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金倉孝子の部屋
モスクワからペルミへ―ヴォルガ川とカマ川クルーズ(前編)
2003年6月28日から7月13日

1. 出航まで
 ロシア旅行事情
 行き先選び
 ヴォルガ方面を選ぶ(ついでに白海も)
 クラスノヤルスクからモスクワへ、ソ諸島を回って、またモスクワへ
 バシコルトスタン号と船客

2. ヴォルガ川を下る
 出航
 モスクワ運河
 ウグリッチ、ヤロスラブリ、コストロマのお遍路周り
 乗客の一人ジェーニャ
 川幅広いヴォルガ
 閘門また閘門と、私のアイディア
 橋ぐらい・・・
 観光都市ゴロデーツ
 旧ゴーリキー市とゴーリキー記念館


1. 出航まで

ロシア旅行事情

 クラスノヤルスク市に住むようになって7年経ちますが、よく国内を旅行するようになったのは、ここ2、3年です。それまでは、帰国するための経由点、ハバロフスクへやむなく飛ぶ時ぐらいしか、長距離旅行はしたことがありませんでした。飛行機はダイヤ通りに運行してくれませんし、列車のトイレはたまらなく不潔だからです。それに、知らない町に行って、空港や駅からホテルまで、一人でタクシーに乗るのは、やはり不安です。といって、重い荷物を持って、親切そうな通行人に尋ねながら、バスや電車で行くのも、苦行です。
 以前は、日本のような旅行会社もなかったと思います。ロシア人ですと、休暇で国内国外の観光旅行する時は、職場等の組合に申し込みをして、旅行券(無料か、割引価格)を交付してもらって出かけて行ったようです。昔は、この旅行券がボーナスのようなものでした。ですから、もらえないこともあったり、希望通りの時期や行き先でなかったこともあったようです。でも、最近は旅行するにもこのような不自由な「ソ連式」でなくなりました。私立の旅行会社や取次店がたくさんでき、お金さえ出せば、個人で簡単に好きなコースを選んで申し込めるようになりました。私も、2年前、「モスクワ近郊・歴史探訪のバスの旅(モスクワ・ゴールデンリング)6日間」というのに行ってきました。旅行会社に支払った金額は200ドルほどです。普通のロシア人でも払える金額です。でも、この旅行の出発地点はモスクワですから、クラスノヤルスクからそこまで自力で行かなくてはなりません。
 クラスノヤルスクから出発する国外旅行コースはあります。トルコやキプロス、バンコクなどへ行くツアーだそうです。需要があるのでしょう。クラスノヤルスク発の国内旅行コースというと、よさそうなのは「エニセイ川クルーズ12日間」しかありません。これには、去年参加しました。集合地点が、勝手知ったクラスノヤルスクですし、なんと言っても、クルーズというのは長期滞在のホテルがそのまま移動してくれるので、荷物を詰めたり解いたりしなくてもよく、あわただしくありません、その点、私のような外国人単独旅行者には向いています。

行き先選び

 ロシアは広いですが、手軽に観光旅行できるところは多くありません。ただ、モスクワやサンクト・ペテルブルグ市やその周辺ですと、名所旧跡めぐりのパック旅行がたくさんあって便利です。それ以外の、たとえばシベリアの都市は、みな同じような「ソ連式」のあじけない都市計画でつくってあり、古い教会などはあってもスターリン時代に破壊されていて、わざわざ遠くから来て見物するほどのものもなく、パック旅行も企画されていないようです。

 観光だけではなく、有名な鉱泉の出るところや塩湖などに行って、治療もかねて何日も滞在するというのも、ロシア人達の休暇の過ごし方の一つです。湯治の施設もあります。
 また、鉱泉の出るところでも、美しい湖畔や川辺、景色のよい山でも、宿泊施設のあるところよりないところの方がずっと多いので、そこへは、テントを担いでいきます(お金があればヘリコプターでいきます)。手つかずの自然の中には、鉱石や石油等の産地を捜すための地質調査隊や、狩猟者用の無人の山小屋があってそこに泊まることもできます。こんな旅が最もシベリアらしいですが、誰にでもできるわけではありません。

