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金倉孝子さんのエニセイ河紀行

 今回特別寄稿していただいた金倉孝子さんは、シベリアのクラスノヤルスクという街で、日本語を教えています。いうまでもなくクラスノヤルスクは、レザーノフ終焉の地です。金倉さんと知り合うようになったのは、いまから2年前になります。この町にあるレザーノフフォンドの人たちが、日本と交流を結びたがっているということで、夏休みで一時帰国していた金倉さんから私のもとに連絡がはいり、それからメールや郵便でやりとりをしています。
 今年も夏休みで日本に一時帰国しているのですが、その前にエニセイ河クルーズをしてくるというメールをいただき、どんなツアーなのかとても興味をもっていました。前に読書乱読で紹介した「シベリアの旅」でも、エニセイ河を遡行する話がでてきますが、シベリアから北極圏へ向かうというだけでも胸がワクワクしてきます。とても読みごたえのある紀行エッセイですので、是非「デラシネ通信」に掲載したいとお願いしたところ快諾していただきました。
読んでいるうちに、私も行きたくなりました。


エニセイ河クルーズ

2002年6月22日から7月4日
金倉孝子
(kanakuta@krasmail.ru)

アントン・チェホフ号 シベリアにある主な河は、極東のアムール河を除いて、たいてい、南から北へ流れています。東から、レナ河、エニセイ河、オビ河の順で、それ以外の大中小の川は、直接北極海に出てしまう川を除いて、皆その3つの大河の支流か、支流の支流、そのまた支流と言ってもいいくらいです。その3つの大河の中で、エニセイ河は、うねることなく、ほぼ、直線的に真南から真北に流れています。そのため、延長は、他の2つの大河に比べて短いですが、他の2つの大河より、南から始まり、オビ川と同じように、北極海の一部のカラ海に注ぎます。流れも、シベリアの河にしては早く、水量も、ロシアで1番多いです。「アントン・チェホフ」号でのクルーズで、行きは河を下るので時速30キロ近く、帰りはさかのぼるので17キロ程でした。

エニセイ河クルーズコース クルーズは、本当に良かったです。いつも「ビンボー」旅行ばかりしているので、たまに、こんな「豪華」な旅も悪くないです。といっても、12日間クルーズで全部入れて費用は千ドル弱ですから、日本流に言えは「豪華」と言う程のこともありませんが。それに、何でも、見て聞いて体験した私には、千ドルの値うちは十分ありました。

 「アントン・チェホフ」号は、河の氷が完全に解ける6月末から初雪の降る8月末までの間、5回のクルーズしか遂行せず、春や、秋は船のメンテナンス、冬は、乗務員を、一旦、解雇にして、川湾の安全なところに繋がれて冬越しをするのだそうです。「アントン・チェホフ」号程豪華ではない他のクルーズ船、普通の客船も、航行できるのは、夏場の2、3ヶ月間だけです。
春の終わりに雪が解けると、ナビゲーション船が出て、河の水深を計り、航行可能なところに白いブイを何キロか毎においていきます。
 河の氷がいつまでも解けないということもあります。
 クラスノヤルスク地方を南北に流れるエニセイ河の沿岸には、クラスノヤルスク市を除けは大きな都市はほとんどありません。エニセイ河に橋などと言う贅沢なものがかかっているのも、クラスノヤルスク市と、南のハカシア共和国首都のアバカン市だけです。ほかの町々、村々では、向こう岸へ行くのは、フェリー船(つまり、渡し船)です。冬は、凍った川の上を車で走れます。トラックでも平気で走ります。そのため氷が堅くなって、春の終わりになっても、氷が解けません。自然に解けるのを待っていては、第1に河川運行の再開が遅れますし、第2に、上流から雪解け水が流れてくると、そこでせき止められて洪水になってしまします。それで、そのような堅くなった氷の固まりは、爆破します。ある年の5月はじめ、材木集散地のエニセイ河右岸の町(製材所は左岸にある)へ行った時、そんな爆破の音がしていました。

 ちなみに、秋になって、河が凍り始めると、それらのブイは、回収して、陸にあげておきます。「エニセイ河・河川運行会社」も楽ではありません。

 私の参加した、6月22日発の第1回目の航海は、乗客の定員は約200名のところ、実際は五、六十人程度でした。外国人は、私を入れて4人、片言ロシア語のオーストラリア人、それとロシア語を全く話さないイギリス人のおばあさんとアメリカ人男性です。それでも乗務員は規格通り約60人と、添乗員が6人(子供連れできている添乗員もいるので8人)でした。添乗員の役割は、12日の船旅の間、乗客が退屈しないよう楽しませることなので、ピアニスト、ヴァイオリニス、バヤニスト(バヤンという鍵盤なしでボタンのみの手風琴奏者)、体操の指導をしたり、ゲームの司会をしたりするレクレーション係、エニセイ河や沿岸の町、村、少数民族、観光地などについて説明する郷土の地理歴史家、達でした。他に旅行会社から来ている人。「エニセイ河・河川運行会社」派遣の写真家。お土産屋テナントの店員も、乗っていました。
 50人余の乗客はほとんど自分の勤める会社の費用で、家族連れできていました。このような形で、儲かっている会社は社員にボーナスを支払うようです。私のような自費乗客は、たった数人でした。確かに、一人千ドルも出さなくても、四百ドルくらいでトルコ、エジプト、キプロス島などへいけますからね。最近のニューリッチは、地中海方面に出かけて行って体を焼いて、買い物をして来ます。ロシアは広いですが、観光名所開発がすすんでなく、施設も悪くて、国内旅行はあまり人気がありません。ソ連時代でしたら、いくらお金があっても、行ける外国は限られていました。ですから、今ではちょっとお金があると、みんな地中海、インド洋、東南アジアです。

