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金倉孝子の部屋
モスクワからプラハへ―『おまけ付きチェコ』旅行

 私の働いているクラスノヤルスク国立大学は、1月後半が冬休みです。ロシアに滞在中にその利点を生かした旅をして、見聞を広めたいものです。それで、「1月18日夜モスクワの鉄道駅を、プラハ行き国際列車で出発し、1日半後の20日早朝にプラハに到着し、プラハのホテルで5泊後、同じルートでモスクワに戻る」という、モスクワの旅行会社の組んだ団体ツアーに参加することにしました。鉄道を利用すれば、安いし、それに車窓から、モスクワからチェコまでの国々、町々、村々、東欧の自然が眺められて、一石二鳥だと考えました。
 これが実は、一石三鳥で、その三鳥目と言うのが『おまけ』でした。


 国際列車はモスクワからベラルーシ(ミンスクが首都)を通り、ポーランドを抜けて、チェコのプラハに着きます。しかし、日本人は、ポーランドとチェコはビザ無しで入れるのですが、ベラルーシは、ビザがいると言うことは思い付きませんでした。
 ちなみに、ベラルーシは旧ソ連邦なのでロシア人はビザ無し入国ができます。私は、自分がロシア人のようなつもりで、深くは調べませんでした。
 でも、ロシア人は、チェコも含めて、たいていのヨーロッパの国へはビザは必要ですが、日本人には不要です。今度は、自分が日本人だと喜んでいました。
 私のような、ロシア在住外国人は、ロシアの国境を出て、また、戻ってくるためのビザがいります。そのロシア出国及び再入国ビザは、ちゃんと前もって、入手しておきました。ですから、私としては、チェコへ行くには、チェコ入出国ビザはいらないが、ロシアを出たり入ったりするための、ロシアの出入国ビザはもう手もとにあるから、これで準備完了と思ったものです。旅行代金も払ったし、クラスノヤルスクからモスクワまでの飛行機のチケットも買ったし、これで、モスクワの集合場所に定刻までに行けば、もう後は添乗員さんが連れて行ってくれる、と思ったものでした。
 ところが、ロシア国境からベラルーシ国境へは無検査なので、結局、そのロシア出国及び再入国ビザは使わないままでした。ベラルーシとポーランドとの国境を通過する時だけ検査されるのです。

 ベラルーシとポーランドとの国境の町ブレスト市で、列車は2時間半も止まります。その間に、国境警備員が列車の中に入ってきて、ひとりひとりのパスポートを調べます。
 その制服の係官に「自分の荷物を全部持って、一緒に来て下さい」と言われた時は、何のことかわかりませんでした。「トランジットビザがない以上絶対に通してやるわけには行かない」と言われても、なぜ、自分にそれがないのか、なぜ自分にそれが必要なのかもすぐには納得できませんでした。
 ブレスト駅の税関ホールで一人ぽつんと、「留まったらいいのか、戻った方が簡単なのか、なんとか進んだ方がいいのか」考えていました。進むにしても、その「トランジットビザ」をどうやって、この知らない町で手に入れたらいいのでしょう。
 見のがしてもらうために、国境警備員に100ドルそっと払ってもいいと思いましたが、やっぱり、私にはそのタイミングと、きりだし方が分かりません。そのうち列車は発車してしまうし、ブレスト駅構内の税関で、いつまでも座っているわけにもいきませんし、とにかく、印を一つ押したパスポートを受け取って外へ出ました。若い制服の国境警備員が私の荷物を持ってくれて、出口に案内してくれたのです。そして彼が教えてくれた駅前のホテルにいき、1泊20ドルくらいの部屋を取りました。
 その日は日曜日で、トランジットビザを発行してもらえるかも知れないと、国境警備員が教えてくれた警察も休みですし、どうせ、次の列車は24時間後でないと来ませんから、町の見物でもしようと思いました。ブレスト見物と言うおまけ付きになったので、それも悪くないと自分で思いました。
 プレストは、1917年にトロツキーがドイツと単独に講和した町で、その時の写真が、高校の歴史の教科書に載っていたのを覚えています。だからといって特に見るところも無さそうです。多くのソ連時代の町と同様の町の作りで、同じように寂れています。べラルーシは景気がロシアより悪いだけあって、ロシア人に言わせると、酔狂でも観光しようと思わない町でしょうが、記念に1ドル半くらいの市街地図を買いました。また来る機会も無さそうなので、町の写真も記念にとっておきました。ビザ用顔写真も、町の写真屋でとってもらいました。
 しかし、ブレスト市を歩いていても、なぜ、自分がここにいるのか、ここにいるのは合法的なのかどうか、もしかして、不必要に滞在しているのではないだろうかと、思ったものです。国境警備員に、もっと粘れば良かったのか。いや、列車から降ろされてからでは遅すぎる、降ろされる前に、交渉するべきだったのではないかと、思いました。でも、外国人の私には、やはり「裏取り引き」は無理でしょう。
 でも、トランジットビザもないのに、ブレスト市を歩き回るというのも、合法的なのでしょうか。トランジットビザもないのに、ロシアとベラルーシの国境を越えて、ベラルーシに入国し、ベラルーシ国内をずっと横切って、ベラルーシ国境からポーランド国境へ出るという時、ストップされて、そこで、こんなふうに自由に動き回れるなんて、良く分からない国です。

