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エッセイ
神彰と函館 後編

大陸の夢をのせて−ドン・コサック招聘秘話
死の予感
万平追跡
万平と幻談義
立待岬の墓

大陸の夢をのせて−ドン・コサック招聘秘話

 函商卒業後1943年ハルビンに渡った神は、現在の日本交通公社の前身となる東亜交通公社に勤務しながら、絵描きになる夢を育んでいた。
 しかし満州国崩壊、日本の敗戦によって、終戦後まもなく神は大陸から引き揚げる。その後神は、一時函館新聞で働いていたこともあったが、絵描きになる夢をあきらめきれずに上京、荻窪のアパートをアトリエがわりに絵の勉強に励む。しかしいたずらに時間だけが過ぎ、絵描きとして生きるあてもなく、ぼんやりと過ごすことが多くなる。神自身、目的を失いかけていた。でもどこか心の奥でなにか疼くもの、渇きがあった。なにかをしたい、でもそれがなにかわからなかったのだ。
 荻窪のアパートを訪れていた常連のひとり、満映につとめ、バイコフの『偉大なる王』の翻訳者としても知られた長谷川濬と一緒に酒を飲んでいるときだった。長谷川がロシア民謡「バイカル湖の畔」を朗々と歌い出した。なにかに飢え、そして渇いていた神の心に、この歌は沁みた。神は、「いい歌だなあ、誰が歌っているの」と長谷川に尋ねる。ロシア通の長谷川は、「なんていってもドン・コサック合唱団じゃないか、放浪の合唱団で、いまは革命で国を追われているはずだ」と答えると、いままでベットに仰向けになり、天井をじっと見つめていた神が急に立ち上がり、「濬さん、それだよそれ、そのドン・コサック合唱団を日本に呼ぼう」と叫ぶ。
 こうして興行のズブの素人が、ドン・コサック合唱団を呼ぶことになるのである。戦後焼け野原となった荒れ果てた日本で、人々は心を癒すなにかに求めていた。放浪の歌人たちドン・コサックの歌声は、こうした日本人の心を揺さぶったのだ。公演は大成功に終わる。
 そして神彰は、呼び屋として一躍その名を轟かせることになるのである。
 画家から呼び屋へ生まれ変わった神の人生は、ここから大きくカーブを描きながら、まさに波瀾の道を突き進むことになる。
 およそ7年あまりの呼び屋時代が、神彰という異能者の個性、資質を最も発揮できた時だった。彼は「戦後は終わった」といわれ、安保闘争をはさみ、高度経済成長を迎えたこの時代を全力疾走で駆け抜けることになる。
 これについては、近く刊行される拙著『幻を追った男(仮題)』を読んでもらうことにして、ここでは神と函館をつなぐ赤い糸の行方を、見ていくことにしたい。
 栄光の座からどん底へ落ち、そこからまた這い上がり『北の家族』をオープンさせ、成功者となった神の心は、再び函館に向かっていた。
 神を再び函館に呼んだもの、それは少年時代、大陸への夢を紡むぐきっかけとなったあの乞食詩人万平だったのだ。