 ロシア観光旅行のもうひとつのタイプはクルーズです。リバー・クルーズの楽しさは、ロシアのような大陸でないと味わえないでしょう。シベリアには、東からアムール川、レナ川、エニセイ川、オビ川とあって、どれも長さが4000キロ、5000キロですから、日本の北海道から沖縄までもあります。でも、クルーズ船が往復しているのはエニセイ川の場合、クラスノヤルスクから北緯69度のドゥジンカまでの約2000キロだけです。それだけでも十分な長さです。ウラル山脈の西側にも、ヨーロッパで一番長く、流域面積も広いヴォルガ川があります。長さは3700キロです。ロシアの川はたいてい冬季は凍りますから、クルーズできるのは、場所にもよりますが、5月始めから10月末までです。
 ところで、レナ川はクルーズをしているでしょうか。オビ川にはノヴォシビルスクからサレハルド(ちょうど北極圏の入り口のあたり)までのコースがあると、クルーズ愛好ロシア人から聞きました。もちろん、ヴォルガ方面ですとたくさんのコースがあるはずです。
 2002年は、地元エニセイ川クルーズをしましたから、その次は「ロシアの母なる川ヴォルガ」だと思いました。ロシアは昔から河川交通が盛んで、大小の村々も大きな川やその支流にできました。支流が本流に合流するような要所にできた村は発展して大きな町になりました。また、今でも、道路がなくて川をたどらないと行けない町や村がたくさんあります。道路や鉄道を利用するより、川に沿って行った方が、ロシアらしいロシアを見ることができそうです。

ヴォルガ方面を選ぶ(ついでに白海も)

 河川交通がいまでも盛んなロシアには、川と川をつなぐ運河がたくさんあります。長くて世界的に有名なものだけでも、ヴォルガ川とドン川をつなぐヴォルガ・ドン運河、モスクワ川とヴォルガ川をつなぐモスクワ運河、サンクト・ペテルブルグからオネガ湖へ向かう新ラドガ運河、オネガ湖から白海へ出る白海バルト運河などがあります。ですから、いくつかの川や運河を組み合わせたり、支流をさかのぼったり、海へ出たりするクルーズ・コースがあって、ヨーロッパ・ロシアのコースは、シベリアのと比べてバラエティに富んでいます。
 エニセイ川クルーズの豪華客船が「アントン・チェホフ号」だけなのに比べると、ヴォルガ方面は船も選べます。でも、夏場の豪華客船は外国人観光グループ(日本人を含む)に押さえられていて、一般ロシア人(私を含む)が予約できる船は限られていることがわかりました。
 旅行会社に聞いたり、ロシアでもそれなりに普及しているインターネットで調べたりして、6月下旬から7月上旬の期間で、あれこれとコースを検討しました。私の勤める大学の学期末試験は6月中旬までに終わりますし、7月後半には日本へ里帰りしなくてはなりません。また、クルーズの出発点モスクワまで、クラスノヤルスクから4000キロ、飛行機で4時間もかけて行くのですから2、3日のクルーズでは十分とはいえません。また、船室も、シャワー・トイレなしの旧式では、快適といえません。
 結局、「バシコルトスタン号でモスクワからペルミ、16日間」というのを選びました。それは、6月28日出発なので大学が休みに入ってから出発までの間、しばらく時間があります。どうせ、出発点のモスクワまではるばる行くのですから、一度訪れたいと思っていた白海のソロヴェツキー諸島へも寄ってみたいと思いました。インターネットで調べて、6月22日に、ソロヴェツキー諸島の対岸の町ケミまで行くと、ケミから連絡船でソロヴェツキー諸島へ行って観光をして、またケミまで戻してくれるという、ホテルつき食事つきガイドつきの5日間パックツアーが見つかりました。これは、モスクワまで自力で行くだけでなく、モスクワからケミまでも自力で行き、そこで、ツアーのグループを見つけなくてはならないという難しさがあります。でも、そのパックツアーを主催しているアルハンゲリスク市の旅行会社と何度も電子メールで質問をしたり確認をしたりして、行くことに決めました。
 「モスクワからペルミ、16日間」の費用は日本円にして一人約12万円です。一人用船室にはなぜかトイレとシャワーがなく、二人用船室を一人で使うと50%増しの18万円といわれました。これは、クラスノヤルスクの旅行会社を通じたのでこれだけ高くなったので、もし直接モスクワの窓口へ行けば、もっと安かったでしょう。
 「ソロヴェツキー諸島5日間」は銀行の振込み料も合わせて35000円くらいでした。ホテルのツインルームのシングルユースは50ドル高になったほか、外国人はさらに百ドル高と言われましたが、「私はロシアの居住許可証を持っているから、選挙権がない以外はロシア人と同じはずです」と、一応言ってみると幸いその通りにしてくれました。