 豪華クルーズ船「アントン・チェホフ」号は、25年程前にオーストリアで建造され、しばらくはスイスの旅行会社がチャーターして、ヨーロッパから旅行客を集めていたそうです。今年、久しぶりに「エニセイ河・河川運行会社」経営に戻りましたが、船主は「ノリリスク・ニッケル鉱山会社」という超お金持ちの会社です。クルーズを企画している旅行会社も別です。そうした諸会社と関係している諸会社が、自分達の社員にクルーズと言うボーナスを出しているようです。

 「アントン・チェホフ」号のような、長さが115メートル、広さが16、4メートル、4階建てで、1階客室の下には船員達の部屋、さらに、バー、喫茶店、ホール、映画室、プール。サウナがあり、吃水2、8メートルで、2700馬力の河舟は、シベリアには他にありません。ヴォルガ河に「レフ・トルストイ」号と言う豪華クルーズ船があるくらいです。サンクト・ペテルブルクのネヴァ川運河の「セルゲイ・キーロフ」号も、今でも運行しているかもしれません。河川なので波もなく、全く揺れません。水上を滑るホテルのようです。

 クラスノヤルスクを6月22日に出発して、12日間のクルーズ中、毎日一ケ所には上陸しました。23日は、18世紀には毛皮の大集散地として栄え、近くに金も採掘されたというエニセイスク市(だから古い教会も残っている、人口2万人)、24日は古い河川港のヴォロゴヴォ村(エニセイ河の広さは、もう15キロ)などに上陸し、見物しました。それらエニセイ川沿にあるシベリアの村は、救い様もないくらい寂れていて、水上を滑るように移動する4階建ての真っ白いホテルとは、余りにも大きな差がありました。材木や漁業コルホーズで成り立っていた村々が、ソ連崩壊後、村経済も破産したようです。こんな緯度の高いところでそれなりの水準の生活をするには、インフラ整備と維持に多額の予算が必要なのでしょう。ロシア人が来るまでのシベリアのツンドラ地帯とその南のタイガ(針葉樹林)地帯は、原住民が放牧や漁業の原始的な自給自足をしていました。
 17、18世紀のコサックの「開拓時代」も、冬越しをする程度の集落で、先住民と変わらない程度の生活だったのでしょう。
 それが、スターリン時代に、強制収容所を前線にして、どんどん近代的な町ができていったそうです。でも「社会主義」経済が破たんして、それら、シベリアの町も、自分たちの産業を失い、町全体が失業状態で、儲かる産業のあるほかの町(例えば、アルミニウム産業で儲けているアーチンスク市やクラスノヤルスク市のような)からの「補助金」で生活しているそうです。もちろん、地下資源は、シベリアの各地に、豊富に埋蔵され、今のところは眠らせてあります。その地下資源採掘が、採算の合うような時期が来ると、今は、寂れてしまった村落でも、役にたつので、「補助金」で、存在させておくと言う目的もあるのだそうです。

 出発して4日目には1番大きな支流ニジニー・ツングースカ川(延長1300キロ)がエニセイ河に合流する地点にある、トゥルハンスク村(人口5千人)に上陸しました。クラスノヤルスク市からもう1100キロ北で、北極圏まで、もう100キロです。トゥルハンスクは、17世紀の前半にできたクラスノヤルスクより10年程古いエニセイスク市より、さらに古い町です。シベリアの古い町は、ヨーロッパ部分のロシアから、毛皮になる動物を追って、ロシア人が、集散地と根拠地を、東へ東へと作っていったところから、できた町なので、比較的、北方にあります。高価な毛皮になる動物(イタチ類)は、ちょうどこの当たりの緯度にいますし、それに、その当時はシベリア南部の比較的住みやすいところには、先住民のタタール人やモンゴル人の居住地があって、そう簡単には、ロシアに服従して、モスクワに税金を納めるようとはしませんでしたから。

 添乗員の郷土史家によると、エニセイ河左岸のトゥルハン川の河口に1607年にトゥルハンスク市ができその後洪水で流れたので、右岸に作り直したのだそうです。シベリアで1番古いと言う教会(の跡)や、修道院(の跡に再建途中のもの)がありました。(教会をわざわざ壊したのはもちろんスターリン)

