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金倉孝子の部屋
シベリアの中心クラスノヤルスク(前編)

1.未知の町クラスノヤルスク
2.クラスノヤルスクの歴史
3.革命後のクラスノヤルスク
4.クラスノヤルスクの自然と産業
5.私とクラスノヤルスク

(後編)
 6.クラスノヤルスクの四季
 7.レザーノフフォンドとの出会い


1.未知の町クラスノヤルスク

 クラスノヤルスク市について知っている人はあまりいません。クラスノヤルスク市は、ロシア連邦のクラスノヤルスク地方(地方自治体の一つ)の地方庁所在地です。日本には都道府県が46ありますが、ロシアでは21の共和国、6つの地方、49の州、10の民族自治管区などがあるわけです。
 そのなかでも、クラスノヤルスク地方は、ロシアで2番目に面積が大きく日本の約6倍もあり、南はモンゴルの近くから、北は北極海まで伸びています。ロシアで4番目に長いエニセイ川(4100km)が、ほぼ、南から北へ向かって同地方の中を流れていきます。このエニセイ川がシベリアを東西に分けていて、左岸が西シベリア、右岸が東シベリアと言われています。
モスクワから出発したシベリア鉄道が4000キロも走ってエニセイ川と交わる所にあるのが、私達のクラスノヤルスク市です。さらに東へ東へとシベリア鉄道は伸びていき、バイカル湖の近くでイルクーツク市を通り過ぎ、アムール湖畔のハバロフスク市を通り過ぎてから、南に折れてウラジオストックで終点になります。
 クラスノヤルスク市の緯度は北緯56度ですから、カムチャッカ半島のまん中くらいで、聞いただけでも寒そうです。でも、シベリアでは、ツンドラ、永久凍土帯が多い中で、北緯56度は比較的温暖と言えます。クラスノヤルスク地方の全人口は約三百万人ですが、大部分は南のシベリア鉄道沿いの町々、村々に住んでいて、中部や北部は、ニッケル鉱山のあるノリリスク市を除いて、ほとんど無人と言っていいくらいで、全体の人口密度は1平方キロ当たり1人半以下と地球上でも、最も少ない方です。この無人で気候の厳しい広大な面積に、地下資源だけは、豊富だそうで、「メンデレエフの化学周期律表にある原子はすべて、我地方にある」と、ことあるごとにクラスノヤルスク人は自慢しています。土地が広ければ、地下資源も豊富なのは、当然のことだとしか思えませんが。

2.クラスノヤルスクの歴史

 地方庁所在地のクラスノヤルスク市の人口は87万人で、東シベリアで一番人口の多い工業都市です。
 シベリアのロシア人の作った町は、ヨーロッパロシアから近い順にできていったと言えるので、クラスノヤルスクはトムスク市より24年遅く、イルクーツク市より26年早くて、1628年とされています。それより前の1619年に、クラスノヤルスクより三百キロ程エニセイ川に沿って北方に、エニセイスクと言う毛皮をはじめとするシベリア物資の集散地で、東シベリアへのロシア人の基地ができています。その当時、チュルク語系遊牧民や、モンゴル語系遊牧民など(まとめてタタール人とも言われています)の、かなり強大なシベリア封建公国が南部にありました。彼等からエニセイクスを守るために、コザックの頭目のドゥベンスキーが、カーチャ川のエニセイ川に注ぐところに木造の要塞を建てたのが、クラスノヤルスクの始めです。
 クラスノヤルスクと言う名前は「赤い崖」と言う意味です。それは、この地方のエニセイ川の河岸段丘の土壌が赤色の石灰質だからです。1699年にはこの「赤い崖」要塞村の住人は656人に増えていたと、地方史の本に書いてあります。
 1740年頃にはモスクワ街道(つまり馬車が通れる道路)がモスクワからウラルを越えてクラスノヤルスクまで通じて、クラスノヤルスクは急激に発展し始めました。経済的重要性は先のエニセイスク市よりまだ低かったにもかかわらず、1822年にはエニセイスク県の県庁所在地になったとも書いてあります。
 ちなみに、ロシア帝国を東西に横切る時は、江戸時代の漂流民も、レザノフも、明治政府の初代ロシア公使の榎本武揚も、みんな、必ず、クラスノヤルスクを通りました。広いシベリアですが、東西交通陸路(鉄道、自動車道)は今でも数少なく、クラスノヤルスクを通らないとシベリア横断はできないと、ほぼ言ってよいくらいです。南北交通路の方は、もっと乏しくて、河川運行路か、航空路しかありません。