クラスノヤルスクからモスクワへ、ソ諸島を回って、またモスクワへ

 6月21日、9時にクラスノヤルスクを立ち、4時間飛んで、モスクワ時間9時にモスクワのドモヂェドヴォ空港に着きました。そこから電車と地下鉄を乗り継いでレニングラード駅(モスクワ発、サンクト・ペテルブルグ行きなど北方方面の列車が出発する駅)に着きました。そこでケミ行きの列車が出発する夕方まで待たなくてはなりません。駅の荷物一時預かり所に、私の3週間の「大」旅行にしては最小限におさえたかばんを預けて、外へ出てみると、駅の周りは、人相の悪い人たちがうろうろしています。露店も多くごみごみしています。あまり知らないモスクワで迷子になって、列車の出発までにレニングラード駅まで戻って来れなかったら大変です。大旅行を前にして、モスクワ観光の気分にはなれなかったので、駅の中の喫茶店で、時間を過ごすことにしました。
 モスクワのレニングラード駅から、北氷洋のバレンシア海に面する不凍港ムルマンスク行きの列車に乗ると、27時間後に途中のケミ駅に着きます。(帰りは急行だったので25時間でした)。ソロヴェツキー諸島旅行も印象深いものでしたが、また別の機会に書きたいと思います。ケミと言う白海に面した小さな知らない町で、もし、電子メールで確約されているはずのガイドの迎えがなかったらどうしょうかと、どきどきして、列車から降りたのですが、迷子にもならず、6月27日には、無事またレニングラード駅に戻れました。
 翌日のクルーズ出発まで、北モスクワ河川駅近くのホテルに一泊しました。この程度の時間的余裕を持つことが、時刻表どおりに動いてくれないことも多いロシアの交通機関を利用する旅行には必要です。というより、今回はそれ以上ぴったりの日程は組めませんでした。このように余裕を取って日程が組んであるときに限って時刻表どおりに運行して待ち時間が多く、余裕のない組み方のときには遅れてはらはらするものですが。

バシコルトスタン号と船客

 28日、出航時間の17時半よりずっと早く、北モスクワ河川駅に着き、バシコルトスタン号を探しました。クラスノヤルスクのエニセイ河川駅では、客船用岸壁は短く係留点も幾つもありません。ところが、モスクワでは「4階建て」「5階建て」の豪華クルーズ船が岸壁に十数隻もずらりと並んでいます。その豪華船の向こう側には、別の豪華船が平行して2重に舫(もや)っています。それらの船へ外国人を満載した大型バスが次々と横付けしています。持ち物やファッションから、ロシア人と西ヨーロッパ人の区別は簡単にできます。それらクルーズ船には英語とロシア語で「モスクワからサンクト・ペテルブルグへ、白夜の旅、○○旅行会社」とか大きく書かれてあります。
 ちょっと自分が貧しいロシア人の田舎っぺのような気がしました。それも悪くありません。
 埠頭のある岸壁の端から端までは1キロ半もありそうでしたから、歩いてバシコルトスタン号を探さずに、もちろんインフォーメーションで目当ての船が停泊している埠頭番号を聞きました。バシコルトスタン号は「3階建て」で、ソ連時代には一般旅行者用の中程度の船だったのを、時代に合わせて少し景気のよいロシア人が乗るように改造された、かなり古い船でした。定員は半分に減った分だけ一つ一つの船室は広く快適になったようです。私が予約したのはツインルームのシングルユースですが、そうでなければ、知らないロシア人と同室にされることもありえるのです。船室には小さな冷蔵庫もあり、エアコンはありませんが扇風機があります。窓は上下開閉式の大きなものでしたが、私の力では開きませんでした。開けたい時は船員さんに頼みます。シーズン中は外国人旅行会社が貸し切っているらしい周りの豪華客船と比べると、バシコルトスタン号は外見も中味も、つまりサービスも二流(旧ソ連式の水準では、たぶん一流)のようですが、実は、今回は、このような船にこそ乗ってみたかったのです。
 9割ほど満席で、乗客は7、80人くらいでした。チェックインの後、レストランの座席券を渡されました。レストランのテーブルは4人用なので、老夫婦のカップルと一人旅の男性との組み合わせでした。乗客の中に外国人は私以外に一人もいません。慎ましやかな船でしたから、年配や中年の夫婦連れ、中間管理職タイプの熟年女性の一人旅、親子連れ、孫と一緒のおばあさんといった乗客の顔ぶれでした。若い夫婦のカップルは一組だけでした。華々しいロシア・ニューリッチはトルコへ行ったりキプロスへ行ったりで、地味な国内旅行はしません。また、年金だけで暮らしている老夫婦や、月収が平均以下の家庭では、クルーズといった豪華旅行はなかなかできません。クルーズができるほどのお金を貯めた若い人たちは、ヨーロッパ格安ツアーに出かけます。そういうわけで、バシコルトスタン号の乗客の平均年齢は高目で、それほど豊かではないが、貧しくもないという層でした。そして、ふたりを除いて、みんなモスクワかその近郊出身でした。また、私を含めて大部分の乗客がクルーズ愛好家で、今回が初めてではないと言っていました。
 日本の旅行者ならみんな持っているデジカメや小型ビデオカメラなどといったものは一人も持っていませんでした。大きな旧型日本製ビデオカメラを持っていた人が二人、「ゼニット」と言う旧ソ連時代の国産カメラを持って手動で距離や露出をあわせる年代物カメラの熟年女性たち、また国産「超筒長」双眼鏡で対岸をのぞく老夫婦と、みんな復古調でした。手動カメラなんてほんとうに懐かしいです。私はあわせ方がよくわからないので、その人たちをあまり撮ってあげることはできませんでした。でも、私の普通のカメラでヴォルガやカマ川、沿岸の町をバックに、「ねえ、私を撮って」と言って近くにいる人に撮ってもらいました。
 レストランで同じテーブルに座り、16日間毎日一緒に食事をしていた老夫婦のマルクとアンナや、一人旅の中年男性サーシャとは、最も親しくなったので、私を写すカメラマンになったのも、彼らが一番多かったです。特にサーシャは機動性があったので必要な時にはいつも横にいました。でも、彼のロシア語は、私にはよくわからないことが度々ありました。早口で不明瞭な話し方、俗語を使った言い回しが多く、外国人にわかるような言い換えができなかった(したくなかった)ことで、何度も、アンナにロシア語からロシア語に「訳して」もらいました。
 その3人の他にも、ほとんどの乗客と仲良くなりました。
 このクルーズのコースは、北モスクワ河川駅を出発し、モスクワ運河を経てヴォルガ川に出、そのままヴォルガを下りカザニを過ぎたところで、一番大きな支流のカマ川に入り、カマ川をさかのぼりウラル山脈の西にあるペルミまで行って、そこから同じコースでモスクワへ戻ってきて解散、ということになっています。毎日、一つか二つの町に上陸して、観光しながら行くことになっています。ロシアの母なる川ヴォルガは、昔から主要交通路で、村や町はヴォルガに沿ってできていったのですから、川を下るだけでも、「ロシア歴史の旅」ができます。

