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【連載】海を渡ったサーカス芸人列伝

第3回 アドルフの描いた日本人芸人のポスター

浜村一座のポスター
アドルフともうひとつの日本人一座「岡部」

浜村一座のポスター

 これを読む前にだいぶ前になってしまったが、前回の「海を渡ったサーカス芸人列伝」をもう一度読んでもらい、そこで引用した『大阪時事新報』の「独逸の拘禁せる軽業師」の記事(1914年9月6日)をおさらいしてもらいたい。
 つまり第一次世界大戦勃発時に東京及び大阪から欧州に渡航した18組87名の日本人芸人が、この時代にそのまま欧州に居残っていたこと、その中で、沢田豊が所属していた横田組12名に次いで、名前があがっていた一座が「浜村組七名」であったことを、ここで思い起こしてもらいたいのだ。

 最近、偶然この「浜村組」のポスターと出くわす機会に恵まれた。
 このポスターを見せてくれたのは、東阪企画社長澤田隆治氏である。澤田氏は、いうまでもなく「てなもんや三度傘」、「花王名人劇場」などの人気テレビ番組をつぎつぎに生み出した辣腕プロデューサー、お笑いブームの仕掛け人としても知られている人だ。澤田氏はお笑いだけでなく、いわゆる「色物」にも造詣が深く、特にマジックに関してはさまざまなコレクションもお持ちで、世界中のマジシャンと交流も深い。マスクマジシャンを日本で売り出した影の仕掛け人でもある。
 今年になって澤田氏と仕事のことでコンタクトをとりはじめたのだが、ある日「パリの友人から、日本人のサーカス芸人のポスターを貰ったのだが、そこにハマムラと書いてある。ずっと気になっているのだが、君は彼らのことを知っているか?」と聞かれた。
 この時はすぐに、「ドイツに拘禁された芸人」に彼らの名前があったことを、思い出せなかった。あとで、この記事に彼らの名前があったことを確認したあと、澤田氏に連絡し、とにかくこのポスターを見せてもらうことにした。

ポスター「THE HAMAMURA FAMILY」

 ポスターはA全のポスターを横にしたぐらいの大きさだった。「THE HAMAMURA FAMILY」と書かれたタイトルの下、七人の男たちが、あでやかな着物に白い帯をし、これまた白い脚拌のような靴下をはいて、並んで描かれている。芸をしているのではなく、ただポーズをとっているだけなのが、ちょっと残念。両脇に10歳前後の子供たちが3人立っている。子どもが入っているということは、人間ボール、いわいる「人間蹴合」といわれた、仰向けになった大人が、足で子供たちをボールのように蹴りとばすような芸もやっていたのかもしれない。
 七名という数字と「ハマムラ」という名前から、このグループが、「ドイツに拘禁された芸人」の中でとりあげられている「浜村組七名」と同一と見て、まちがいなさそうだ。

 このポスターをいろいろあっちこっちから見ているうちに、右下に「ADOLPH FRIEDLANDER HAMBURG」と書かれた文字が目に入った。このポスターをデザインした画家の名前であることは間違いない。このアドルフという名前は、どこかで目にした気がしてならなかった。

ポスター右下のアドルフの署名

 「なんかわかった?」と尋ねる澤田氏に、「このアドルフという画家の名前に見覚えがあるのですが」と、その時は曖昧に答えたのだが、その時一冊の小豆色をした文庫版ぐらいの小さな画集が目に浮かんでいた。確かベルリンに行ったときに買い求めた本で、サーカスのポスター集だったはずだ、そのなかにアドルフという名前があったような気がしたのだ。