3.革命後のクラスノヤルスク

 「クラスノヤルスク地方」と言う名前になったのは、革命後も、1934年のことです。第二次世界対戦中、ヨーロッパ・ロシア地方から、多くの工場が疎開してきました。それ以来、クラスノヤルスク地方は工業がいっそう発展したそうですが、「シベリアはモスクワの植民地だ」とも言われているくらいで、ペレストロイカの前も後も、富は、モスクワへ流れているのだそうです。その富の行方はともかく、50年代60年代は、他のソ連の地方と同様、工業地帯クラスノヤルスクは大発展しました。
 当時世界一の発電力のクラスノヤルスク発電所を作ったり、エネルギーと原材料産地と製造工場を結び付けたアルミ産業(ロシアのアルミ生産の50%)や、石炭(露天掘り)産業、金属工業、重機製造業、化学、材木、繊維などが発展し、クラスノヤルスク市周辺は東シベリア一の大工業中心地になりました。もちろん、公害対策は十分とは言えませんから、工業が発展すればする程、健康には悪い町になったそうです。
 (情報は、ソ連時代より公開はされているでしょうが、まだまだ管理されていて、公害の実体については、一般の人は知りません。)
 50年代60年代には、そればかりではなく、東西の国境からもっともはなれていると言う理由からか、軍事産業も発展しました。もちろん当時の「計画経済」の計画が実行されたのです。
 クラスノヤルスク26市、クラスノヤルスク45市という地図にも載っていない軍事秘密都市もできました。核弾頭用ウランやプルトニウム工場を作り、同時にそこで働くための技術者や労働者のための住宅を作り、その人たちが生活するための店、学校、病院、コルホーズなどを作り、周りを鉄条網で囲み、出入り口を一つだけつけて閉鎖都市としたものです。
 ソ連時代は、誰もその町のことは知らない、存在しない町で、外国人はもちろん、ロシア人でも許可がなければ入れませんでした。
 26市や45市だけではなく、1991年のソ連崩壊までは、クラスノヤルスク地方全体が、軍事的重要産業が集中しているからと言うので、外国人は入れないことになっていました。アルミも機械も電力も軍事利用が優先されていたわけですから。
 戦後強制抑留者達のお墓もたくさんあるのですが、91年までは、墓参団も普通の旅行者も入れなかったのです。今では、もちろん、自由に訪れることはできますが、ジェレズノゴルスク市(元の暗号名のような26市が、まともな固有名詞に改名した)と、ゼレノゴルスク市(元の45市)は、今でも閉鎖都市で、出入りには、モスクワの原子力管理庁(または、内務省)の許可がいります。