2. ヴォルガ川を下る

出航

 出発日は雨で寒い日でした。そして航海中、雨が全く降らなかった日は数日しかなく、今回は、お天気には恵まれませんでした。北モスクワ河川駅は、モスクワ市の北のはずれにあり、そこは、もうモスクワ川ではなく、モスクワ川とヴォルガをつなぐモスクワ運河の左岸にあります。出航後その運河を遡りつつ、6つのダムを通り抜け、ヴォルガ川に出ます。
 夕方5時半に出航しても、9時、10時ごろまでは明るいので、船客はみんな甲板に出て運河沿いの景色を眺め、船内マイクから聞こえてくる添乗員のモスクワ運河説明アナウンスを聞いていました。私も必死で聞きましたが、予備知識もなかったため、よくわかりません。後でアンナやサーシャに質問しましたがよくわかりません。彼らもよくわからないそうです。仕方がないので、添乗員のアレクセイをつかまえて、何か資料があったら見せてくださいと頼みました。彼はコピーした資料をファイルに2冊持っていて、そこから、適当にまとめて読んでいるそうです。次の放送の時まで、そのファイルを貸してあげると言われました。自分の船室に急いで持っていって、デジカメで必要なページを取り込んでおきました。(でも、私のデジカメは安物なので、後で判読に苦労しました)