アドルフともうひとつの日本人一座「岡部」

 家に戻り、早速本棚からこの本を取り出して見ていたら、「幕が開いた アドルフ・フリートレンダー所蔵のアーティストとサーカスのポスター」という表題がついていた。まちがいなく、「浜村」一座のポスターを描いたのはこのアドルフ・フリートレンダーであったわけだ。
 このポスター集には「浜村」のポスターは収められていなかったのだが、「ドイツで拘禁された芸人」にも出てくる「岡部組七名」と思われる「OKABE」のポスターが入っている。このポスターは、ただポーズだけをとっている「浜村組」とはちがい、岡部一座が演じた芸をデザインしている、なかなか貴重な資料である。
 「THE OKABE FAMILY」とタイトルがつけられたこのポスターは、この本の解説によると「カラーリトグラフで65×89.5センチの大きさで、1898年または1899年」に制作されていた。
 肩芸、足芸、坂綱、羽根だし、くだけ梯子など、日本古来の十一の伝統芸が富士山をバックにレイアウトされたなかなか壮観な絵柄になっている。
 さらに次のようなコメントもこのポスターにはついていた。

 「日本出身のオカベグループは、極東の有名なグループの一つで、何回もポスターになっている。このポスターでは、典型的なアーティスティックな技術をフジヤマの書き割りの前で演じている姿が描かれている。他の中国や日本のアーチストグループもフリースレンダーに宣伝用に独特なポスターを作成してもらった。描かれた技術や衣装の美しさやポーズの品位により説得力が感じられる。
 19世紀末ごろ、中国や日本のグループは繰り返しヨーロッパのサーカスにやって来て、芸(アーティスティック)の様々な分野に重要な刺激を与えた。極東のアーチストは特にバランス芸、床運動の平均技(Parterreakrobate)、ジャグリングで輝いていた。すばらしいイリュージョンもこの国々ではとても有名で、Chung Ling Sooやオキト(Okito)のような評判の良い魔術師が(元来は西欧出身者なのだが)極東の芸名を使って世界的に有名になった。
 極東からのゲストによる、独特で、民俗(民間伝承)の範囲で演じられる、大昔からの伝統を基礎とする芸(アーティスティック)は、サーカスやヴァリエテで大きな感動を呼んだ」(大塚仁子さんの訳による)

 このポスターが制作された年代が、1898年または99年とあるが、そうなると岡部たちは、第一次世界大戦時にドイツにいたということは、15年以上も海外で働いていたことになる。
 気になるのは、「浜村」と「岡部」の日本人芸人一座のポスターを描いたアドルフ・フリートレンダーのことである。
 この男、一体何者だったのだろう。もしかしたらこのフリートレンダーのことを明らかにすることで、海を渡ったサーカス芸人たちの足跡をたどるヒントになるかもしれない。
 次回は、「幕が開いた アドルフ・フリートレンダー所蔵のアーティストとサーカスのポスター」の序文から、このサーカスポスターの第一人者のことを紹介したい。

2002.01.15 追記

 先日ハマムラの子孫の方から、このポスターに描かれているのは、自分のひいひいおじいちゃんだという連絡をいただきました。
 これはまさに私にとっては新年早々衝撃的なニュースとなりました。この知らせを受けて、メールでいろいろやりとりをしたのですが、昨日電話で初めて、話をすることができました。
 話を聞く限り、このハマムラファミリーを手がかりに海を渡ったサーカス芸人たちの足跡がかなり明らかになるかもしれないという手応えを感じております。連絡をしてきていただいたのは、濱村太郎さんという方です。 
 まずこのグループは『濱村一座』であることがわかりました。太郎さんのひいひいじいさんにあたる人は、保門(ヤスカド)という人で、これも海外に渡ったサーカス芸人で、ずっと気になっていた岡部と一緒に、マネージャー格として、海外に出たということです。
 濱村保門は、京都の出身ということです。
 太郎さんの親戚の方のもとには、まだ写真とか手紙とか残っている可能性もあるとのこと、太郎さんご自身も自分のルーツのことに大変関心があるようなので、今後は協力して、その足跡を追っていくことになりました。
 ということで、『海を渡ったサーカス芸人列伝』は、再び連載を再開し、逐次この調査結果を報告したいと思ってます。

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