 エニセイ河を北へ下るにつれて集落は、ぽつんぽつんと稀になります。これら集落は、ほとんどスターリン時代の強制移住者達や、流刑者達の村だそうです。だから、お互いにこんなに離れているのでしょうか。また、立地条件と言うのもあります。幹線「道路」のエニセイ河に近く、しかも、水面から10メートル以上は高くなくてはなりません。そんな河岸段丘に村があり、船着き場があり、船着き場から村への急な階段があり、少し離れたところに、円柱形の大きな石油タンクがいくつか見えます。
エニセイ河のような、流域面積の広い長い川は、つまり、厖大な面積にあるほとんどの水分という水分が、最後にはすべてエニセイ川に流れ込むわけですから、下流に行く程、洪水の時の水位が高くなります。堤防を作るような無駄なことはせず、10メートル程度の水位の上昇にも安全なところに集落を作るのです。でも、たまに17メートルと言うような洪水があると、家が流れてしまい、別のところに新たに村を作ったりするそうです。

 その日は、渇水でも洪水でもないちょうどよい水位の日だったので、4時間のトゥルハンスク村見学を2時間で切り上げて、ニージニー・トゥングースカ川遊覧を、予定外でやってくれました。トゥルハンスクはクラスノヤルスク地方の中でも1番古い町(もちろんロシア人側からものを見て)と言っても、ほかのシベリアの町々同様寂れていて、舗装してない埃だらけの道と、蚊が喜ぶ雑草だらけの公園と、まだ復興途中の小さな修道院しかない町で、2時間で十分です。私はそこの郵便局から、クラスノヤルスクへ「無事だよ」の電報を打ちました。電報なんて、懐かしいですね。

 一番大きな支流のニージニー・トゥングースカ川の川岸は、絵のように美しく、私は、甲板を右舷へ行ったり左舷へ行ったりして写真をとっていました。この川をさらに奥へ奥へとさかのぼると、エヴェンキ民族自治共和国の首都ツーラ市(というより村)があり、さらに上流へさかのぼると、20世紀はじめの有名な「トゥングースカの大隕石」の落下地点らしいところの近くへ行けるそうです。隕石が落ちる様子を見た目撃者も多く、地球の反対側の地震計も振れたと言うのに、いまだに隕石そのものは発見されていないのだそうです。私達の船は、もちろんそんなに遠くへは行かず、1時間程行って、引き返して来ました。

 トゥルハンスク村を少し過ぎると、クレイカ川がエニセイ河の右岸に合流する地点の左岸にクレイカ村があります。ここは2つのことで有名です。まず1つは革命前、スターリンが流刑にされていたところで、その後、スターリンが住んでいたと言う小屋をガラスで囲み、スターリン記念館ができ、巨大なスターリン像や、また、スターリン「神殿」が建造され、エニセイを通る人々は、その神殿のお参りを義務づけられたそうです。しかし、スターリン批判後、像はエニセイ河に投げられ、神殿は焼かれたそうです。「せっかく作られた建築物を、政治的に否定されたからといって、破壊してしまうのは、間違っているのではないか、歴史的な意味から、残しておくべきではないか」というテーマで、船内でシンポジウムが開かれました。ぜひ出席して、自分の意見は言えないまでも、ロシア人達の意見を聞こうと思っていたのですが、その時間、眠っていてしまい、聞きそこねました。というのは、クルーズの2日目ぐらいから、不寝番をするようになり、昼食の後、寝てしまうようになったからです。

 何の番かと言うと、もちろん、太陽の番です。はたして太陽が本当に一晩中沈まないか、この目で確かめていたのです。クレイカ村が有名なのはちょうどこの地点が、北緯66度33分で、これより北が北極圏になります。それで、ここを通過する時は、船は汽笛を鳴らし、ちょうど赤道通過祭のような「北極圏突入祭」をしたりします。乗客は、エニセイ河の神様や人魚姫などに仮装して、飲めや歌えや踊れのどんちゃん騒ぎをします。船長からはシャンパン酒がふるまわれます。芸達者なロシア人達はみんな一芸を披露します。私にも、何か日本的なことをやってほしいと言われました。お金を払って遊覧に来ているというのに、ここまで来て日本文化の宣伝をしたくないものだ、と思って「まあ、私、何もできないわ」と言ってしまいました。

 クルーズは夏場だけなので、レストランのウェイトレスなどは、みなアルバイトです。豪華客船「アントン・チェホフ」号ともなると、無料どころか稼ぎながらクルーズができると言うので、アルバイト希望者が殺到します。しかし豪華客船「アントン・チェホフ」号には外国人も多かろうと言うので、外国語のできる美人の女子学生が採用されます。7人のウェイトレスのうち一人は、私の学生のパリーナ(日本語科3年生)でした。私は、もちろん、パリーナの受け持ちのテーブルに座り、彼女に「あれ持って来て、これもって来て」と気軽に頼むことができました。彼女が仕事から暇な時、一緒に甲板を散歩したりしました。他の乗客と親しくなるまでのはじめの一日二日は、彼女のおかげで、「ひとりぼっち感」が少なくてすみました。まだ、夏休みになるずっと前から、「アントン・チェホフ」号の予約をすることは、学生達に言ってましたし、ポリーナもニコニコして、アルバイトに採用されたと報告していました。第一回航海より一足先に仕事をはじめたポリーナは、船の様子を前もって私に教えてくれたりしました。