モスクワ運河

 首都モスクワは海に面していないばかりか、交通の要路となる大河川にも面していません。ヴォルガの支流のそのまた支流の水深が浅いモスクワ川が、市内を流れているだけです。それで、モスクワからヴォルガへ通じる運河建設計画は18世紀の頃からあったそうです。しかし、なかなか実現できませんでした。そればかりではなく、20世紀に入ると、モスクワ川の水量では、船舶運行が不便なばかりではなく、市民の飲料水にも足りなくなってきたと、その資料には書いてありました。
 念願のモスクワ運河は、革命の後、スターリンが、囚人労働をふんだんに使って完成させることになるのですが、「1932年6月1日から建設がはじまって、たった4年8ヶ月で完成させた。モスクワ運河はパナマ運河より44キロも長い、もっともパナマ運河の方は完成まで30年もかかったのだ」と自慢しています。運河はソ連が自前で作りました。つまり材料も資金も技術も国内調達で間に合わせたわけです。もちろん最新式機材はなく囚人の「奴隷労働」人海作戦と、建設のために「特別注文」で逮捕した特殊技術者を使って建設しました。多いときは20万人も働かされていたそうです。1933年5月に完成した白海運河の従事者をそっくりモスクワ運河建設に回し、完成後は刑期前釈放するからと言って、働かせたそうです。確かに刑期前釈放されたり、報償までもらったりしたそうですが、その後またすぐ「人民の敵、祖国裏切り」罪で逮捕されて、次の建設現場に回されました。「人民の敵の妻」罪とか、「祖国裏切り者の家族の一員」罪とか「西側文化を賞賛した」罪とかもあります。
 地図で見ても、モスクワ川とヴォルガ川の間が一番狭くなったところに、全長128キロのモスクワ運河が作られています。二つの川の間の距離は狭いですが、間に丘陵があります。ですからヴォルガの水をモスクワ川に流すために、運河を掘るだけでなく水位をあげるためのダムや船舶を通過させるための閘門(こうもん)をつくりました。まず、ドゥブナ村のあたり(ヴォルガの水を運河の方へ引いていこうというところ)に、大きな第一ダムを作り、ヴォルガの水をせき止めました。この高いダムのおかげで、ダムの上流側の水位は海抜124メートルまで上がり、大きなダム湖(貯水池)ができたわけです。そのダム湖の水が運河に流れ込むことになり、順番に第2ダム、第3ダムと通るうちにさらに水位が上がっていきます。丘陵が高くなっていくからです。ヴォルガの水を低いところから高いところへ流すので大変です。ダムごとに強力ポンプがあるそうです。第6ダムまでに、順番に合計38メートルも水位が上昇して、海抜162メートルとなります。この第6ダム湖の左岸が、私たちの出発した北モスクワ河川駅です。スターリンは運河を作ると同時に、高い尖塔のあるスターリン式建物で有名な北モスクワ河川駅も作りました。この第6ダムのあたりが一番高い丘陵になっていて、そこを過ぎると第7、第8ダムを経て海抜126メートルのモスクワ川へと水位が下がっていきます。
 資料によると、ヴォルガから運河を通して引いてきた水の45%はモスクワ市の水道へまわされます。それは、モスクワの生活用水の3分の2にあたります。8%は閘門で船を上げたり下げたりするための水、5%は蒸発したり水道水用に浄水するときに捨てられるそうです。そして残りの42%は市中を流れるモスクワ川に流れて行き水量を豊富にします。今流れているモスクワ川の水量のたった1割強程度が本来のこの川の水で、あとはヴォルガからもらった分です。水量が豊富だと、衛生上よさそうです。
 この運河ができたため、モスクワからヴォルガへの大型河川交通が可能になりカスピ海へ出られるばかりではなく、ヴォルガと結ばれた諸運河を通り、バルト海、白海、アゾフ海、黒海へと出ることも可能になりました。

 モスクワを出発してヴォルガへ向かう船は、モスクワ運河を流れではさかのぼりますが、地勢では下がっていきます。出航後まもなく、まず第6閘門に入ります。入ると後ろの水門が閉まり、水が抜かれていきます。船が安定しているよう特別な杭にロープを舫(もや)います。水が抜かれ、水位が下がり船も下がっていくと、その杭も船と一緒に下がっていきます。閘門の出口の水門の向こう側と同じ水位まで下がります。何メートルも下がるので、入ってきたときに見えた景色はずっと上の方で見えなくなり、周りは運河の石壁ばかりです。船ごと大きな井戸の底に入った気分です。水位が下がりきると、やがて前方の水門が開いて井戸の底から広い世界に出ます。次のダム湖(貯水池)です。しばらく航行していると、第5閘門に入り、同じことをくり返します。次は第4閘門です。やがて夜もふけ、眠くなって寝ました。起きた時は、もう広いヴォルガへ出ていました。