 次の日、朝1番に、ビザを発行すると言う警察へ、行きました。別室で、私服の警察官(と言っても、単に制服を着ていなかっただけだと思う)が口述する申請書を手書きして、サインしました。別室と言っても、廊下で書くわけにも行かないので、別室なのだと思います。口述文の内容は、「私にトランジットビザを交付して下さい」と言う単純なものですが、長々と書いてA4の紙いっぱいになりました。なぜ、事務の迅速化のために印刷しておかないかと思ったくらいです。それから、近くの銀行に手数料10ドル分のベラルーシルーブルを払いに行きました。その受け取りを持って、またもとの警察署の別室に戻り、さらにその場で現金で34ドル分ほどのルーブリを直接係官に支払いました。つまり、44ドルが当日公布のビザの値段のようです。ビザを、「買った」ような感じでした。そして、ブレストからプラハまでのチケットを買い直して、24時間遅れで、ブレストを出発しました。
 その日の国境警備員と税関員はまた別のおじさんで「おや、日本人が、こんなところに来るとは珍しいこと、何の用だったのかね」(別に用事はなかったのですが。)
 「ルーブルはもってるかね」。これは、ベラルーシ・ルーブル(インフレで、数字が大きすぎて実感が湧かない)のことではなく、ロシア・ルーブルのことだと後で分かりました。こうやって、トランジットのロシア人旅行者を調べて関税をとって儲けているのだと、後で、ロシア人が説明していました。こういう「通行税」の取り方は、中間地点にある国の、古代からの特権です。私は、どちらのルーブルも、ドルも円も、申告書に書くのが恥ずかしいくらい、わずかしか持っていませんでした。
 その他、珍しいと言うだけで、なんだかんだと引き止めました。こんなところでなければ悪い気はしないのですが。


 やっと、プラハにつきました。ブレストの郵便局からプラハの旅行会社に国際電話をかけておいたので、プラットフォームに迎えの人が来ていました。プラハのホテル代や観光代、駅からホテルまでの出迎え代などは支払済ですから、一人で自力で遅れて到着したとしても、やはり迎えてもらわなくてはなりません。とは言っても、プラットホームに迎えの人がいると言う確信はあまりなかったです。見つけた時は、本当に、これで救われたと思いました。迎えの運転手さんは、プラハに来て5年になるというグルジア人でした。
 実は、もう、あまりチェコ見物の気分ではなかったです。でも、そのために来たのですから、団体(つまり、途中で別れたけれど、やっと合流できたモスクワ発のロシア人グループ)で、ぞろぞろ見物しました。
 ヒットラーも、チェコに残る中世の古城や、プラハの古い町並みが好きで、第二次大戦中(も、その前も)、破壊しなかったそうです。ヒトラー帝国ができたら、首都をベルリンからプラハへ移そうと考えていたくらいだと、ガイドが言ってました。確かに、中世、プラハはヨーロッパの首都同然だった時期があります。