 「北極圏突入祭」のこともあらかじめ知っていたポリーナは、ちゃんと準備をしていました。以前ポリーナ達のクラスに、日本の歌を教えたことがあります。そのなかのはっぴを着て歌った「村祭り」という歌を覚えていて、それをバヤン伴奏で二人で歌おうと言うことになりました。楽譜がある訳でもないので、添乗員のバヤニストと、何度もそらで歌って練習して、本番に備えました。おかげで、その感じのいい愉快なバヤニストのジェーニャとすっかり仲良しになりました。

 クレイカ村通過は、夕方で、「突入祭」もそのころあったのですが、その日の夜も、もちろん不寝番をしました。
 ちょうど夏至の頃、北緯56度のクラスノヤルスクから、北緯66度33分の北極圏を通過して、70度のドゥジンカまで、2000キロを、まっすぐ北へ北へと進んだので、「白夜」、「黄夜または赤夜」となっていく様子がよく分かります。「黄夜または赤夜」は「白夜」にならって作った私の造語です。ロシア語ではただ「北極圏の昼」といいます。本当は夜なのに、昼間のように明るいからです。日本ではこんな現象がありませんから、それにあてはまる言葉もないようです。もしかしたら、ちゃんと正式な科学用語があるのかも知れませんが。毎夜(ロシア語風に「毎昼」といったらいいのか)の不寝番のおかげで、地軸が23、67度傾いていると言うことをこの目で確かめることが出来ました。
 ちなみに、北極圏内は、冬至の頃は太陽が地平線から昇ってきません。これを昼でも「北極圏の夜」と言います。

エニセイ川夜中1時 クラスノヤルスク市(モスクワも同じ緯度)では、11時ごろまで明るいですが、一時、二時は真っ暗になります(サマータイムなので、太陽が最も低くなるのは、夜中の1時2時なのです)が、北西の空だけは真っ黒ではなく、一晩中夕焼けが残っています。太陽の沈み方が日本と比べて浅いからです。でも、「白夜」とは言いません。北緯60度くらいから白夜が見られます。
 白夜と言うのは、太陽が完全に沈んでも、沈み方がずっと浅いので、一晩中、うす明るいことですが、北緯66度33分の北極圏を過ぎると、太陽は、全く沈まなくて、夜中の一時二時と、さんさんと輝いています。夕方9時から後は、日本での午後3時と言う感じで朝まで続きます。
北極圏のクレイカ村から後は、夜は明るくて眠れず、昼間は明るくても眠れるようになりました。

 5日目には、エニセイ河沿岸でも、最も大きな町の一つイガルカ港(人口1万人)に上陸しました。ここはシベリアでもっとも大きな海港でもあるそうです。と言うのは、ここまでエニセイ河をさかのぼって北極海から海洋船が寄港できるそうです。イガルカ市は、もちろん永久凍土帯に、革命後囚人労働や強制移住者達の労働できた舗装道路や高層建築(四、五階程度)のあるロシア風の町です。ここには永久凍土博物館があると聞いていたので、氷付けのマンモスでもあるかと期待していたのですが、5万年前の氷とか言うのがある程度でした。完全な氷付けマンモスと言うのも、この辺で確かに見つかったのですが、そんな貴重なものは、こんなド田舎の博物館にはおいておけなくて、サンクト・ペテルブルグの博物館に送られたそうです。永久凍土博物館は地下にあって、もちろん氷点下の気温なので、コートを着て降りていきました。たいしたことはなかったです。私はと言えば、もうほかの乗客仲間と親しくなっていたので、わいわいきゃっきゃっと騒いで、写真を取り合っていました。