ウグリッチ、ヤロスラブリ、コストロマのお遍路周り

 出発後2日目も雨の降る寒い日でした。最小限の荷物で、軽装だった私は寒くてたまりません。夜も寒くて眠れなかったと、朝食のときアンナに言うと、「一杯やると暖かくなる」といわれ、彼女の船室で、朝から一緒にブランデーを飲みました。そのうち、船のエンジンがよく動くようになったのか、その熱のおかげで、船内は暖かくなりました。甲板はヴォルガからの風で相変わらず寒く、厚着をしなければ出られません。
 2日目はウグリッチ市観光でした。3日目はヤロスラブリ、コストロマと続きます。波止場に着くと、乗客はみんな上陸します。船の甲板を歩くのも飽きて陸の上を歩きたくなるからです。この程度のモスクワ近郊観光地ですと、たいていの乗客は、何度も来たことがあるそうで、特にガイドつき市内観光に参加しないで、自分たちで好きなところへ散ってしまう人もいました。「おしきせ」観光希望者の方は2グループに別れてガイドを先頭に出発します。私も去年の冬、「モスクワ・ゴールデンリング」で見物したことはありますが、一応グループの後について、教会、修道院、博物館、城壁、また、教会、修道院といったところを、回りました。お遍路さんのようなものです。ガイドは、もちろん、ロシア語で説明をしますし、その場で聞き返しも質問もちょっとできませんから、その教会の由来や、壁画の意味などよくわからないこともありました。それは、冊子なり、本なりを買っておいて、後で読めばいいことです。でも、コストロマは、州庁所在地ですが、去年見たときと変わらず、ごみごみしていて観光地らしくなく、私の回った本屋ではどこにも、町の案内書も観光パンフレットも売っていませんでした。酔っぱらって直接地面に座るか寝ている「ジベタリアン」は見かけました。これは他の町でもたびたび見かけます。
 時々、最後に回った修道院などで、「グループは解散、後はご自由に町を回り、一定時間までに船にお帰りください」ということもありました。そうなると、私のような一人旅者は決まった連れがいないので、迷子にならないよう、だれかとくっついて歩くようにします。その頃には、レストランのテーブルが同じマルクとアンナとサーシャの他にも、心臓内科医(女性)や歯科医(女性)やエンジニア(女性)などの同じく一人旅者や、熟年夫婦連れの方々など、ほとんどの乗客と仲良くなっていました。

乗客の一人ジェーニャ

 ジェーニャは出発前にクルーズの全コースの地図を買い、航行中いつも双眼鏡で対岸に見える村や目印を確認して、いつ聞かれても、だいたいの現在地が言えました。その勉強家のジェーニャとも親しくなりました。彼は30代後半に見えました。ちょっと年配の女性と一緒です。よく見るとかなり年配でしたから親子かとも思えましたが、片時も離れず親しそうな様子から年の離れた夫婦かもしれません。念のために、ワーリャと名乗った女性の方に「あなたのご主人様のお名前は何とおっしゃるのでしょうか」と尋ねました。「主人ですって?ホホホ、息子ですよ、息子」という答えです。熟年女性たちはジェーニャのことをマザコンだと言っていました。確かに、長いクルーズの間、彼が母親以外の乗客と話している姿はまれにしか見ませんでした。でも、彼は詳しい地図を持っていましたし、サーシャと違ってわかりやすいロシア語でクルーズやモスクワのことを話してくれ、乗客の中では最も感じのよい人だったので、私はよく彼に話しかけました。

川幅広いヴォルガ

 4日目ぐらいには、モスクワ州の北東にあるヤロスラブリ州、その東にあるコストロマ州、その南のイワノヴォ州と航行を続けて、もうヴォルガはたっぷり見た感じです。ヨーロッパ・ロシアの大動脈ヴォルガでは、前の年にクルーズをした大自然のエニセイと違い、途中何隻もの豪華客船や「並」客船、貨物を積んだ大小の船とすれ違ったり、追い越したり、追い抜かれたりします。川に沿ってできた村の数は、当然のことながら、エニセイよりはずっと多いです。それら村も、革命前からある古い村なので、遠くからよく見えるところに、教会が必ず建っています。スターリン時代,教会の建物は別の用途に使われたり、改造されたり、破壊されたり、放置されたりしたのですが、最近は修復され始めています。集落や教会が見えると、ジェーニャのところへ行って、今、どの辺なのか、地図で教えてもらいます。行っても行っても、村や町の姿が見えないところもあります。森や草原がどこまでも続いています。電柱のようなものが見えたり、川岸に停泊禁止マークがあったりするだけでも、ジェーニャはここがどの辺か、見当がつくようです。
 このあたりのヴォルガはとても広く、流れが緩やかなので、大陸の大河と言う気がします。しかし、実は、ヴォルガの流れは昔の形をそのまま残しているわけではないのです。ヴォルガ川には至る所にダム、ダム湖、閘門があります。ヴォルガを航行しているのではなく、長いダム湖から次のダム湖へ、と進んでいるようです。ですから、いつでも川幅が広いのです。今見える川岸は、昔は川からずっと離れた丘の上だったというところも少なくありません。ダム湖に水没した村も多くあります。村は水没しますが、村の一番目立つ高台にそびえていた教会だけは、水上に残ります。湖の中ほどに廃墟になった教会がぽつんと突き出ているのを見ると、ソ連時代の工業発展のためとはいえ、ちょっとかわいそうでした。

