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特 集
ロシアエトランゼの系譜
−ベルチンスキイの生涯−

ベルチンスキイ
ベルチンスキイ(写真拡大 22.5KB

第1回

 革命前のモスクワ。ペトロフスキイ劇場の小さな舞台に、黒いピエロの衣装を身にまとった、ひとりの背の高い、痩せた歌手が姿を現した。白塗りの顔に、真っ黒な眉、そして真っ赤な口紅が塗られていた。彼はゆっくりと手を上にあげながら、静かに歌い出した。
 彼が歌う唄は、小さな物語だった。ロマンスと呼ばれる叙情歌の伝統を受け継ぎながら、彼がつくった歌には、エトランゼの香りが漂っている。のちに、「小アリア」、「悲しいピエロの唄」と呼ばれた彼の歌は、口から口へと歌い継がれていくことになる。「黒いピエロ」は「ロシアのピエロ」と呼ばれるようになる。突如出現した「ピエロ」アレクサンドル・ベルチンスキイは、革命を直前にひかえたモスクワでセンセーションを巻き起こす。
 彼の成功は、望んでいた名声を、そして輝かしい未来を約束してくれたはずだった・・・

 ベルチンスキイは、1889年4月2日キエフで生れている。孤児だったベルチンスキイの少年時代は困窮との闘いだった。学校も途中で退学しなければならなかった。生活のため校正の仕事や、スイカ運搬、郵便配達などしながら生計をたてていた。こうした苦しい生活を支えたのは、詩を書くことであり、歌を聞くことであった。苦しい生活を脱して、名声を手にしたい、それが彼の夢であった。この夢を実現するために、23才の時に彼はモスクワに向かう。モスクワ芸術座の試験を受けて落ちるのだが、「マモノフスキイミニアチュール劇場」という一種のキャバレー劇場で職を得ている。ここでベルチンスキイは、短い小話や、風刺をきかしたパロディーなどを演じ、評論家たちから注目されるようになった。
 成功の道が見えかけたとき、突然この仕事をやめ、病院列車(戦時中にあった)で、包帯つくりをすることになる。のちにベルチンスキイは、ここで3万5千個の包帯をつくったと回想で語っている。
 前線から戻り、再び観客の前に現れたとき、彼ははじめて黒いピエロの衣装を着て、バラードを歌う。これがスキャンダルスな大成功をもたらすことになった。彼の唄は、モスクワの街でまたたくまに広まり、彼を真似する人たちが何人も出現するようになる。黒いピエロの流行をこころよく思わず、これを頽廃主義だとか、デカダンとか、麻薬といって厳しく非難する批評家もいた。
 ベルチンスキイ自身は、こうした声に対して、「自分の芸術は、自分の生きた時代を反映したものだった」と回想している。
 ベルチンスキイはさらにレパトリーを増やし、ソロ公演で各地を巡業し、ロシア全土で知られることになる。しかし1917年に勃発したロシア革命が、彼の運命を大きく変える。
 1919年ベルチンスキイは、モスクワを去る。ウクライナ、南ロシアを巡業するこの旅が、まさか果てしない旅のきっかけとなることなど、彼自身思ってもいなかった。ヨーロッパをめざす亡命者の波にのまれた彼は、1920年トルコにたどり着く。
 「コンスチノーブルからはじまり、上海で終わる亡命者生活は、長く辛い日々となった」と回想しているように、モスクワを去った日から、「ロシアのピエロ」の前には、長い茨の道が待ちかまえていた。
 ベルチンスキイは、ルーマニア、ドイツ、フランス、アメリカ、そして中国と、ある時は小さな楽団とともに、ある時は一人でギターを抱えて、古いロシアのロマンスや、ジプシーの唄、そして自分のつくった曲を歌い続けた。
 ノスタルジアが、彼の新しい詩神になった。唄は小さなバラードになった。こうした唄の中で歌われたのは、クラウン、コカイン中毒者、キャバレーの踊り子、放浪者、芸人、ヒモといった底辺で生きる人々だった。
 ベルチンスキイが歌う人物はみんな恋をし、苦しみ、幸せを夢見ながら、人生の荒波にもがき、そして辛い仕打ちをうけ、泣き暮れていた。
 エトランゼとなったベルチンスキイは、ピエロの衣装を脱ぎ、白いシャツに黒のタシキードに身をつけていた。
 彼は亡命社会のスターとなる。パリ、ロンドン、ニューヨークで彼は、盛大な拍手で迎えられる。いつの間にかベルチンスキイは、「エストラーダ(演芸)のシャリャーピン」と称された。
 彼の唄に、革命ロシアを捨てた亡命者は魅了されたのだ。世界各地を公演していたロシアバレエ団のディアギレフ、フォーキンのほか、シャリャーピンらも彼を絶賛した。
 しかしベルチンスキイ自身は、こうした成功の絶頂にいた時にも、故郷ロシアヘ戻る夢を見続けていたのだ。
 ソビエト政府に宛て、彼は帰国嘆願の手紙を何通も書き続ける。
 「どうか私を故郷に帰してください。お願いです。どうぞ帰してください。魂はロシアに、祖国に焦がれているのです。そこが、たとえいま、飢餓と寒さに苦しんでいる大変な状況であっても」

 そして彼は1943年やっとロシアへの帰国が認められる。およそ四半世紀、25年にわたる流浪の旅は終わりを告げた。
 ベルチンスキイの目に、故国はどう映ったのであろう。
 ソビエト連邦は、戦争の真っ直中にあった。人々は飢えに苦しみ、家族を失い、辛苦に耐えていた。ベルチンスキイは、傷病兵や孤児のためにたくさんのチャリティーショーを開いた。シベリア、極東、アジアまで彼は出かけた。ソ連全土で彼は3千回以上のコンサートを開いた。声が枯れるまで、歌い続けた。彼の唄が、人々の心に炎を燃やすことを信じて・・・。
 でも彼が歌ったのは、ソビエト連邦のためではない、以前と同じように「彼が信じるロシア」のため、彼が愛する母なるロシアのため歌い続けたのである。
 しかし新聞は沈黙し、レコードも出されず、楽譜や詩も出版されることはなく、ラジオで放送されることもなかった。
 公式筋からは全く認められなかったことに、ベルチンスキイは傷つけられたが、でもスターリンの粛清の嵐から逃れられたことは、奇跡といってもいいかもしれない。世紀末のデガダンスの香りを引きずりながら、彼が生き延びたことは、ひとつの伝説となっていた。
 1957年5月21日ベルチンスキイは、68年の数奇な人生に別れを告げた。
 彼は「30年か40年経ったら、私の作品は忘却の地下室から引き出されることになる」と信じていた。この予言は的中、70年代に彼のアルバムや自伝が相次いで出され、ベルチンスキイは蘇るのである。
 彼の娘で、モスクワ芸術座のスターだったアナスターシャ・ベルチンスカヤは、父親のアルバムの解説でこう書いている。
 「父の詩、音楽、唄、これはロシアデカダンス時代の傑作だった、そして父は「ロシア銀の世紀」の最後のスターだった」


 革命前のモスクワに突如現れたひとりの詩人ベルチンスキイの足跡を、断片的になるかもしれないが、彼が書いた自伝を通じて追いかけてみたい。


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