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神彰参考資料1
朝日新聞「惜別」欄の記事

 1998年7月1日朝日新聞夕刊の惜別というコーナーで紹介された記事

元国際プロモーター  神彰さん
5月28日死去、75歳、6月20日告別式
行動力で大物の公演実現
 紺色に輝くクライスラーを小道具に、あっという間に三千万円も借りまくったんだ―――。七年前、取材で三カ月ほど通い詰めたとき、最初に驚かされたのは、その錬金術の話だった。一九五三、四年当時のことである。
 描いた油絵が売れず、東京のアパートで、仲間とホラ話をしては、憂さを晴らす生活が続いていた。ある日、仲間の一人がロシア民謡を口ずさんだ。歌うのは欧米で人気を博しているドン・コザック合唱団だという。日本人も必ず熱狂する、と直感した。
 国際電話で直談判し、来日の了解を取りつけた。だが金はない。友人たちから小金を集め、それを元に銀行から借りた。そして、当時は珍しい高級外車を買い、大金を貸してくれそうなところに乗りつけたのだという。
 「呼び屋」、いまで言うプロモーターだった。五〇年代半ばから六〇年代末にかけて、ボリショイ・バレエやレニングラードフィル、アート・ブレイキーなどを次々呼んだ。物おじしない一人の青年が、体当たりで話をまとめ上げる。「戦後の日本で起こった奇跡のひとつ」と、大宅壮一は評した。
 海産物商の四男で、旧制函館商を卒業し、旧満州に渡った。引き揚げ後、郷里の新聞社に就職したが、学生のころから抱き続けた画家への夢は断ちがたく、五〇年、上京した。
 「呼び屋」の仕事柄、好不調の波は激しい。彼も挫折と再興を繰り返した。一時マスコミの表舞台から姿を消したが、七三年、居酒屋チェーン「北の家族」を開いて復活した。ブームの先陣を切ったとき、周りは「やっぱり」と、その才覚に納得した。
 喪主は長女で作家の有吉玉青さん(三四)。二年で離婚した作家、故有吉佐和子さんとの間の一粒種だ。嫌いで別れたわけではない。有吉さんの作家活動に支障がないようにという、強引な配慮だった。八年前、二十五年ぶりに父娘は再会した。
 玉青さんは告別式で、こうあいさつした。「初めはジンさんと呼んでいましたが、『おやじ』になりました。彼が父親だからではありません。『おやじ』を好きになったからです」
 かつて時代の寵児ともてはやされ、怪物とまでいわれた男は、がんと闘った晩年、まな娘にありったけの思いを寄せる普通の父親になっていた。(社会部小野高道)

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