閘門また閘門と、私のアイディア

 ダムでせき止められている所を下るときには、上流から下流への大きな水位差のため、船がそのままでは運航できないので閘門が設けてあります。船が閘門内に入るときは、出口の門は閉まっていて、入り口だけが開いています。中に同時に2、3隻は入ることができます。
 閘門に入ると、まず入ってきた方の後ろの門がシャッターのように、水面下からするすると上がってきて、仕切りができます。次に、一気に水を抜いて、出口の向こう側の水位と同じにします。同じになると、出口の観音開きの門がぶわあんと開きます。開ききると、信号が緑になり、杭からロープを抜いてすぐ出発です。早い時は30分で通過できます。
 ヴォルガのどの辺にあった閘門だったか忘れましたが、水位が下がっていき、水にぬれた壁がぐんぐん現れて、とうとう20メートル以上も下がったことがありました。閘門の上に橋がかかっていることがあります。通行人が、私たちが下がっていくのを上から見ています。下がって下がって下がって20メートルも下がった時には通行人は本当に小さく見えました。閘門と言うのは、つまり、「水位上げ下げ式」エレベーターと思えばいいでしょうか。
 閘門の前で順番待ちということもあります。でも、客船は優先されるようです。
 クルーズ中、何度閘門に入ったか知れません。私たちが寝ている間も入ったでしょう。そのうち、水にぬれ、コケの生えかけた荒い壁が、水位が下がるにつれて少しずつ現れてくるというのにも飽きてきました。30年代に囚人たちが突貫工事をさせられてできたという閘門はともかく、後年になってできた閘門も、あじけないコンクリート壁だけです。それも、表面は欠けたりはがれたりしています。船が杭に舫う時、ぶつけてはがしたり、長い間の水の浸食で凹んだりしています。すぐ目の前のコンクリートの小石が、剥がれそうだったので、私が指で剥がそうとしていると、背が高くて手も長いジェーニャが、ひとかけら剥がしてくれました。記念に、家に持って帰りました。「ヴォルガの閘門の壁石」です。
 「こんなに広くて大きくて、みんなから見られている壁があるのに、この水ゴケでは、もったいないねえ」と、ジャーニャに話しかけました。「ここに、大きな美しい女性の姿を描いて、水位が下がると少しずつ見えてくる、というようにしたらどうかしら。芸術的裸体と言うわけにはいかないでしょうけど」というのが私のアイディアです。想像力の乏しいジェーニャは、耐水性顔料の調達のことでも考えていたのかもしれません。「そんな予算はないだろう」と言うような返事です。「では、コマーシャルでも描いたらどうかしら。広告代は入るし、それで、通行する船の閘門使用料も安くなるかもしれないわよ。」すると、横で聞いていた熟年女性が、「まあ、コマーシャルなんて、あれだけテレビでやっていて、もうたくさんだわ」と反対しました。でも、高さ10メートルから20メートル以上もあって、幅は200メートル以上はある閘門の左右の壁に、せめて、何か、周りの風景を損なわない程度の、ワンポイント・イラストでも描いてあったら楽しいのに。「熱帯魚」閘門とか、「北氷洋ペンギン」閘門とか、「ヴィーナスの誕生」閘門とか、「ブルーベリーの森」閘門とかそれぞれ愛称ができて、「次は何だろう」と、クルーズ客にも好評になると思うのですが。

橋ぐらい・・・

 ヴォルガ川がエニセイ川と違うことは沿岸に町や村、それどころか大都会が多いと言うことのほかに、それと関係がありますが、橋が多いことです。エニセイでは、クラスノヤルスクより先は橋が一本もありません。ヴォルガにかかる鉄橋に、ちょうど長い長い貨物列車が通っていたりすると、それを背景にまた写真をとってしまいます。ところが、それがなぜか、ジェーニャのお母さんのワーリャには気に入らなかったらしく、「美しい自然を撮るのならわかるが、なぜ、橋なんか撮るのか。昔は、閘門も撮影禁止であった。たとえば、去年、バルト白海運河を通った時は、戦略的重要建造物は撮影禁止と言われた。橋も、空港も、駅も基本的に撮影禁止である。あなたのようによく写真を撮っている人は、スパイの可能性すらもある」と真顔で言われました。十数年前までは、私のような物見高い外国人は疑いの目で見るような雰囲気があったかもしれませんが、今でも、こういうことを言う人がいるとは意外でした。この船の乗客は、保守層が多そうですが、それでも、「スパイ物語」はもう冗談でしか話されていません。ちょっと気を悪くした私は、それ以来、ジェーニャに話しかけるのを遠慮し、ワーリャには廊下であってもこちらから挨拶しなくなりました。
 橋は、もちろん撮影禁止ではなく、何枚撮ってもいいので、サーシャやアンナに頼んで、橋を背景に私を撮って貰いました。ワーリャの見ているところでもワイワイキャーキャーと撮って貰いました。
 そのうち、ワーリャが「何か、気に入らないことでもあったのですか。挨拶をしていただけなくなりましたね」と言ってくれたので、喜んでその和解に応じました。