 プラハは美しい町です。ついロシアと比べてしまいます。同じスラブ人ですし、戦後は、ソ連と同じような政治機構でしたし、「ソ連東欧」とひとまとめに言われていた時期もありましたから。確かに、巨大なレーニン像が町の高台に立ち、通りの名前も、レーニン通りや、マルクス通りがあり、革命広場もあったそうですが、今は、「ビロード革命」前の体制や、モスクワを思い起こさせるものは、全くありません。
 クラスノヤルスクはもちろんモスクワを堂々と走っているような、潰れかけて、どろだらけの古い車は一台も見かけません。超スピードを出して歩行者のすぐ側を走り抜けていくと言うマナーの悪い車もなく、いつも歩行者優先です。
 角が欠けていたり、はがれていたり、泥がかぶっていたりと言うような建物は、一軒もありません。プラハの中心の観光地だけではなく、町のどこへ行っても、郊外の田舎へ行ってもそうです。クラスノヤルスクのようなシベリアの田舎に長く住んでいて、来る途中、ロシアでは例外的に美化の進んだとさえ言われているモスクワ中心観光地も見てきた日本人の私は、プラハとチェコは、モスクワはもちろん、日本より美しいかもしれないと言いたいくらいでした。もちろん、別の美しさで、中世騎士物語の続編のようです。古くは13世紀に建てられ、その後何度も修復され化粧直しされた町並みの美しさです。中欧のプラハの美しさは、日本にいる時に、映画やテレビを見たり、小説を読んだりして想像していた世界とおりでした。
 ヨーロッパで有名な保養地で、歴史上の多くの著名人も保養したと言う、プラハから80キロ程離れたカルロフ・ヴァールのホテル群は、ロシアのどことも比べようがありません。一時期は、没収されて国営となったもっとも由緒あるホテルが「モスクワ・ホテル」と言ったそうですが、今では、元の名前「グランドホテル・プップ」にもどったそうです。

 オプショナルツアーで、50ドル程払って、郊外にある中世からの城をいくつか見物しました。城主の名前はドイツ風で、城の外観も、インテリアも調度品も、キエフやモスクワの歴史博物館にあるものより、きっと、ドイツやオーストリア、もしかして、フランスの城にずっと似ているに違いありません。
 これまでは、漫然と、チェコはスラブ人、チェコ語はウクライナ語と似ている、と考えていたのですが、チェコは、モスクワ側ではありません。ロシアで発行されたロシア語の「スラブ人の歴史」を読んできたので、スラブ系と、一まとめに考えていました。
 プラハに着いた1日目に買った日本語版ガイドブック「プラハ案内」と言う本には「プラハを造ったのはチェコ人とドイツ人とユダヤ人である」と書いてありました。なるほど。これを機会に、チェコの歴史を勉強することにします。
 フリーの日はロシア語ガイドを頼んで、私の行きたいところへ行ってもらいました。と言っても、どこでもよかったのですが、第2次世界大戦前は、プラハの人口の25%もいたと言うユダヤ人が、中世に住んでいたと言うゲットーへも行ってみました。近くの教会(シナゴーグではなく、ロシア正教、なぜなら、ロシア人専門のガイドなので)の売店で「プラハのゲットー、物語と伝説」という本も買いました。
 「旧市街」にあるカフカ記念館にも寄りました。カフカはチェコ人ではなく、チェコ語でも書かなかったのですが、でも、やはり、チェコのカフカのようです。中世からのプラハ城塞の中に「黄金通り」と言う短く狭い通りがあり、そこに、カフカの姉妹が住んでいたとガイドが言う家に入ってみると、本やカードが売っていました。「フランツ・カフカとプラハ」と言うロシア語の本が売っていたので、買いました。まだ、読みはじめていませんが「プラハを知らずにカフカは理解できないぞ」と書いてありそうです。
 シーズンオフなので、日本語ガイドもいましたが、半日6000円以上するそうですし、もしかして、そのチェコ人日本語ガイドの日本語が、必ずしも分かりやすい日本語とは限りませんし、上手なガイドは日当ももっと高いそうですから、ロシア語ガイドで済ませました。(日本語版ガイドブック「プラハ案内」も買ってあることですし)。半日4000円ぐらいで、とても良心的でした。途中で入った喫茶店では、紅茶やケーキをおごってくれたりしました。ガイドにおごってもらうなんて初めてです。

 もちろん、一人で歩いた時は、いくつか覚えてきたチェコ語を試してみましたが、あまり役に立ちませんでした。表示は、ゆっくり読んでみると、ロシア語から類推できるものもありますが、会話は駄目です。
 本屋に入り、ロシア語で書かれているチェコ語の音声付き学習書はないかと尋ねました。尋ねた店員がロシア語の分かるチェコ人でした。カセット付き教材で700クローン(約3000円)のがありましたが、出発の前日で手持ちのクローンが500しかありません。店員は、私の顔をジッと見て「あんたどうしてもチェコ語をしゃべれるようにならないといけないのね」と言いました。きっと、モンゴル系ロシア人がチェコに働きに来て、チェコ語ができないと、居住権もとれないので、必死に、勉強しようとしているのだと、感心されたのかも知れません。「ドルなら、持っているわ」と言うと、後いくら両替えすれば、この教科書が買えるか、一生懸命紙と鉛筆で計算してくれました。そんなに親切にしてもらったので、急いで近くの両替所で両替えして、買いに戻りました。
 もちろん、入った店によっては、ロシア語の分からない人もいます。でも、ロシアと違って親切なプラハの店員さんは、一生懸命ロシア語で説明する私のことを、分かろうとしてくれました。
 そんなふうに、団体旅行しながら、一人歩きできて満足でした。