死の予感

 居酒屋チェーン店『北の家族』が成功し、悠々自適の生活を送っていた神だったが、天は彼に長い休息を与えることはなかった。胃ガンに罹った神は、胃の大部分を摘出する手術を受ける。退院後神は浅草でアートフレンドのかつての同僚らを招待し、オペラ歌手の佐藤しのぶもゲストに呼んで、盛大な快気祝いをし、その健在ぶりをアピールした。しかしこの手術を通じて、神は自分の死が近づいていることを知る。そしてまもなくやってくる自分の死に向かってひそかに準備をはじめるのである。この時から、彼にとって函館が再び身近な存在となる。
 神は、しばしばふらっと故郷函館にやってくるようになった。函館を訪れる神が一番心おきなく接することができたのは、小学校時代の同級生佐藤富三郎であった。
 函館で佐藤と会うときが、神にとっては心が休まるときだった。
 ある時神は佐藤を誘い、青森の岩木山に出かけている。ここは神家発祥の地でもある。岩木山麓の神社で、津軽三味線の大規模なコンサートもあったこともこの旅にでかけるきっかけになったのかもしれないが、一度自分の家のルーツの地を訪ねたいという気持ちになったのだろう。
 この旅のあと、同行した佐藤に神はこんな手紙を送っている。
 「俗塵を外に、紅葉を訪ねての遍路は岩木山に祖先の息吹を感じ、心身ともに洗われるようで、何かしら昔の人たちに呼びよせられたようです。
 アイヌの音楽に魅せられ、津軽三味線のバチさばきに東北人の寒気と貧に耐えた音が身に沁みて我が身も顧みることしばしばです。・・・楽しい旅をさせて戴き感謝致しております。  平成五年十月七日」
 このふたりは、山形の上山温泉も旅している。この時のことを佐藤はこう思い起こしている。
 「ホテル古窯の18万する部屋に案内されたんでびっくりしてね。全部檜でできた風呂や茶室のほかにも部屋があったなあ。居心地が悪くて、廊下に布団を敷いて寝ましたよ。る。別にね、酒飲んでも、話すことはないだよ。ただ黙って酒を傾けるだけ。でもなんかうれしくて、一晩中起きて、酒を飲みながら句をつくったね。一晩で24の句をつくりましたよ。神さんに見せると、ほめられて、それがうれしくて、子どものように喜んだのをいまでも覚えてますよ」
 神はきっとこの佐藤のわれんばかりの笑顔を見て、心が洗われるような思いを抱いたのではないだろうか。なにもしゃべらなくてもいい、こうしてじっと酒を酌み交わすことで、神は安心し、ゆっくりと心を休めることができたのだろう。
 翌年二月佐藤の元に届いた神の手紙にはこんなことが書かれてある。
 「又、おめにかかり世間話などを肴にイカの刺身などつまみながら一パイやりたいものです。
 万平は今秋にでもとゆっくりとやりたいと計画しているところです」

万平追跡

 胃の大手術をしたあと、自分の死を強く意識し始めた神を、再び函館に呼んだもの、それは、佐藤という気のおけない友人がいたこと、そしてもうひとつは万平の存在があった。晩年の神にとって、この乞食詩人の存在は大きな意味をもつことになる。
 石川啄木に「むやむやと 口の中にてたふとげの事を咳く 乞食もありき」という歌があるが、この乞食が、明治から大正にかけて函館の名物男として知られた万平であった。万平は乞食であったが、人から恵んでもらうのではなく、毎朝ごみ箱を探し、食を得るという気骨をもっていたという。そればかりでなく、ごみ箱から判断したその家の人物評を日記風に書き残していた。万平が残したメモのひとつを紹介しよう。

 「十一月一日(明治39年)今朝好天気なれば先以て山田邦彦君(函館区長)の芥箱を探しにゆく。流石に山田君の夫人は、文明の空気を吸われつつあり、豚の脂身一塊、大根の皮と共に捨てられたるは、西洋料理の稽古最中と覚ゆ・・・」

 乞食であっても気骨を失わず、どことなく人をくったようなユーモアをもったこの乞食の一端がうかがえる。
 函館のロシア人墓地の近くにある地蔵寺には、いまでも万平塚が残っている。これは、大阪から所用に来た鉄工場主藤岡惣兵衛なる男が、万平にタバコの火を借りようとした時に、「帽子もとらずに」となじられたが、その人柄に感じ入り、大正4(1915)年万平の死後、供養塔として函館の知人の協力を得て建立したものである。
 佐藤の話によると、神は万平の資料を集めるほか、函館に来るたびに、万平の足跡を訪ね、市内を歩いたという。
 神はこの乞食のどこに惹かれていたのであろう。佐藤の話では、神は母親から、よく万平の話を聞かされていたという。神の母は、万平が朝ごみ箱を探しに来るのを知って、いつも食べ物を用意していたのだ。子供心に万平のことが神の心に強烈な印象として刻みこまれていたのだろう。
 そして幼年のころ母から聞いた思い出が、死を意識した神の心にまた蘇ってきたのは、人間の本質が、余計なものを削ぎ落としたなかの裸のもの、素朴なものにあることを悟ったからではないだろうか。