4.クラスノヤルスクの自然と産業

 クラスノヤルスクだけではなくシベリアの町にはほとんど、特に有名な歴史的な名所旧跡がありません。革命前に建てられたロシア正教寺院などは、30年代のスターリン時代に改造されて何かの工場になったか、または、全く破壊されてしまいました。ソ連経済の景気のよい時に、計画経済で、大量生産された建物が多く、街並みもどこも同じで、観光地と言えるところは、少ないです。革命前の大商人が住んでいた豪宅は、図書館になったり、市役所分館になったりして、外観が保存されていたりします。 最近、経済的に豊かになったところでは、古い建物が復旧されています。クラスノヤルスクのシンボルともなっているカラウリナヤ丘の元コザックの見張り塔(周りから、タタール人が攻めて来ないか見張っていた)で、その後、小礼拝堂になったチャソブニアも、そうです。
 モスクワからきたシベリア幹線鉄道が、クラスノヤルスクまで通じたのは1895年です。そして1899年にはエニセイ川を越える鉄橋が完成しました。これは、当時、技術の高さで、パリ万国博覧会の金メダルをとったそうです。さすが金メダルだけあって、つい最近まで、100年間も、東から西へ、西から東へと列車が通っていました。でも、橋桁が駄目になったので、今取り壊し中です。そのような歴史的な橋を壊さないで、ユネスコの世界遺産記念物として残しておこうではないかと言う声もあったのですが、候補から外れてしまって、今は本当に壊しています
 ソ連時代にできた名所と言えば、クラスノヤルスク発電所で、観光客用パンフには必ず載っています。発電所そのものは観光にもなりませんが、その辺一体の自然は、確かに雄大です。ダム湖は、クラスノヤルスク市からエニセイ川に沿った上流50キロ程離れた所にあります。シベリアの自然はどこも雄大ですが、そこまで行くには馬かヘリコプター以外に交通手段がありません。その点、クラスノヤルスク発電所は、町から近いですし、発電所を作るために作ったよい自動車道路がありますから、観光客は容易に東サヤン山脈の自然美を見に行けます。
 発電所ができたために、冬でもダム湖の下の氷らない水が流れてくるので、ダムの下流100キロくらいのエニセイ川の水温は、外気より高くなり、川面には湯気が上がります。冬の温度が昔のように下がらなく、水蒸気のため湿度も多くなりました。この気候の変化は、クラスノヤルスク周辺の自然を破壊しています。ダムの影響はそれだけでなく、魚達の運行もダムの上流と下流で分断されてしまいました。ダムを造るのに反対した学者は多かったと言います。
 クラスノヤルスク発電所が運転を始動した1971年には、発電力ではロシア第一でした。その後、エニセイのさらに500キロ上流にサヤノ・シューシンスキー発電所ができでロシアで2位になりました。ソ連時代は、何でも超巨大だったようです。
 また、クラスノヤルスク市から車でたった30分ぐらいの所に、岩山自然公園があります。ロッククライミングのできる切り立った岩が80個以上あり、「おじいさん」とか「鳥の羽」とか「スキタイ人」とか「さめ」とか愛称がついています、初心者用の岩のひとつに「孫」と言う数メートルくらいのがあります。これは、私も綱をつけて引っ張りあげてもらったことがあります。降りるのが恐かったです。ベテランになると何十メートルもの岩の頂上から隣の岩の頂上へ飛び移ったりします。落ちることもあるそうです。
 クラスノヤルスク市は、一昔前の日本の工業都市と同じように、スモッグがあります。星空の見えない町です。でも、広いクラスノヤルスク地方の大自然は、狭い日本の規模ではありません。その美しさと厳しさには、日本のちまちました自然はかないません。

5.私とクラスノヤルスク

 私がここに初めてきたのは10年以上前でした。クラスノヤルスクと決めて、来たわけではなく、知人を通していくつか当ったうち、クラスノヤルスクからの返事が一番早かったからです。1992年から94年まで私がいたのは、ペレストロイカの後の45市でした。その頃、開放的な気分だったため、外国人が入れただけではなく住むことまでできたわけです。
 そんな秘密閉鎖都市の中にあるクラスノヤルスク大学付属「宇宙航空学校」と言うところへ行くとは、その場所につくまで、知りませんでした。イルクーツク空港に迎えにきてもらった人に連れていかれたのが、クラスノヤルスクとはちょっと違うなんだか分からないところでした。当時日本語熱の高まった時、校長の意向で日本語の授業をすることになって、講師を捜していたのだそうです。この45市のことやこの学校のことは別の機会に述べたいと思います。
 その後、日本へ帰り、以前からの仕事(学校教員)に戻ったのですが、2年後、退職して本格的にクラスノヤルスクへ行くことにしました。96年から97年まで元の45市にいましたが、97年の夏から事情があって、クラスノヤルスク市に移りました。
 クラスノヤルスク市での最初の1年間は、今のビザ審査では考えられないことですが、フリーに近い状態で生活しました。自分でアパートを捜し、自分で仕事を捜しました。市教育委員会などにあたって、学校で日本語を教えたり、工業大で有料日本語講座を開いたり、「ピオネール宮殿」で教えたり、通訳をやったりしていました。当時、円から両替えして持ってきたドルがたった6ルーブルのルートという厳しい状況だった(今は32ルーブルもする)ので、せっせと、現地でルーブルを稼ぎました。また、45市と比べて自由な大都市だったので、毎日、車で地図に載っている道という道をくまなく探検し、村という村全部へも行ってみました。もちろん日帰りでいける範囲です。道路状況が悪く、ついに日本からコンテナで持ってきた車は、壊れて、修理場を捜すのに苦労しました。その頃はもう、日本車は多かったのですが、部品が余り入ってきていなかったのです。
 98年夏、日本へ帰国するにあたって、秋にまた戻ってくるためには招待状が必要です。工業大からも招待状をもらいましたが、念のため、外国語学部のある総合大学からも、もらっておこうと思って、そこの学部長(女性)に電話で頼みました。あっさり承知されましたが、必ず、総合大学の招待状を使ってビザを作ること、戻ってきた時には、総合大学を最優先で日本語講師をすると言う条件でした。給料は二百ドルと言われましたが、98年のロシア恐慌でドルが高騰し、実際は80ドルくらいしかもらえませんでした。


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