 イガルカ市は何しろ、地下2メートルは永久凍土なので、家を建てるにも下駄をはかさなければなりません。また水はけが悪いのか、夏場は沼地が多くできます。そして冬はうんと寒いでしょうね。ソ連時代は木材の集散地でした。地下資源も豊富ですが、それを開発するためにはまた多額の資本が必要で、今のところ、眠らせてあるそうです。
 もちろん、スターリン時代(またスターリン、でも、シベリアはスターリンなしには考えられないようです)に、大発展する「社会主義」経済の中、開発計画が実行に移されていきました。さらに、晩年のスターリンは、北シベリア鉄道をひこうと考えました。シベリア南部のモスクワ・ウラジオストック幹線鉄道と平行した、永久凍土帯を東西に横切る鉄道です。それは、オビ川中下流のサレハルド市からエニセイ河中下流のイガルカ市まで1200キロの鉄道計画「501」計画、または「503」計画と言うのだそうです。
 ガイドの説明によると「503」と暗号のような数字で呼ばれるのは、サレハルドの強制収容所は501で、イガルカが503だからだそうです。5から7キロごとに200メートル四方の有刺鉄線に囲まれた収容所などをつくって、同時に多地点から作りはじめたそうです。どんなに多くの資金とそれ以上に囚人の奴隷労働が投入されたか、本当のところは分かりません。まず、イガルカ市郊外に男囚の収容所ができ、それから女囚の収容所ができたそうです。子持ちの女囚もたくさんいて成績が悪いと子供とも面会延期になったとか、ガイドが話していました。
 永久凍土博物館の隣には、「503」博物館もあり、収容所を再現した小屋がありました。囚人用2段ベットや、彼等が使用したコップやスプーン、有刺鉄線などがありました。北シベリア鉄道はスターリンの死後放棄され、今ではタイガの中に錆びた機関車がひっくり返っているとガイドが写真を見せて説明しました。永久凍土帯に鉄道を敷くのは技術的にたいへん難しかったようです。それを、スターリンの独断で始めたのですが、死後、一時中断となり、間もなく放棄となったそうです。
 シベリアの町の住民の大部分は元囚人やその子孫でしょう。
 スターリンの「業績」の跡が、今では観光名所になっているのも奇妙な感じです。「アントン・チェホフ」号は同じ航路を北へ北へとドゥジンカまでいき、また、南へ南へとクラスノヤルスクまで帰るのですが、帰りのコースに、その「503」鉄道跡見物ツアーも入っていました。乗客の中には、そんなものは見たくないという人も半数以上いました。また、そこまで行くにはエニセイ沿岸のエルマコヴァ村(以前は囚人の村だった、だから今は無人)から奥地へ、タイガのなかを4、5キロも歩かなくてはなりませんから、それが嫌で参加しない人もいました。
 冬のタイガも人間の行くところではありませんが、夏のタイガは、これもまた、大変なところだと聞いています。向こうから来るのが熊かと思ったら、それが蚊柱だったという話もあります。これら吸血昆虫類には、船の甲板でも悩まされていました。大きなアブにさされると一週間くらいもパンパンに腫れて、眠れない程痒いです。私は航海中、4度も、船医の治療を受けました。
 スターリン圧政の犠牲者についての本はたくさん読みましたが、本当の強制収容所はまだ見たことがありません。見たくないというロシア人の気持ちもわかりますが、タイガの中に錆びてひっくり返っている蒸気機関車や、強制収容所跡を、ぜひ、この目で見たいと思いましたので、私は断然、参加者組に入りました。用意万端、この日の為に買った養蜂業者のようなネット帽子を用意し、長い針のアブでも届かないような分厚い服を着て、軍手をはめ、腰には携帯用日本製蚊取り線香をぶら下げ、虫よけスプレーを両手に持って出発しました。ここまで武装した乗客はありませんでした。(あと、ゴム長さえあれば完全でしたが)。みんな携帯用蚊取り線香を珍しがって、それが何か分かると「あんたの後ろから行く」と言われました。もちろん日本製蚊取り線香なんて、タイガの中では少しも役にたちませんでした。体のどこにでも吸血昆虫が止まりましたが、蚊取り線香の上にだけは止まらなかったです。
 タイガを歩くのに、昆虫や、はり出した枝の他、沼地にも苦労しました。沼地を避けたつもりでもはまってしまいます。沈まない方法は、沈むより先に通り過ぎることです。それで、前を行く人に、「早く行ってよ」と言いながら、走り抜けようようとしますが、うまくいかず、膝までつかってしまうことがあります。もう、一旦、膝まで泥だらけになると、また沼があってぬかるんでも、「へいちゃら、もう私はへいちゃら、ルンルン」と歌って通り過ぎました。
しかし参加者の半分は、昆虫と沼に音をあげました。「もう、私達は、これ以上行きたくない、途中にバラック小屋も見たから、もうよいではないか、引き返そう」と大合唱しました。でも、「先に進もうではないか」と言う人もいたので、その人に加勢しなくてはと、私も「進もう、進もう」と大声をあげました。外国人のおばちゃんにしてはこの元気さが、後で、みんなから好かれました。結局2組に別れ、半数が最後まで行って、大きな収容所跡前で写真をとって来ました。こんなところで、何年間も強制労働させられ、いったいどんな人が生き残れたでしょう。夏の昆虫はともかく、冬の寒さ、そして多分、まずい食事、何よりも耐えがたい住宅環境と強制労働。
 帰りは、私とバヤニストのジェーニャと写真家のスラーヴァが迷子になり、この3人が一番遅れて本船に戻りました。もちろん全員確認するまで船は出航しません。