万平と幻談義

 神彰は、『怪物魂』と『天機を盗む』という二冊の自伝を書いているが、いずれもゴーストライターが書いたもので、彼本人が書いたものではない。唯一彼が自分で書いたのは、雑誌『せきえい』に八回にわたって連載した『幻談義』という連作エッセイだけだ。『幻談義』は、レニングラードフィルを呼ぶために、狸穴のソ連大使館を初めて訪ねた時の思い出から始まり、放浪画家長谷川利行のこと、さらにはこの画家を発掘した、友人の画商木村東介の思い出などが、自在に語られている。
 連載一回目で彼がとりあげたのは、放浪画家長谷川利行。「おれに絵を描かせろ」と泣き叫び、養護施設でひとり死んでいったこの男の絵に、このころ神はとりつかれていた。かつて画家を志したこともある神が、なぜ長谷川利行に惹かれたのか。この画家も、また乞食同然、放浪していたことを思うと、神が晩年に抱いていたひとつの観念のようなものがほのかに見えてくる。利行の絵に吸い込まれるその魅力を神はこう書いている。

 「浮世の仮の姿、形には表れぬ魂の棲み家を画布に取り込もうと一心に願う画家の現実を超え、追求する純な魂は、そのまま幻の作業であり、芸術家といえる真の姿なのではないかと胸を打つのである」
 またこうも書いている。
 「この世に姿を留めぬものをとらえて表現しようと追求し、苦悶し、嗚咽した無垢な魂を持つ、この画家の生きざまに私はふと感じるものがあって唖然とした。自分は、芸術という衣を纏い、芸術という香水をふりかけて、いかにも芸術志望者らしく振る舞っていたのではないのか。「幻」を求め、とらえようと真剣にとりくむ魂に化粧は無用のものである。
 『捨てることだ!』」

 呼び屋として「幻」を追い続けた神にとって、いつもこだわっていたのは、ほんものを呼ぶことだった。ほんものにこそ、真の芸術の魂があったからにほかならない。しかし興行という生き馬の目を抜く世界で、さまざまな演出をしながら、マスコミの目に触れやすいようにしながら、多くの客を呼ぶこともまた彼の仕事であった。呼び屋とは虚業家の最たるものである。虚飾に彩られた呼び屋人生を振り返りながら、死を意識しはじめた神は、純なもの、素朴なもの、そのなかにかつて自分が求めた幻を見てとったように思える。 ほんものの魂は、虚飾を捨てたところにこそあった。乞食詩人万平や放浪画家長谷川利行のなかに、神がみたものは、虚飾を頑に拒み続けた純なる魂であったといえる。
 さてこの『幻談義』なのであるが、三回目以降は、万平を主人公としたフィクションになってしまう。
 「せきえい」の元編集長安井努はこのいきさつをこう語っている。

 「自由に書いてくれとは言ったのですが、三回目から突然万平が主人公の小説になってしまったので、こりゃ、ちとまずいなあと思ったのですが、神さんはのめり込むように書いていましたね。万平がひとり歩きはじめ、最初の構想とずれてくるわけです。いろいろこのあとの構想を聞かされたけど、さっぱりわからななかった。あまりにも荒唐無稽になりすぎると注文をだしたら、臍を曲げられてしまい、もう神さんは原稿を書かなくなりました」

