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【連載】Back in the USSR

第2回 伝説のロックスター ツォイ
     −ビクトル・ツォイ死後10年を迎えて−

 人気ロックバンド『キノ』のリーダー、ビクトル・ツォイが交通事故で亡くなって10年になる。若くして非業の最期をとげたツォイの歌は、いまだに若者たちに歌い継がれている。どことなくけだるい調子で歌うツォイの歌には、人の心をつかんで離さない何かがある。私も『キノ』のアルバムを何枚か持っている。日本ではほとんど知られていない伝説のロックシンガー、ツォイについてはいつかきちんとしたかたちで、『デラシネ通信』でも紹介していきたいと思っている。
 今回は昨年8月ツォイ没後十年を偲んで書かれた音楽ジャーナリスト、ニコライ・ソルダテンコフの書いたエッセイを一部抄訳するかたちで紹介する。これは生前からキノと交流のあった著者が、晩年のグループ内の対立、ツォイの孤立、さらには死の謎にも触れながら、彼を襲った悲劇が、ある意味で運命づけられたものであり、そのためにツォイが永遠のアイドルとなったことを冷静に書き記したものである。
 ビクトル・ツォイ、彼はイカルスと同じように、墜落することを余儀なくされ、伝説となることを定められていたのかもしれない。
 なお、彼が主演した映画『僕の無事を祈ってくれ』は、日本でも公開されている。

ツォイ没後十年

 8月15日アルバート街にある、ツォイ通りと呼ばれている小さな路地に一日中いろいろな歌手が集まり、ツォイの歌を歌い、酒を飲み、それぞれのやりかたで、彼の没後十年の記念の日を過ごした。
 翌日通りには静けさが戻り、「ビクトル、お前は神だ」、「ツォイは生きている」という落書きが書かれた壁の前には、新しい花束が捧げられていた。
 マスコミはこの日をねらったように、知人や評論家たちの回想やエッセイを掲載し、何故彼の歌が、あらゆる世代に受け入れられている謎にせまろうとしている。しかし私には、こうした問いかけへの答えは薄っぺらなものように思えてならない。いつの時代でも若いころ聞いた歌は、生涯つきまとい続けるのだという意見などは、特にそうだ。
 キノの歌には、今日でさえ人々を刺激する、捉えてはなさない何かエネルギーがある。そしてまた重要なことは、彼が新しい生命を生み出す前に、栄光の頂点にあった時に、悲劇的な最期をとげ、伝説となり、崇高なるシンガーになったということだ。

ツォイの変貌

 1987年に私は、雑誌の取材でツォイにインタビューをしたことがある。彼はゆっくりと、慎重に言葉を選び、何の感情も交えずに静かに語った。言っていることはありふれりことで、決して面白いとはいえないインタビューだった。まだマスコミの取材に慣れていないのか? しかしずっとあとのインタビューでも同じような調子だった。東洋的な謙虚さからなのだろうか? それともしゃべることよりも、書くことが向いていたのだろうか?
 彼を操っていたものがいたのではないか?

 1990年にかけて、キノはソ連のスーパースターにならんとしていた。レニングラードの小さなロックカフェから出発したグループは、何万人もはいるスタジアムで公演するようになっていた。一歩一歩確実に、大スターの道を歩んでいたのだが、彼らは全速力で疾走しようとしていた。この時キノのマネージメントを一手に引き受けるユーリイ・アイゼンシュピスは、そう語っている。このユーリイがキノ、特にツォイに与えた影響は大きい。
 ツォイについての回想の中で、マネージャーが、ツォイとだけコンタクトをとっていたと語っている者もいるし、ツォイ自身も真のロックスターとして生きること、キノの周辺で騒ぎがおこること、キノの親衛隊に囲まれる生活を好んでいたという者もいる。しかし残されたメンバーは、こうした生活を重荷に感じていた。まるでベルトコンベアーのような、空虚な生活にあきあきしていた。それゆえユーリイと他のメンバーの関係はさらに複雑なものになっていた。
 キノのアイドルの人生の最後の数カ月のなかで、彼はずいぶんと変わっていったし、それも決していい方向に変わっていったとはいえないと、キノの仲間のひとりは私に語ってくれた。彼のなかに傲慢さがうまれていった。他のメンバーのことが彼自身うっとおしく感じていたのではとも語っている。
 さらにツォイは映画にも主演し、彼は自分のまわりに映画関係者を集め、映画スターの道を歩くことにも興味をもっていた。彼は首都モスクワで、派手な新型のモスクビッチを乗り回していた。他のメンバーはペテルブルクに残り、それぞれ自分の仕事をこなしていた。お互いに疲労感を感じながらも、90年秋に新しいアルバムをつくる準備をしていた。彼らはまた集まってきた。しかしツォイはまだ来なかった。

ツォイは永遠に

 ラトビアに向かう人通りの少ない街道で起こったビクトル・ツォイの死は、不注意からおきたものだと言われている。公式発表によると、モスクビッチ2141型に乗っていたツォイは130キロのスピードで走行中、運転を誤り、路線バスに衝突したことになっている。1990年8月15日12時28分のことである。公式発表ではツォイは素面で、おそらく居眠り運転だろうということになっている。ツォイの父親の話では、前の晩、ツォイは魚釣りに湖にでかけ、戻ってくる途中で事故に遭ったという。そこまでの距離は15分ぐらいで、この程度の距離のため、人間は130キロのスピードを出して運転するだろうか、そしてそこで寝てしまうだろうかと父は、疑いをもっている。
 この悲劇のあと、この事故の調査を独自に行う人たちが何人も出て、マスコミを騒がせ、公式発表に疑いの目が向けられることになった。
 彼は夜なにをしていたのか? ただ魚釣りをしていただけなのか? 曲つくりをしていたのか? 薬でもやっていたのか? 誰かと会っていなかったのか? ほんとうに素面だったのかなどなどと。
 こうした疑問に答えることはできないし、これは重要なことでもない。もしも事故が起きなかったら、どうだったのだろう? キノはアルバムを録音し、海外公演をしたあと、解散して、十年後にまた再結成し、ツォイはまた歌づくりに励み、原点に戻ることになるのだろうか。
 出来事にはある論理があるといえないだろうか。
 それを導いた力は、ツォイが地上での自分の使命を実現できると感じたまさにその時に、見えないカーブで、イカルスの墜落を冷淡に演じさせた、私にはそんな風に思えてならない。


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