にいるロシア人のためのコンサートと考えた方がいいようだ。

 さてコンサートのなかみだが、最初の6〜7曲目ぐらいまでは、同じようなメロディーラインのバラード調の曲が続く。正直いって4曲目ぐらいでこの単調なメロディーに飽きてしまい、眠気を催してしまった。わざわざ見にくるまでもなかったかとちょっと後悔したのだが、ボリスがギターを軽快にきざみながら、ブルース調の曲が演奏したあたりから、かなりいいノリになってきた。アップテンポの曲が続き、ロシア人たちが両サイドの出入り口あたりにたまりはじめ、曲にあわせて踊りはじめる。途中ヴィソツキイの歌もまじえ(だと思う)、ロマンスのような曲もはいり、構成がバラエティーに富んできてからは、自然に身体が音に反応するようになった。最後の方では、ロシア人たちが最前列に群がり、手拍子とり、腰をくねらせ踊り、ノリノリだった。ステージ上のミュージシャンは、こうした客の反応にさしてあおられている風には見えなかったが、気持ちよく演奏していたのだと思う。アンコールも延々5〜6曲演奏していた。
 グループの編成は、ボリスがボーカルとギターを担当、パパジョン(野毛にあるジャズと演歌をかけてくれる名物バーのマスター)に良く似たおじさんが、サックスやフルート、エフェクターを担当、アルフィーの高見沢君のような長髪の細いお兄さんがキーボード、それにドラムと、いろいろ無駄な動きをするパーカション担当の計5名。若い人もいるのかもしれないが、40代後半ぐらいに見えた。

 ずっと以前からロシアのロックには興味があり、モスクワに行くたびにCDを買い集めていた。いまはなきキノやDDTというグループがお気に入りで、特にDDTは、儲け抜きで一度は日本に呼んでみたいと思っているぐらいだ。CDはいろいろ聞いているのだが、こうして生の演奏を聞くのはこのアクワリウムが初めてだった。実際に聞いてみて、ロシアのロックは、きっと日本にはなじまないだろうなという気がした。まずダサイのだ。ロックのリズムがロシア語を介すると、なぜこんなにもダサクなるのだろう。言葉のせいではないと思うのだが、どんなビートが効いていても、なにか民族音楽ぽっく聞こえてしまう。ロシア民謡の延長でしか聞けないようなところがある。

 アクワリウムのメンバーの演奏ぶりを見ていると、欧米の音楽はどうなっているかわからんが、俺たちは俺たちのスタイルがあり、これでいいんだ、別に欧米に合わせるつもりはないし、わからない奴に無理に聞いて欲しいとは思わない、そんな感じがしてくる。ボリスはサングラスをかけているので、その視線がどこを向いているのかわからなかったが、彼は視線を客席と交わらせようとは思っていなかったのではないだろうか。つまり彼らの音楽は、ステージ上から一方的に客席に流され、それを客席と交差させることにはじめから興味がない、そんな感じがする。恋人に自分の気持ちを分かってもらいたいと懸命に愛をささやくのではなく、俺は恋をしていると自分にささやく、そんな一方的な思い込みに近いものがある。
 このダサさと一方通行、決して嫌いではない。分かる奴だけ分かればいいという突っぱり、あるいは媚びないという姿勢、これは本来ロックが持っていたものではないか。これが逆に新鮮だった。
 ロシアのロックは、ロシアのロックであり、別にロシア以外のところで、聞いてもらわなくてもいい、こんなどこか突き放すようなところが、むしろ小気味いい。

 だからこのコンサートは、日本にいるロシア人のために開かれたものであると思うとすべては納得がいくのである。日本に居て、ここはロシアかと思わさせるような感じに陥ることはそうないことだ。そんな意味でも不思議な体験をしたと思っている。しかしこの日この会場に来たロシア人たちが、日本で何をしているのだろうか・・・ちょっと興味をひく問題だ。


目次へ デラシネ通信 Top 前へ | 次へ