 編集者として安井はずいぶん我慢強く対応したと思う。『幻談義』は「『乞食詩人萬平」の幻を追って」と題された三回目から、まったくちがう話になってしまう。万平は神彰の想像の世界のなかで大きくふくらんでいった。三回目では、乞食詩人になって函館にすみつくまでのロシアでの話が綴られる。ここで万平はチェーホフと出会い、文学談義をし、ナスターシャという女性と恋に落ちる。一緒に日本に帰る途中の船のなかで、ナスターシャは死ぬ。万平は、恋人を失った傷心を抱きながら、函館で暮らすことになっている。
 これだけだったらまだよかったと思うのだが、四回目は『萬平とチェーホフの邂逅」、五回目が「萬平と『どん底』」とロシアでの万平と文豪たちとの出会いを書き、さらには六回目からは、何故か万平が大谷探検隊の一員としてシルクロードを探検することになり、「萬平と『絹の道』探検」、「萬平と楼蘭流砂」と続く。最後の八回目は「萬平と楡の木の家(上)」と題され、シルクロードの旅から、ハルビンに戻り、かつて世話になった老婆と再会するところまでが語られている。
 万平が函館に住み着く以前の話は、神の満州時代の思い出と重なりあわされている。 確かに自分が担当編集者であったなら、シルクロードに行くまでに、ちょっとやめてといいたくなるところだ。
 ただ大事なことは、ここで荒唐無稽になっているとはいえ、神のなかで話の主旋律は変わっていなかったということだ。
 それは『幻』を追うことだった。
 例えば「『乞食詩人萬平」の幻を追って」のなかで、恋人のナスターシャが死ぬ直前に残した言葉は、「ヴィージェラ プリーズラク!(幻を見たわ!)」だったし、未完に終わった「萬平と楡の木の家(上)」は、「萬平の胸を去来するのは砂漠の上に幻のごとくに浮かんだ、姿の見えないものへの追憶であった」で終わっている。
 神彰にとって万平は、姿の見えない「幻」を追い求めた自分の人生を仮託させるものに昇華していったように思えてならない。
 平成八年二月十六日付けで神が佐藤富三郎に宛てた手紙に、こんな一節がある。
 「純な気持ちを持ち、あの世まで持って行きたいものです。春遠からじ・・すこしあたたくなったら出掛けます。この頃年のせいなのでしょうか。一合ぐらいはおつきあい出来そうです。過ぎし時を思い出すと嘘のようになりました。お互い元気でゆくよりしよがない・・彰拝」
 神彰が、鎌倉の病院で息を引き取るのは、この手紙を書いた一年半後のことである。

立待岬の墓

神彰の墓 神彰の三回忌の二日前、2000年5月26日私は立待岬を訪れた。ここを訪れるのは二回目だった。前に訪ねたときは、雨にたたられ、立待岬からは何も見ることができなかった。しかしこの日は青空が広がり、眺望もよくきき、海に囲まれた函館の街が一望できるほか、遠く青森まで見わたすことができた。
 神彰の墓は、立待岬の手前、石川啄木の墓がたっているところから、4、5メートルおりたところにある。神家の大きな墓の脇に、小さな白い墓がひっそりと立っている。ここに神彰と、二番目の妻義子が眠っている。自我を貫き通し、破天荒な人生を送った男の墓にしては、遠慮がちに立っている、この小さな墓のかもし出すたたずまいが不思議な光彩を放っている。ふたつの墓の回りの草はきれいにとられ、花が生けられてあった。神彰の墓には、野の花がいけられているのが印象的だった。三回忌を前に誰か親戚の人でも掃除したのだろうか。
 墓石には、義子の戒名「観義院彰節算命大姉」、神彰の戒名「観彰院風雪想尓居士」の字が彫られている。昭和五十一年十二月二十二日義子没後三年神彰入という字が裏に見える。義子が死んだときから、神は、同じ墓で眠ることを決めていたのであろう。
 墓がある小さな丘から、太平洋と函館の町を一望できる。ここに立ってみると、神彰という男が、つくづく海が好きだったこと、そして函館が好きだったことがわかる。
 死を覚悟し、鎌倉に引っ込んだ神が暮らしていた家を訪ねたことがあるのだが、そこも高台にあり、湘南の海を見下ろせるところだった。日の当たる縁側でひとり座りながら、神がじっと海を眺める様子が目に浮かんできた。海を見ながら、神はどんな幻を見ていたのだろう。
 ここから見る函館の街は、どこか人を包むような優しさがある。例えば函館山の上から見下ろす街の風景は、もちろん美しいのだが、あくまでも遠くから眺めるもの、そんな距離感があるのに対して、神が眠る丘から見る函館の街は、少し手を伸ばせば、抱きしめられる感じなのだ。しかもここにいると海のざわめき、風のうなり、かもめの鳴き声がすぐそばに聞こえてくる。ここから離れがたくなっている自分にふと気づく。そしてなぜ神がこの場所を永眠の地として選んだのかわかるような気がしてくる。
 神彰は、函館という自分が愛した街をひっそりとそしてずっと抱きしめていたかったのではないだろうか。
 海から吹いてくる風に、神の墓前に飾られた野の花が静かに揺れていた。


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