 6日目に、目的地の、タイミール民族自治管区首都のドゥジンカ市に着きました。ここは、ノリリスク市のニッケル鉱山会社の専用港で、ノリリスクが閉鎖都市になると同時に、ドゥジンカも閉鎖され、許可がなければ、外部の人は上陸できません。私達は、「アントン・チェホフ」号の乗客様ですから、許可されます。でも、国境警察のパスポート審査がありました。
 ドゥジンカでは北方民族博物館にいきました。北方少数民族のネネツ人が民族衣装を着て民族楽器を演奏したり、マンモスの牙のペンダントを売っていました。私のことをすぐ日本人と見破って、「コンニチワ」と日本語で話し掛け、「前に来た日本人は、日本にもシャマニズムがあると言っていたが」とロシア語で言い出します。
 ここではツンドラ見学もコースに入っていました。「私達は、ツンドラなんか見たくない。安くてうまいここの魚が買いたい、店に連れていってほしい。店だ、店だ」と言い出す乗客もいて、本当にロシア人らしいです。確かにエニセイ河中下流は魚の宝庫ですが、魚なんか、クラスノヤルスクでも売っているではありませんか、ツンドラは日本では見られません。
 ドゥジンカからノリリスクまで100キロのアスファルト道路ができていて、そこを途中まで、ツンドラ見物に、バスでいきました。凍土帯の上の舗装道路ですから、新しいと言っても、もう穴ぼこです。雪も残っていました。至る所、沼地でした。雪のないところには、ツンドラの低木や、ツンドラに生えるツツジやキイチゴ(名前はちゃんとメモしてきましたし、辞書には日本語も載っていますが、聞き慣れない名前なので省略)が生えていて、日本で言う「天然記念物」なのだそうです。それを知らなかったので、1、2本摘んでしまいましたが。

 ドゥジンカからさらに500キロもエニセイ河を下ると、遂に、北極海の一部のカラ海に出ます。河口の港はディクソンといって、昔はここまでクルーズをしていたそうですが、さすが、ここまでいくには、天候のよい日に限られていたそうです。ドゥジンカから、別便で、北極海を航海してヨーロッパ・ロシアのムルマンスクまでいく航路もあります。そこまで2800キロだそうです。ウラジオストックまでも行けますが、そのためにはタイミール半島の北を通らなくてはならないので、それは、もう、原子力潜水艦の世界でしょう。

 私達はドゥジンカから北へはいかず、ここから折り返します。帰りはさかのぼるので速度が遅くなります。でも、一日一度は上陸して、バーベキューと魚のスープ大会、魚釣り、中央タイガ自然公園「散策」、乗客と船員のサッカー大会と、私達乗客を楽しませるためのプログラムが組んであります。
 これらは、集落でないところに上陸するので、船着き場はありません。大きな「アントン・チェホフ」号は沖の方に停泊し、乗客はモーターボートでピストン輸送されます。モーターボートに乗ったり降りたりする時には、船員の男の子達が、手取り足とりしてくれて、なかなか好い気分でした。もちろん私は自力でスルスルと乗り降りできますが。私の3倍くらい体重のありそうなロシア婦人は、大変そうでしたよ。
 ところで、上陸中、トイレにいきたくなった時は、青空トイレはダメです。吸血昆虫がいますから、肌を出さないほうがいいです。船の、自分のキャビンに戻った方がいいです。モーターボートは何度も何度も行ったり来たりしてくれますから、何度もお世話になりました。

 カワススキや、マス、クラスノピョールと言うコイ科の魚が私でも簡単に釣れました。えさはミミズで、そのへんを掘って集めました。例のノリリスク鉱山会社経理部長と言う人が、私に釣り竿を貸してくれました。ミミズもつけてくれ、釣れた魚も、釣り針からはずしてくれました。釣った魚で小さいのは逃がすと言われました。私が釣ったのは小さなのばかりでしたが、せっかくこの私が釣ったのですから、レストランの厨房へ持っていってもらいました。まあ、その後どうなったか知りませんが。

 エニセイ河の水温は、クラスノヤルスク市では、40キロ上流にダムと発電所があって、ダムの底の、夏は冷たい水が流れてくるため、5度くらいの冷たさの水温ですが、この辺まで来ると、20度近くまで暖まります。冬はダムの底の暖かい水が流れてくるため、クラスノヤルスク付近の川の水は凍りませんが、この辺はもちろん完全に凍り付きます。つまり、クラスノヤルスクのダムの上流下流の100キロ余平方程の自然を変えたわけです。これは、大変な自然破壊です。
 それはともかく、クラスノヤルスク付近のエニセイ河では夏でも冷たくて泳げませんが、1000キロ近く北方の、コムサ地点の川岸では、案内の自然保護林管理者のおじさんが、19度の水温だから泳げると言ったので、水につかってみました。水着は持ってこなかったのですが、誰も見てない遠くの方まで行って、服をそのまま脱いで水浴しました。もう、そのころは、同じ一人旅で来ている、クラスノヤルスク・ホテル女性支配人のナージャと、いつも行動を共にして、水浴も、釣りも彼女と一緒でした。
 毎晩、船内の音楽室でピアノとヴァイオリンのコンサートや、詩の朗読会、バーで、クイズ大会、いろいろな出し物があったのですが、いつも彼女と一緒でした。食事のテーブルも一緒でした。
 一度、デザートが不味いケーキだった時、こんな不味いケーキは食べられない、代わりに別の物を持って来なさいと、レストランの支配人を呼んで、ナージャが申し付けました。これは、ちょっと私にはできません。彼女が言うと、申し訳ありませんと、よく冷えたウォッカとレモンを3人分持って、支配人が私達のテーブルに謝りに来ました。いつも、私達のテーブルは、これも一人旅の、片言ロシア語を話すオーストラリア人と3人でした。
 ナージャはクルーズ主催会社の招待客の一人で、つまり無料で、デラックスルームに泊まっていました。でも、その部屋にだけは冷蔵庫があったので、途中の漁村で買った半リットルのキャビアを保存してもらいました。漁村なんかでキャビアを買うとただのように安いです。クルーズが終わってから、彼女とは写真の交換をしました。

