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早稲田大学『ロシア芸術の現在』講義通信2006

講義メモ 第3回

1.ロシアに渡ったサーカス芸人

このテーマと出会うきっかけについて
 1989年モスクワ訪問――私にとってサーカスの先生ともいえるスラフスキイとの出会い
 スラフスキイ氏から、ロシアで活躍したという日本人芸人の写真を見せてもらう。
 帰国してから、この芸人たちについて記事を書き、共同通信配信。
 これを読んだ読者からの情報により、のちに『海を渡ったサーカス芸人』の本につながる「沢田豊」という芸人を知ることになる。

沢田豊「棒上頭倒立」
沢田豊の荒業「棒上頭倒立」 [拡大]

→参考:「沢田豊」関連記事

2.ロシアのサーカス資料から日本人芸人の足跡をたどる

ロシアに残るサーカス関係の本やポスターなどから、日本人の足跡を追う作業が始まる。点と点を結ぶ作業――なかなか線にならないで現在に至っている。

3.シマダという芸人との出会い

孫娘となるガリーナ・シマダとの出会い
1939年にお祖父さんであるパントシ・シマダが亡くなるというのが気になる。
スターリン時代に粛清されていた。

ビデオ 「シマダグループの究極のバランス」
シマダ・ファミリー(1970年代)
シマダ・ファミリー(1970年代) [拡大]

→参考:「パントシ・シマダ」 関連記事

4.『モスクワで粛清された日本人』(加藤哲郎著)について

ソ連解体後秘密文書が公開されるなか、元日本共産党議長野坂参三が在モスクワの共産党員をスパイとして当局に売っていた事実を明らかにし、除名に追い込んだことでも知られる。この本に粛清された日本人リストがでているのだが、その中にヤマサキ・キヨシという元サーカス芸人の名が出ている。加藤さんに問い合わせたところ、すぐにヤマサキの取り調べ記録のコピーが送られてくる。
 この調書に父親の名誉回復を求めた息子アレクセイの住所があったので、この住所に手紙を書いてみる。すぐに返事が届く。

ヤマサキキヨシ 1 ヤマサキキヨシ 2
ヤマサキキヨシ [拡大1] [拡大2]

→参考:「ヤマサキキヨシ」/粛正されたサーカス芸人 関連記事

5.ヤマネハルコの手記

ナウカ書店の宮本さんから、戦前日本からロシアに渡り、ソ連時代もソ連に残った女サーカス芸人の手記が戦前の雑誌に出ていることを教えてもらう。
読んでみると、ヤマネハルコもヤマダサーカスの一員であったことがわかる。

→参考:「ヤマネハルコ」関連記事

6.アレクセイ・ヤマサキとの出会い

モスクワ出張のついでにモスクワから車で2時間ほどのところにあるナルフォミンスクのアレクセイを訪ねる。
母が死ぬ前に、「お前のお父さんは日本人だ、日本にはお父さんの家族がいるはずだ、それを探せ」と言われたという話を聞かされる。
なんとか探そうと約束して別れる。
東京の外交資料館が保管する、旅券下付表のコピーを調べるが発見できず。
4年後に、再びナルフォミンスクへ。そこで奥さんからアレクセイが昨年亡くなったことを知らされる。
約束を果たせず、大きな衝撃。
人の過去をいたずらに掘り起こしたまま、そのままでいいわけがない。なんとかしてこの一座にいた人たちの足跡を歴史の闇から掘り起こしたいと思っている。

→参考:「アレクセイ・ヤマサキ」 関連記事

7.1958年のボリショイサーカス初来日について

熊のサーカスが人気となる
61年にも来日――キオの魔術が大評判となる
「ボリショイサーカス」の由来について
2007年1月1日の朝日新聞に、歴代の高視聴率番組のランキングがでているのだが、このなかで18位、58%の視聴率を出したのが、1963年のボリショイサーカスだった。
「ボリショイサーカス」は、日本人にとってドル箱ともいえる娯楽であった。
このボリショイサーカスを初めて日本に呼んだのが、神彰率いるアートフレンドアソシエーションであった。

→参考:「神彰」/「アートフレンドアソシエーション」 関連記事

8.アートフレンドと「バイカル湖の畔」

  「ドン・コサック合唱団」招聘で一躍有名になる
  このドン・コサック合唱団を呼ぶきっかけとなったのがロシア民謡「「バイカル湖のほとり」だった。

ビデオ 『シベリア物語』の中で、「バイカル湖の畔」が歌われるシーン

9. 村田満作さんによるアコーディオン演奏

「バイカル湖の畔」をはじめ「カチューシャ」、「トロイカ」など15分ほど演奏してもらう。


配布資料

早稲田学報に掲載した「ロシアに渡った日本人芸人」のコピー
共同通信配信の「粛清された日本人芸人」の記事コピー
「バイカル湖の畔」のロシア語歌詞と日本語訳


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