 帰りも、ベラルーシを通るので、観光している間に、旅行会社の人にプラハの領事館で帰りのトランジットビザを作ってもらいました。有効期間は2日間で50ドルもしました。もちろん、始めから分かっていれば、モスクワで、往復のトランジットビザをはるかに安く用意できたのに。
 でも、こんな「おまけ」体験ができたのですから、ブレスト市途中下車の全費用(行きと帰りのトランジットビザが約94ドル、ブレストからプラハまでの列車代買い直しで85ドル、ブレストでのホテル代20ドルの合計約200ドル)も、それほど無駄だったとは思っていないのです。
 もし、ブレストで、「もう、何にも分からないわ」と言って留まっていたら、どう言う処置をされたでしょうか。そこまでやる勇気はありませんでしたが。

 ところで、行きの道中で、私が、ベラルーシ駅構内の税関ホールで2時間もぽつんと取り残されて、待っている間、私と同室のクペーだったロシア人夫婦は、荷物を徹底的に調べられたそうです。怪し気な日本人と同室だったので、どう言う関係なのか、余計なものは持ってないかと、絞られたそうです。同じグループの旅行者ですが、グループ参加者は、モスクワから一緒になっただけで、お互い知らない人達だとは、国境警備員も知っているはずなのに。ロシア人によると、そうやってベラルーシの税関は何かとロシア人旅行者に因縁をつけて「通行料」を取ろうとしているのだそうです。
 帰りの列車でも、その夫婦と同じクペーになりましたが、彼等は追加料金を払って、別のクペーに移っていきました。それは、また検査されるからではなく、チェコで、買い物をし過ぎて、荷物が一杯で、寝るところもなかったからです。

 実際、帰りのべレスト通過は、何ごともなく過ぎました。
 ただ、ヨーロッパ狭軌鉄道用車輪を、ロシア広軌鉄道用車輪に変えるために、3時間近くかかりました。何せ、特別の、レールが4本ある引き込み線へ入り、一車両毎持ち上げて、狭軌鉄道用車輪をはずし、広軌鉄道用車輪を取りつけるのですから。
 陸続きの国境の国なら、みんな同じ幅のレールにしておけばよかったのに。

 さらにもう一つおまけですが、クラスノヤルスクに戻ってから、私が直接料金を払ったクラスノヤルスクの旅行会社に賠償請求をすることにしました。国際列車でモスクワからプラハまで行く場合、日本人にはどんな書類が必要か、それを旅行会社が知っているべきです。旅行代金にはビザ関係費用も含まれると旅行引き受け書に書いてあります。それを、指摘すると、クラスノヤルスクの旅行会社は、責任は自分達にはないと言うので、私は納得できません。知り合いの弁護士に相談すると、裁判するしかないと言うので、地域の調停裁判所へ告訴状を出しました。ベラルーシで一人列車から降ろされてショックを受けたので精神的損害賠償もしたらいいと言われて、500ドル、プラスしました。弁護士と言うのは私の教え子のお母さんで、ただでやってあげると言われました。
 ちなみに、別の旅行会社に、同じようなチェコ旅行の申し込みをすると、ビザ代込みの費用は幾らになるだろうか。と、弁護士が、言うものですから、いくつかの旅行会社をあたって調べてみました。もちろん、何にも知らないふりをして、きいてみました。ある旅行会社からは、「日本人のあなたには、チェコへのビザも、ベラルーシのトランジットビザもいりません」という解答でした。「本当にトランジットビザもいらないのですか」と念を押すと、「団体旅行なのでいらない」と言うことです。別の旅行会社の解答は、「モスクワのベラルーシ領事館で、あなたが自分でトランジットビザを手に入れて下さい。当社は、日本人のベラルーシ・トランジットビザは扱っていません。ですから、国際列車ではなく、飛行機でモスクワから直接プラハへ行くことをお勧めします」と言うものでした。クラスノヤルスクには、たくさんの旅行会社があります。前者の解答の方が多かったです。
 4月22日が、第1回目の調停です。弁護士によると、勝利の可能性は、半々だそうですが、裁判費用はかからないので、やる価値はあるとのことです。弁護士に委任するという委任状を、公証人の所で作ってきました。
 ロシアでは、何をするのも、当初の予定よりは、膨れてしまいます。


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