 シベリアを東西への運行は昔は馬車やそりでのシベリア街道、今ではシベリア鉄道があります。南北への運行は、冬はやむなく高価な空路ですが、夏は、もちろん河川運行です。でも、河川なので難所、浅瀬があります。エニセイ河の有名な浅瀬はカザチンスクといって、これがあるために、以前は、大きな船は手前のエニセイスクまでさかのぼれても、クラスノヤルスクまでは来られなかったそうです。
 浅いだけではなく、岩がごつごつと突き出ていて、川幅は狭く曲がっていて、流れは速いという難所で、所々に事故船の残骸が舳先を出して残っています。撤去なんて事はしないのでしょうね。その事故船残骸に草が生えたり、木が生えたりして島のようになり、「モデスト号」島などと昔の名前で呼ばれたりして、景観の1つになります。
 そのカザチンスク浅瀬を今では、「アントン・チェホフ」号のような大きな船でも通行できます。難所ですがエニセイ川でも最も美しい風景のところで、川岸の絶壁の木々も美しく、河のあちこちで渦を巻いたり、泡だっていたりしています。その、エニセイ河で一番だと言う名所を、乗客が見のがすことのないように、わざと昼間通ります。そのために、時間調整をして、前日、数時間も、河の中ほどに錨を下ろして泊っていたくらいです。そこはまだ緯度が低いので、真夜中の薄暗い時に通らないほうが安全だから、ということもあります。
 流れを下る時も早瀬のため、危険ですが、さかのぼる時は、もし、馬力の弱い船だったり、未熟な船だったりすると、流れに逆らって上りきれないことがあります。また、万一の遭難のときのためにも、この難所には常に、「エニセイ川・河川運行会社」の救助船が常駐しています。ここを通るときは、船長自らが舵を取り、みんな甲板に出て、船員は危険度を監視し、乗客は添乗員に言われるまま、美しさに見ほれていました。
 エニセイ河には、カザチンスクほどではありませんが、いくつか難所があります。各船は、大支流カーメンニー・トゥングスカ河がエニセイ川に注いで、川幅や水量がぐっと増える地点までは、「エニセイ川・運行会社」が毎春印をつける、赤や白のブイの示すとおりに、通行します。川幅が広くても通行できる幅の狭いところは一方通行で、船が行き違う場合は、どちらかが、待っています。
 エニセイ川は貨物運行が、今でも盛んで、荷物を積んだ平らな舟を、エンジンのある船が押していきます。平ら舟というのは、自前では動けないで、荷物の積み下ろしが容易なように大型いかだのような形で、荷物を積んで浮いているだけの船です。なぜ、引かないで押すのか、理由はとても簡単です.エンジンのある船が進むときには後ろに波ができ、もし、引いていると、その抵抗で平ら舟が速度を遅くするからです。平ら舟が前にあり、エンジンのついた船が後ろにあれは、推進力を邪魔するものが後ろに何もないので、効率よく走れます.
 クルーズ船ではない普通の客船では、乗客はほとんど商売人で、クラスノヤルスクなどで買った大量の野菜類を、野菜不足の北方へ運んでいきます.また、クラスノヤルスクで買った、中古の日本車や、タイヤなどの部品も、船の上甲板に積んで運んでいきます.クラスノヤルスクからドゥジンカまでの船賃は、片道食事なしで百ドルくらいもしますから安くはないです。「アントン・チェホフ」号の豪華食事観光つき往復の千ドルは、やはり安いです。普通の客船は、行きは3日半、帰りは6日かかるそうです。飛行機の半分以下の値段ですが、時間がとてもかかります。商人のように、手荷物が多い人は、船がよさそうです。「アントン・チェホフ」号のほうが、これら客船よりずっと速度は早いのですが、クルーズ船なので、観光しながら行くため、行きに6日もかかり、帰りは上陸・観光してもたった6日で来れるのです。
 途中何度も、いろいろな船と行き交いました。仲良しの船同士ですとお互いに汽笛を鳴らして挨拶します。
 1度、行き交うだけでなく、「イッポリート・イワノフ」号という客船が、「アントン・チェホフ」号より、しばらく後に、同じ船着場についたことがありました。クラスクノヤルスクのような大きな港なら、数台の船が直列に停泊することもできます。上流にある小さな港ですと、浮桟橋がひとつあるだけですから、平行に停泊します。後からついた船は、先についている船の横に着くので、上陸するときは、人の船の中を通り抜けていきます。別の船同士の乗客や船員がお喋りできます。
 先に着いた船が先に出発するときは、後からきて、横付けしている船にどいてもらわなくてはなりません。錨を上げたり下げたり、ロープをかけたりはずしたり、大変なことです。
 船が停泊するときは必ず舳先を川上に向けなければならないそうです。ですから、川下に出発するときはユーターンしなければなりません。船員さんに聞いて、物知りになりました。

