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クマの観覧雑記帳

野毛でチュルタギを見る

 4月22日青空の下、またチュルタギを見ることができた。場所は野毛のはずれにある福富西公園。公演が始まる30分ぐらい前から、たくさんの人が円陣をつくって待っていた。最初に日本に住んでいる韓国人女性が、チュルタギの沿革を簡単に説明する。
 このあとお盆に果物と酒を置いて、チュルタギの先達たちに感謝の辞をのべる儀式。私は円陣の中ではなく、遠くから見ていたので、これは見れなかった。
 これが終わって金大均がいよいよ綱に登る。
 心配していたセリフだが、時折「びっくりした」とか「拍手」とか日本語を交えながらも、基本的には韓国語で通した。これは正解だと思う。このセリフについてはあくまでも即興なので、事前に通訳することはしないというのが、金たちの考え方だ。近くで見ていた人の話によると、かなりの人がセリフを聞いて笑っていたという。
 近くに住む在日韓国人の人たちがたくさん見にきていたのだろう。
 綱にあがり、いよいよ綱渡りが始まる。
 さまざまな歩き方を見せるのが、チュルタギの大きな特徴だ。内股で素早く歩いたり、膝だけで歩いてみたり、大きくジャンプしてみたりするたびに、大きな歓声がまきおこる。青空に吸い込まれるように飛び上がる跳躍技は、見事だ。綱渡りというと、スリリングな技が見どころなのだが、金のチュルタギは、あまりハラハラドキドキというのがない。それは、見ている私たちが、金が綱の上にいることを忘れてしまっているからだ。
 そしてなによりも美しさ、気品が自然に伝わってくる。そのたたずまいというか、立ち姿にしてもそうだが、清潔感が自然と漂ってくる。金のチュルタギにかける純粋な思いが、きっとそのまま演技に反映されているのではないかと思う。
 そして生音で聞く、楽隊の演奏、特に打楽器の音が効果的でもあった。
 安東で見たときよりも、すっぽりと入れた気がする。
 セリフで思ったのは、かたや在日韓国人の人が意味がわかり笑い、日本人が意味がわからなくても雰囲気で笑ったり、手拍子をとったりすることの中に、日本でチュルタギを見せていく意義を少し感じたことだ。
 皆で円座になって見るなかで、例えば韓国語の意味がわかる人に、隣に座る意味がわからない日本人が意味を聞く、そんな中で観客のなかで交流が生れていくということもあり得るのではないか。それがいままでとはまったくちがうかたちの日韓交流をつくりだすヒントになっているような気がした。
 金の公演が終わったあと、同じ公園で綱渡りをしていた在日の中国人の芸人と、おたがいに自分たちのつかっている綱を交換して、演技しようとしたが、張り方がちがうことで、断念した。ただふたりとも自分たちがつかっているのとは別の綱にあがったことでは満足していたようだ。
 綱渡りを通じて交流したいという金たちの夢への第一歩が、野毛から始まったと思う。


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