観光都市ゴロデーツ

 クルーズ船が寄港するようなところは、一応観光都市です。4日目の朝の寄港地ゴロデーツ市は、ヴォルガ沿岸の古い町のひとつで、1152年創立だそうです。ここの郷土博物館で買った観光パンフレットには、14の「名所」があると書いてありました。12から14世紀の集落跡がある地層で国指定文化財になっている場所や、ゴロデーツ式と言われる窓枠の木彫りがあるのでやはり国指定文化財になっている古い建物、さらに18世紀初めのミハイル教会(国指定文化財)などです。その中のいくつかをバスでまわりました。集落跡の地層というところにくると、わざわざバスから降りて、現地ガイドの長い長い説明を聞かされましたが、何も見学しませんでした。日本のように整備されていないのでしょう。
 少し離れた郊外の森の中には「聖なる水の教会」があって、乗客は、その水を持って帰るために、ペットボトルを持参していました。ロシア人は「聖水」好きです。その泉にもぐるとご利益があるそうで、水着持参の乗客もいました。森の中の湿った場所だったので蚊が多かったです。 
 ゴロデーツ市の何よりすばらしいところは、川岸からはるか下を流れる広いヴォルガが見晴らせることです。左岸にあるゴロデーツ市から、対岸へ巨大なダムができています。対岸にあった寒村は新興工業都市になり、ゴロデーツは歴史観光都市として残りました。この地点でヴォルガの水をせき止めてできたのがゴーリキー・大ダム湖です。

旧ゴーリキー市とゴーリキー記念館

 4日目は寄港地が2箇所ありました。午後からの寄港地は、モスクワ、サンクト・ペテルブルグについでロシアで3番目の大都市ニージニ・ノヴゴロド(ソ連時代はゴーリキー市と言った)です。滞在時間は4時間でした。いつものことですが、前半はバスでグループ観光、後半は自由時間です。バスでまわったのは、ゴーリキー記念館や、ニージニ・ノヴゴロドのクレムリン、町一番の繁華街などです。
 途中バスの窓から、ガイドに「左に見えるのは、日本文化センターの建物です」といわれたところを見ると、日の丸印がありました。何人かの乗客が「ほら、あの建物ね」と言って私の方を見て微笑してうなずきました。ニージニ・ノヴゴロドのような130万人の大都市には、クラスノヤルスク市とは違って、大使館も広報活動に力を入れているのでしょう。
 ゴーリキー記念館では、ガイドにゴーリキーとその息子の「謎の」死について質問している観光客もいました。それは、国民に人気の高かった作家ゴーリキーの一人息子がまだ30代の時急死したのは、医師がスターリンの指示により死なせたのではないかというものです。ゴーリキー自身も病気になった時、医師が死ぬのを「助けた」といわれています。それら医師はクレムリン付き医師でした。クレムリン付きの医師にかかって「急死」したのはゴーリキーの息子だけではなく、フルンゼなど当時の有名人がたくさんいたそうです。今でも、それら「謎の死」については多くの本が出ていて、ロシア人ならだれもが知っているようです。いろいろな説があるのですが、やはり「謎」に包まれています。
 旧市街はヴォルガの絶壁の上に立っています。はるか下に見える川岸まで長い長い、美しくうねった階段が続いています。これは、第2次大戦後のドイツ人捕虜が作ったものだと、ガイドが言っていました。
 ニージニ・ノヴゴロドはヴォルガとオカ川の合流点にあります。オカ川をさかのぼっていくとモスクワ川に出ます。ですから、昔の河川運行と言えば、モスクワから、水深の浅いモスクワ川を通り、オカ川経由でヴォルガに出ました。今でも、小さな船なら、この南回り経由で航行しているそうです。
 自由時間、他の船客は商店街でウォッカやおつまみの買い物をしていました。私はと言えば、一人でニージニ・ノヴゴロド河川駅の近くの川岸通りを散歩して夕日を眺めていました。

後編へ続く


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