 シベリア鉄道や、シベリア街道ができるまでは、南北交通だけではなく、東西交通も河川を利用していました.
 西のオビ河から、オビ河の支流を通って、西へ西へと川をさかのぼり、川がなくなれば、船を陸に揚げて、人力で、エニセイ河の東の支流まで引いていく、という方法です.しかし、人力で引いていくのは大変なので、運河を作りました.両河の支流をつなぎ、途中の湖など利用して、結局7、8キロ掘ってできたそうです。支流など利用した運河というのは(多分どんな運河でも)、浅かったり、流れが急で登れなかったりするので、必ず、 いくつか水門を設けて、水を入れたり出したりして、船を上げたり下げたりして通行させるそうです.オビ・エニセイ運河も、そうした水門を14作ったそうですが、小さい運河だったこと、シベリア鉄道が開通したことなどで、利用されなくなり、革命の国内戦のとき、破壊されて、今では、「アレクサンドル水門」とか言う地名と途切れ途切れの運河だけが残っているそうです.
 もちろん、そこまで、「アントン・チェホフ」号が行ったわけではありません.添乗員の郷土史研究家が時々、船内で「エニセイ史」の講義を開いて教えてくれたのです.それも、プログラムのうちでした。私は、最も熱心な聴講生でした.ロシア語での講座を聞いて100パーセントわかるわけではなく、あまり、質問してばかりでは、ほかの乗客にも迷惑なので、その講師の郷土史研究者から、本を借りました。この、「エニセイ川クルーズ」紀行文には、私が見たこと、体験したことのほか、彼らから聞いたこと、そして、それが間違っていないよう、その本を確かめて、書きました。

 クルーズの最後の日、お別れパーティーがあって、「ミス・クルーズ」が表彰されたり、「クイズ・物知り」賞や、「河原に落ちていた木や石で芸術作品を作った」賞、「サッカー」優秀賞が発表されました。その他、乗客を喜ばせる「賞」がいろいろあって、私には「誰よりも多くを体験した」賞が、あたりました。確かに、他の乗客は、上甲板で1日中日光浴をしたり、トランプしたり、ただビールを飲んだりしているところ、私は、主催者の用意したプログラムにほとんど参加したので、添乗員さんたちも、自分たちの努力に答えてくれた私が好ましかったのでしょう。何でも知ろう、見よう、体験しようの明るい元気いっぱいの外国人おばちゃんだったので、みんなから感心され、大事に扱われました。友達もたくさんできました。クラスノヤルスクに戻って、3日後、日本へ帰ってしまいましたが。9月には、また、再会できるかもしれません。

<あとがき>

 日本からクラスノヤルスクまでは飛行機の往復で600ドルですから、20万円ぐらいで、このクルーズに参加できます。もし、12日間も時間がなければ、一番北のドゥジンカまで行って、そこから飛行機でクラスノヤルスクなり、モスクワなりへ飛べばいいです。乗客の中で、モスクワの新聞社からきたグループは、忙しいのか、ドゥジンカから、飛行機に乗りました。

 このクルーズが採算が合わないからと停止になる前に、行っておいて、本当によかったです。今度は、モスクワ運河から北へ白海のソロベツキー島へのクルーズにいくのもいいです。モスクワからアストラハンまでのヴォルガ河クルーズというのもいいです。アストラハンから乗り換えてカスピ海クルーズもやってみたいです。クラスノヤルスク地方の南西隣のアルタイ地方にある温泉めぐりは、近場の一つです。実は、ロシア国内旅行で、まだ行ってないところといえばそれ以上は思い付きません。もちろん、大自然の中をリュックを担いで、コンパスを頼りに、馬に乗ってとか、犬ぞりで行くという本当の旅もありますが、いくら優秀な案内人がついても、私の体力では無理です。私の場合は、やはり、わずかでも、観光産業のあるところがいいです。完備しているところなら、もっといいですが。それに、あまり変なところに行って「国家安全委員会」に睨まれるのもまずいです。


金倉孝子シベリア紀行第二弾
『クラスノヤルスクからイルクーツク汽車の旅』


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